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1.ひきこもり魔王と居候

 夜とはいえない。

 打ち付けられた木の板の隙間からわずかにこぼれ出る光は、薄い闇を入り口広間に作り出していた。

 城と言って差し支えないほど大きな屋敷は外から見る以上に風化してしまってここしばらく人の手が入った気配がない。

 薄闇の中でほんやりと浮かび上がる輪郭は、すでに朽ち果てかかっている彫像や壁に据え付けられた飾り用の剣などでしかない。その中できらりと周囲に光を振りまいているのは見上げるほどの高さの天井にぶら下がるシャンデリアだった。その光とて周囲を照らせるほどではなく、なんとか左右に広がっている吹き抜けの階段の一番上までがうっすら見えるという程度だ。

「えーと。ここがそのぅ魔王さんちでしょ~か?」

 そんな薄暗いエントランスに、かなり場違いな間の延びた声が響いた。

 少女のそれにしてはいささか低い。とはいえ成人男性というには甲高い声には緊張感の欠片も見いだせはしない。

 薄暗く陰鬱な空間は、本来ならば恐怖のひとつも沸きたてる役にもたつのだろう。もっさりと積もった埃とはめ殺されて光をほとんど通さない窓。一歩進むごとにもわりと舞う埃はまるで人間という生き物を完全に拒絶しているかのようだ。

 けれどそこに立っている人影はまるっきりその畏怖を感じることもなく、ほよんとした表情を浮かべている。まるで隣町の知人の家を訪ねるかのような気安さだ。

「まぁ、そうだが……おまえは?」

 そんな様子のニンゲンに魔王はつい頭を抑えていた。衛兵に呼ばれて出てみればいきなりの珍事。確かに滅多に動かない自分に声がかかるほど、目の前の光景はありえなかった。

 ああ、そうだ。そこにいるそれは人に違いないのだろう。

 人間。そう。魔王の軍勢が滅ぼそうとしている種族のうちの一人だ。

 彼らは世界を滅ぼそうとしている魔王に抗おうと攻め入ってくる。大半は南に広がる広大な森の中に配置してある死霊兵の手にかかって朽ち果てるものだが、ときおり抜けてここまでたどり着く者もいる。

 けれど。

「はぁ……あなたが魔王さん……でいらっしゃいますか?」

 ほよんとした緩い声音に魔王は不思議な生き物を見るかのような呻きをあげた。

 たいがい魔王討伐に来た者は、自分を見れば問答無用で斬りかかってくるものだ。そして問答無用で斬り捨てておしまい。それが幾たびあったかなんてもう覚えていない。数える気すらない。それはいわば事務的にこなされることだ。だからこそ、こうやって話しかけてくる人間は初めてだった。

 いままで訪れては消えていったあれらと比べれば、目の前のこのぽへーとした相手が本当に自分を倒しにきた勇者なのかと言われると首を傾げるしかない。

 いちおう。とりあえず。装備くらいはまともだ。ちんまりした背格好をしているので立派とはほど遠いものの、とりあえず鎧を着込んでいるし、ショルダーガードやら首を守るネックガードなんかをじゃらりとつけていたりもする。

 けれど、だ。

 それの中身があまりにも戦士らしくない。

 小柄なりにもそれなりに引き締まった筋肉があるとか、俊敏さなら誰にも負けませんという様子もまるっきりない。欠片もない。微塵もない。あれだけたぽたぽな筋肉をしているようでは剣すら満足には振れないだろう。 

 かといって魔法使いなどかといわれれば、それもなしだ。わざわざ剣士の鎧に身を包む魔法使いなど存在しない。むしろ彼らにしてみれば鎧など重し以外のなにものでもないのだ。それだけ動きも遅くなり致命率も上がる。

 そもそも命のやりとりをするような、びりりとした緊張感が目の前の存在からはこっぽり抜け落ちてしまっている。これで魔王討伐の勇者だとしたら、いいかげん人間世界の兵力も底をついているとしか言いようがない。

「誠にぶしつけで申し訳ないのですが……」

 そんなへっぽこ勇者もどきは、申し訳なさそうに目を伏せながら言ったのだった。

「魔王さん。僕に滅ぼされてくれませんでしょうか?」

「んなっ」

 入り口に集まった見張りの死霊兵の群はみんな同じ顔をして固まっていた。

 あんまりな台詞は骸骨な方々のアゴの骨をかくんと落とさせる。臨戦態勢をとることもできずただ呆けてその姿を見ることしかできない。

「もう一度聞くが、おまえは何をしにここまで来たの……だ?」

 そんな時が止まった中で魔王は一人ぎちぎちと無理矢理首を動かしてもう一度だけ念押しをする。

「はいっ。いわゆるその……魔王さん討伐、ですか?」

「おいおい、見張りども……お前らなにをして……」

 魔王はほけーとした勇者に注意すら向けず、ニンゲンの背後にいる見張りの骸骨兵達にあきれにも似た視線を向ける。仮にも魔王の力を注がれた精鋭部隊が、こんなへっぽこな刺客を見逃すなどほとほと情けない。

「いや……その……そうは仰っても……」

 そのニンゲンの後ろから申し訳なさそうにぞろぞろついてくる見張り兵たちが、がちゃがちゃと骨をならしながらあれやこれやと困惑したようすを見せた。これほど、ほけーと無防備な顔を浮かべたニンゲンが果たして敵なのか、というのが死霊兵たちにはわからなかったのだ。

 彼らが倒せといわれているのは、魔王の城に攻め上ってくる人間だけ。

 もとから森に住んでいる動物などにはわざわざ手を出さないし、無抵抗の人間を殺すまねもあまりしない。それをするのは進駐軍の役目だ。

「恐れながら、魔王サマ、このニンゲンが我らの脅威だとは甚だ思えず……」

「いや……あ、まぁ、だな」

 そのやりとりを不思議そうに小首をかしげて見つめているニンゲンはたしかに見るからに脅威とは言えなかった。

 騎士や勇士、蛮族に貴族。多くの人間どもがこの城に攻め入ってはあっさりと屍と化した。魔王の軍勢に敵はおらず、万を超える死霊兵は生者よりもよく働いた。魔王の加護を受けている彼らはどんな傷さえものともせず、食事や睡眠をとらなくても毎日活動することができる。

 脆弱な人間どもよりもよほど効率的にこの世界を破壊してくれる逸材たちだ。

 そんな彼らに目の前の人物を敵だと判じろというのはいささか無理があったのかもしれない。守備班に属する彼らは脅威を排除することしかできない。そんな彼らに敵と判断されなかった目の前の人物がよっぽど希有なのだろう。

「それで魔王サマ。こいつはどうすればいいでしょう?」

 殺しますか? と物騒な台詞が目の前でかわされているのに、そのニンゲンはぴくりとも動揺を見せはしない。実はとてつもない力を秘めた実力者なのか、はたまた。

「それはさすがにない、な。とりあえず面倒だし地下牢にでも入れておけ」

 ほれほれ、さっさといけと魔王は面倒くさそうに手を振った。その指示をうけて骸骨達がニンゲンの体を取り押さえようとする。けれどニンゲンの体はその手をすり抜けた。

「ちょっと待ってくださいよ。僕はあなたを倒しにきたのですよ? この剣にか……おわっ」

 がんばって腰につるされた剣をさやから引き出そうとしてバランスを崩したニンゲンが目の前で尻餅をついた。身長に対して用意されている剣が大きすぎるのだ。いや、普通の剣士が持つものよりも多少小ぶりだから、それでなお特注品なのかもしれない。鎧も相当に重いようで、完全に鎧に着られている状態だ。

「これで倒せるなら、俺は登場したとたんにこの世からおさらばだったろうな……」

 打ったお尻をさすさすしているニンゲンを見下ろしながらため息が漏れた。

 攻撃的であれば反射的に斬り伏せてしまえるのだが、これだけへっぽこな相手をわざわざがんばって殺そうという気力を魔王は持ち合わせていなかった。基本的に面倒くさがりなのだ。それに城内でむやみに弱者を斬るまねもしたくない。

「まぁいい。それじゃ後はおまえらに任せる。んで、何日かたったら外に捨ててこい」

「うぅ。本気なんですけどもー」

 けだるげに指示を送ると魔王はよたよたと執務室へと戻っていく。

 もちろんニンゲンは骸骨兵一体に軽く拘束されるだけでもう、身動きがとれずに地下牢へと連れて行かれるのだった。



「うぅーひもじいよぅ」

 すんすんと牢屋のすみっこで座り込んでいると、お腹がきゅぅと鳴った。

 彼が入れられた部屋はさすがに牢屋というだけあってただでさえボロいこの城の中でよりいっそうボロかった。

 差し込んでくる光は階段から少しだけ。窓もない地下の牢屋はどんより空気も濁っていて、天井の隅には蜘蛛の巣なんていうものがもっちょり張られている。まさかこんなところで捕食する相手がいるとも思えないけれど、どうやら彼らには住みやすい環境のようだ。

 蜘蛛は水のないところを好むとどこかで読んだような気がする。その説は確かに正しいようで、ほとんど湿気らしい湿気がここにはなかった。天井からびちゃびちゃと水滴が降ってくるより気分的にはよいのだけれど、肉体的にどうかといわれるといささか難しい。

「さすがに……唇がかぴかぴです」

 もとから期待するのも無理があるのだろうが、食事も飲み物もでないというのは割としんどかった。

 せめて虜囚にはそれなりの対応をして欲しいと思う反面、そもそも虜囚として扱われたことの方に疑問がでる。はたして自分などを捕らえたところで益などあるのあろうか。そもそも魔王の城にたどり着いたものは魔王の強大な力の前に消滅させられるのではなかったのだろうか。

「来ちゃったからには、魔王さん討伐がんばらないとですかね?」

 あはは、と文字通り乾いた笑いが漏れた。自分なんかにそもそも魔王さん討伐など無理なのはよくわかっていた。

 果たしてどれくらいの勇者がこの城までたどり着けたのだろうかと思ってしまう。

 魔王が姿を現してから一年半で多くの騎士達の命が散っていった。

 この城に攻め上がったものももちろんだが、徐々に大地を蹂躙していく魔王軍の前に滅ぼされた国も多い。

 彼の兄たちもここまでこれたのだろうか? 父は?

 そんなことは誰も知らない。

 一人として魔王に挑んだものは帰ってなどこなかったのだから。

「それとも、ここでこのまま朽ち果てるんでしょうか」

 それならそれでいいですけど、と彼は壁面に浮かぶ蜘蛛を見上げる。

 小さな彼らはここで生き、大きな自分はここで死ぬ。結局、生きるために必要なものが得られなければ朽ちていくしかないのだと。渇いた頭はただ考えていた。それなら早く殺して欲しい。

「はぁ、ようやっとお迎えのようですね」

 こつこつと地下牢に続く階段が鳴った。

 それは力強くて。すぐに昨日見た魔王さんが降りてくるのだとわかった。

 その音が途絶えると文字通り見上げるほどの魔王さんの姿が階下に現れた。騎士風の鎧に漆黒の髪。大人の男という風体の彼は、やはり夜色のマントを羽織り仁王立ちしている。

 本当にどうしようもないくらいに戦士として恵まれた体型だ。父や兄よりも体格がいい。ひ弱で華奢な自分とはなにもかもが違う戦う者の姿がそこにはある。

「よぉ。自称勇者さんとやら。気分はどうだね」

 そんな魔王はかったるそうにどかりと牢屋の前に腰を下ろすと、ほおづえをついて牢屋の中を眺めた。ふあぁと軽いあくびが漏れる。

「うー。僕は確かに魔王さんを滅ぼしにきましたが、別に勇者なんてもんじゃないです」

 あちらは勝手にこちらのことを勇者だと思っているようだけれどそれは思い違いだ。滅ぼしに来たとは言ったけれど、自分を勇者だと言った覚えなんて一度もない。

 勇気を持った者。そして魔王を滅ぼしうる者の称号。そんなだいそれたものを名乗るつもりはまったくない。

「じゃあ、きさまは何者だ?」

「僕はその……勇者の子孫、です」

 きっぱりと言い放たれる言葉に、魔王側はうーんと難しい顔を浮かべている。

 一緒についてきていた骸骨兵と顔を見合わせて、気まずそうな様子だ。

 きっと、こんなのが勇者の子孫なのかとでも思っているのだろう。

 魔王は、前の勇者を覚えているのだろうか?

 自分を封印した相手なのだ、そのことも覚えているのだろう。かの日の勇者と比較したらきっとどうしようもないくらいに貧弱な存在に見えているに違いない。

「で。大人しく帰る気になったか?」

 それはともかく、と魔王は用意しておいた台詞をたんたんと述べる。

 勇者の子孫、というところにはまったくもって興味が無いらしい。

 勇者と魔王の物語はなんども小さいころから読み聞かされている。今から五百年も前の話、戻らなかった勇者と封印された魔王。激しい戦いと負傷。そこらへんから魔王は勇者の血縁に多少でも興味を示すかと思っていたのだけれど、これっぽっちも興味はないらしい。

 けれど、それをいうなら魔王さんのやる気のない視線というのがとても気になった。そもそも魔王討伐を掲げた相手を牢屋に入れておくだけだなんて、人類滅亡を掲げる魔王軍の頂点とは思えない対応だ。

「いいえ。僕は役目を果たさなければ。魔王さん。貴方を倒さなければならないのです」

「一朝一夕じゃ考えはかわらんか……」

 唇がかさかさしながらも、ハッキリとした音で答えるニンゲンの言葉に、目の前の二人はよくわからいと首をかしげてる様子だった。見た目がこんなだからなにかの間違いで城に来てしまったのだと思っているのだろう。

 行けと言われて来た。もちろん無我夢中でどれくらいの時が経ったのかもわからないままに奇跡的に到着しただけではあるけれど。その目標の前で手ぶらで帰れるわけはないじゃないか。

「そもそも魔王さん。数日したら外に捨ててこいって昨日はいってましたよね? どうして様子を見に来たのです?」

 てっきり殺しにきたのだと思っていたのにというと、彼はバツが悪そうに頬をかいた。

「うちの参謀が、あのニンゲンはどうにかしないといけないとうるさくてな。正直俺はおまえに興味がない。城の中で死ななければ、いや、俺たちが手を下さないで外でのたれ死ぬならそれで全然かまわない」

 生死にすら興味がないと言われて、ニンゲンの体からすとんと力が抜ける。おしりがひんやりとした石畳につけられる。

 目の前の存在にとってすれば自分は視界にすら入らないほどちっぽけな存在とでも言いたいのだろうか。

「なら、ここで殺してしまってもいいではないですか」

 外か中かの違い。別に彼が手を汚す必要はまるっきりない。そこにいる部下に一言命じればそれでおしまいだ。

「城の中では敵しかやらんようにしているんだ。あいつらの前で弱いものを狩るのは忍びないし、なにより面倒だからな」

 頭をわしわしといじくり回しながら、あー、と不満そうな声を上げる彼の前で疑問の声が上がる。当然の疑問だ。あれだけ世界を、人類を敵視、蹂躙している魔王が、敵である自分をさっさと殺さない理由がよくわからない。

「でも僕は敵ですよ? 貴方をその……倒しに、きた」

「……ほれ、これ持ってみ」

 ぽいと軽く放られた剣をあたふたとそのニンゲンは受け止める。両手で支えてもミシリとその重さが腕に堪えた。

「重いですー」

 ニンゲンはうーとうめき声を上げながら、それでもなんとかその剣を持ち続けていた。今にもぷるぷる二の腕が痙攣してしまいそうだ。

「これくらいのもんを振り回せないやつが敵といえるのか? なぁ」

 後ろの骸骨兵に問いかけるように魔王は苦笑を漏らす。

 骸骨の鈍く輝く顎がかくかくと音を鳴らした。

「というわけで、お前じゃ俺の敵にすらなれん弱者というわけだ。わかったらさっさとおうちに帰るんだな」

「嫌です」

 ぽーっとしているくせに、妙にその台詞だけはきっぱりとした音を持っていた。

「あのなぁ……こういっちゃなんだが……何日いても無理なもんは無理だ。大人しく帰った方がいい」

「戻れません」

 頭にちらりと故郷の人々の姿がちらついた。あの目。あの目。あの目たち。

「帰れ」

「イヤです」

 とっくに死んでいるであろう兄たちや父の姿が浮かんだ。

 もう自分には帰る場所などどこにもない。

「放り出すぞ」

「じゃあ」

 涙を瞳に浮かべながら、ひ弱なニンゲンは魔王の剣をゆっくり抜いた。

「この場で殺してください。この剣で貫いてください。どうせ外にいたって……」

「こいつはまいったな……ったく」

 ぽりぽりと頭をかいて魔王はうむーとうめき声を上げる。

 確かに外にいたところで、待っているのは死だろう。魔王の優秀な部下たちはどんどん人間の世界を侵略していっているし、いずれ彼にも手がかかる。世界に逃げ場はなく、進駐軍はきっとこいつを殺すだろう。

 どうせ結末は一緒。外か中かの違いだけ。

 それがわかっていて魔王はなぜか手を下すことを躊躇っている。 

「なぁボンさん。これ、どう思うね」

「はぁ。私としてはどうされてもいいとは思いますが」

 別段我らの脅威にはなりませぬゆえ、と他の骸骨兵とはやや異なる銀の鎧をつけている彼は答えた。

 銀。退魔の力を持つと言われる鎧をよりにもよってその兵士は身につけていた。

「ここで、このような相手を倒しましたら、彼らは怖がりましょう。ただでさえミハエル卿すら怖がるほどですからな」

「だよなぁ。出てかないっていうし、なら置いておくしかない……のか」

「はい?」

 一瞬、ニンゲンには魔王の言葉の意味がわからなかった。確かに外には行きたくないと言った。

 帰れないとも言った。帰る場所なんて元からない。

 だから殺して欲しいと、終わらせて欲しいと言ったのに。

 彼はそれを拒絶した。なら、残る方法はただ一つだけ。けれど。

「だから、この城においてやるっていってんだよ」

「えー、でも僕は敵……」

「敵にならんといったろうが。まあでもここに住みながら俺の命を狙うってんならそれでもいいが」

「本当にいいんですか?!」

 ぽそりと言われた台詞にニンゲンは驚きの顔を浮かべる。

 まさか、そういう答えが与えられるとは思わなかった。

 この魔王は自分に居場所をくれるのだという。それは人類としてはどうしようもないことなのだろう。ここに来るまでニンゲンはただ死ぬためにここに来るのだと思っていた。けれども彼はそれをしたくないと言う。

 事情は正直わからない。けれどもこの城で暮らせるというのであれば。

 嬉しいですと、ニンゲンは魔王の手をきゅっと握った。

 牢屋越しに両手をつかまれた魔王は、すぐさまそれをほどいて、いつのまにか取り出したワインのボトルをくぴりと口にあてる。

「いいか。置くだけだからな。変な事はするなよな。面倒だけはごめんだ」

「ありがとうございます、魔王さん」

 さきほどとは打って変わった花の咲いたような笑顔を見ていると、どうにも。魔王はため息ばかりが漏れるのだった。



「このかっこは?」

 はて、とニンゲンは小首をかしげていた。

 彼が着ているのは、近くの町を滅ぼしたときに収集しておいた服のうちの一着。

 黒いワンピースに白いひらひらのついたエプロンドレスという姿なのだった。太ももの先までしっかり覆われた黒いタイツをはきこんではいるけれど、足元から風が入ってくる感覚というのはどことなく頼りない。

「給仕人の格好だということみたいですな。人間の社会では一般的な隷属者の格好ということですので」

「隷属者はちょっと言い過ぎな気がしますがねぇ」

 スカートのすそをつまみながら不思議そうに自分の体のあちこちを見回していると、警備頭のボンさんがずずいと顔を近づけてきた。ボンさんはわりと整った骨格のお方で、ほお骨のあたりがにゅんと流曲していて美しい。もともとはさぞ美形の方だったのだろう。

「魔王様としても無理矢理働かせようなんて思ってはいませんな。ただ客分というよりは虜囚という意味合いをもたせたいとかで」

 いくら敵対しないにしても、人間は人間、とボンさんはほお骨をかくかくいわせて笑った。彼もこの状況を笑えるヒトらしい。

「いえ……たしかにおっしゃるとおり。捕虜の身というものはこれでもかというほど残念な対応を受けるものかとは思いますが……」

 けれどボンさんの遙か後方、玉座に座っている魔王さんはつまらなさそうに、ちゃぷりとワインのグラスを揺らすだけ。別段この格好のことをどうのという思いはまるでないらしい。それならせめて男女の服の違いくらいはつけてもらいたい。

「我が家にいた給仕人の恰好とは……なにかが違うともうしましょうか……」

「世界の終わりはもう目の前だ。そういった細かいことは気にするな」

 ちゃぷり。ルビー色の酒がのどを通っていく。

 その仕草はまるでそれ以上の会話を拒絶しているかのようで、ニンゲンは言葉をうまく作れない。

 魔王というものはきっと人間のことに疎いものなのだろう。とりあえず服を用意してもらえただけでもありがたいというものなのかもしれない。鎧で身を固めるよりは動きやすい服が欲しいといったのはニンゲンのほうだ。

「まぁ、そうおっしゃるなら……」

 しかたないですかねぇと、不満ながらもニンゲンは細い肩をすくめた。

 その姿ははっきりいって剣士や騎士になんて見えるはずもなく、それこそ男にすら見えはしなかった。

 華奢な肩は女物の服をすっぽりと着こなし、細い腰つきは屈強さの欠片もない。

 さらりと流れる肩までの赤茶の髪も癖のないストレートだ。

 魔王の見立て通り、無駄なく機能的に服を着こなしているようにも見えた。

「それで僕はなにをやればいいのでしょう?」

「そうだな……」

 問われてうぬぬと魔王は口ごもった。

 わざわざ人間を飼って酷使する必要性というものがこの城には元からない。兵士はもとより城の中もそれぞれの役目に最低限のものが十分に配置されている。

 彼らは体を壊すことなどもないし、別段補欠がいる必要性もない。

「だったらおまえは自分の身の回りのことをやるがいい。人間だというから我らともいろいろと違うのだろうしな」

 困惑ぎみに言葉を作ってみて、おぉそれはいいと魔王はその内容に納得したようすだった。けれどニンゲンの方はきょとんと小首をかしげて不思議そうな視線を魔王に送る。

「はて……魔王さんはあんまり人間と触れ合ったことがないのですか?」

「どういうことだ?」

「たとえば、侵略した町から美女を連れ帰って、げっへっへ、俺様の欲望をぶちまけさせてもらう、ひぃ助けて、おなさけを魔王さまー、みたいな」

 魔王が現れて半年経った頃、町の大人達が冗談交じりにそんな台詞をかわしていたことがあった。まだ勇者の家の誰もが倒れていなかった時代。ここには勇者の子孫がいるから安泰だといいながら、遠い国の風聞を聞いてそんな話をしていたわけだ。

「……つまり、人間を捕獲して飼った経験はないか、ということか」

 ふむ、といわれるその言葉の意味のずれにニンゲンはさらに困惑した表情を浮かべて唖然と口を開いてしまう。彼の言い方では愛玩動物としての人間という意味になってしまう。

「面倒だろう。人間のことも正直よくわからんし、お前らがどうやって生きてるのかも知らん。知る気もない。第一俺自身がこの城から出ることはないのだしな」

 魔王は城から力を送ることで死霊兵を指揮している。ここを離れる必要はないし、わざわざ外に出てみたいとも思わなかった。どうせ終わる世界なのだ。酒を呑んでふらふらしながら適当に死霊兵に力と指令を送るだけでいい。

 あえて人間と触れるとしたら城まで攻め上ってきた兵士と剣を合わせるくらいなものだろう。それとて、鎧をまとった相手の中身に興味を持つ時間など与えずにあっさり斬り伏せておしまいだ。どんな生活をしていたかなんて考える余裕はない。

「魔王さんったら、ひきこもりさんなんですね……」

 はぁそれじゃあ仕方ないと、ニンゲンは軽く肩をすくめてみせる。

 ニンゲンには目の前の死をまく魔王がどうにも恐怖の対象には思えなかった。

「別にひきこもってるわけじゃないし、役目も果たしてるからいいだろうが」

 その仕草がどういう意味を持っているのか知らなくても、魔王は視線をそらして本来する必要の無い言い訳を作る。ほほぅと、どこか遠くで人を小馬鹿にしたフクロウの鳴き声が聞こえたような気がした。

「まぁそんなことより、近場で空いてるあの部屋をやる。とりあえず自分のことは自分でこなせよ」

 それとも勇者の子孫さまは、多くの部下がいないと生活できないとか、と魔王が笑うと、ニンゲンはふるふると首を横に振った。

「家事全般は問題なくこなせます。むしろそっちの方が得意です」

 いままでさんざん、勇者として欠陥品の自分はそれ以外のことをしてきたのだ。生活をするということに関して言えば兄達よりもうまくやれる自信もある。

 部屋をくれるというのであれば、そこをどうしていこうかなんて想像してしまうほどだ。自宅では兄達と同室だったから自分だけの部屋が持てるというのはそれこそ贅沢に違いなかった。

 執務室であるここに通じる扉はエントランスに続くものと、左右にそれぞれ一つずつだ。そのうちの一つを好きにしていいといわれてしまったらもうすぐにでも見てみたい。

 部屋へはすぐだ。小走りになりながら数十歩と歩かないで扉についてしまう。

 そしてそのわくわくしながら扉を開いたところで、ニンゲンは動きを止めた。

 目の前に広がるその光景に軽いめまいを覚えたのだ。

「どうだ。わりと広くていい部屋だろう? ニンゲン相手にこんな広いところを使わせるだなんて、こういうときは……なんだったか。太っ腹。そうだな、太っ腹だろう」

「ぼ、ぼろい……」

 まぁ好きに使っていいぞと胸を張る魔王の横でニンゲンはぽそりと言葉を漏らしながら震えていた。

「ぼろすぎです。なんなんですこの部屋は!」

 珍しくニンゲンは声を荒げて部屋を指さした。ほとんど涙目の勢いだ。その先にはびっしりつもった埃と、幾枚も張られた蜘蛛の巣がもっさりとしていた。窓は完全に朽ちていて、開くのかどうか怪しいほどだ。

「なっ。なにを言う! こんな広い部屋を与えられて不満だなんてっ。破格の待遇なんだぞ」

「そもそも魔王さんの部屋はどんな感じなんですか!? まさか僕が人間だからこんな待遇を……」

 たしかに魔王さんちにお世話になるならそんな待遇こそがふさわしいのでしょうけどとニンゲンはしょんぼりと肩を落とす。

 期待が大きかっただけにこの失望はとんでもないものだ。

 魔王の城はたしかに今にも崩れそうな禍々しい外観をしているけれど、魔王であるからこそ内装はしっかりとしていると思っていたのだ。まさか中までこんなにぼろいとは。

「こ、ここよりももっと広くてすごい部屋だぞっ。俺は魔王なんだからな! まったくこんな部屋を与えられて不満だとは……」

 ついてこいと魔王はきびすを返すと自らの部屋へと足を向けた。

 執務室である魔王の王座の脇にある部屋。ちょうどニンゲンの部屋の対局にあるのが魔王の私室だ。

「……うぅ。ひどいです。ひどすぎです魔王さん」

 その扉を開いたとたん、ニンゲンの体からかくりと力が抜けた。思わずその場に四つん這いになってうるうると瞳に涙をためながら魔王を見上げた。いくらなんでもあんまりだ。

「なっ。そんなことを言ってもおまえは人間で俺の命を狙うものであってだな。それがあんな部屋を与えられて不満とはさすがにちょっとひどくないか?」

 魔王はニンゲンの反応に困惑したようすで、その部屋を見回して言った。

 自分は魔王なのだ。もっともいい部屋に居座って何が悪いと思う。

 けれど、ニンゲンの感覚はまるっきり魔王のそれとはすれ違っているのだった。

「違います。どうして魔王さんの部屋までこんなにぼろいのですか! 魔王さんっていう位なんだからそれはもう豪華で綺麗な部屋を想像していましたのに、蜘蛛の巣はぶら下がってるし埃はびっしりだし、窓なんて完全はめごろしでどうしようもないダメ部屋じゃないですか」

 確かに彼の部屋は先ほど自分にあてがわれたものよりも幾分広い部屋だった。けれどそこが住みやすいかといわれたら、まるっきりダメだ。家具の類いもベッドが一つあるっきり。広いのはいいこと、みたいに思ってるようだが、まったくもって無駄な広さだった。

「は? 埃? 蜘蛛の巣? それをどうして払う必要が? だってあれらは敵ではないだろ……」

「敵じゃないって……」

 その言葉にはニンゲンも思わず絶句してしまった。

 敵かどうかでしかこの相手は物事を語れないらしい。

「いまいち、人間の考えはわからん」

「僕にしてみれば魔王さんの考えの方がよくわかんないです」

 飾り気のないすえた薄暗い部屋で寝る魔王。体を小さく丸めたりするのだろうか。

 その姿を想像して、ひきこもり魔王の哀愁漂う姿に寒気が走った。

 棺桶みたいなものに入っているならまだしも、あれだけ簡素なベッドでは魔王というより囚人といった印象のほうが強い。

「じゃあ、おまえはどういう部屋がいいというんだ」

「もっときれいなところがいいです」

 贅沢をいうつもりはさらさらない。けれどせめて清潔感くらいは忘れないで欲しい。質素でもきちんと窓が開いて、布団が干されてて、ふかふかほわほわな部屋が良い。

 仮にも世界を滅ぼそうとしている魔王なのだから。こんな終わってしまっている部屋で生活しているだなんて勘弁して欲しい。

「きれいねぇ。人間はあの環境に耐えられないと言うことか。なら貴様の部屋は自由にすればいい」

「……そ、そうじゃなくて」

 ふむ、と顎に手を当ててよくわからんという顔をしている魔王を見上げる視線がぐらりとふらついた。同じ言葉をしゃべっているはずなのにどうしてこれほどまでに会話ができないのだろう。

 魔王はぽふんと朽ち果てたベッドに腰を下ろした。もわりと埃が舞って、ニンゲンはけふけふむせてしまう。

「まだ不満か? おまえはあの部屋では生きていけないから、生存するための環境をつくる、それだけだろう?」

「生きていけなくはないです。そりゃ体力が落ちれば、病気になるかもしれないけど」

「だったらなぜきれいになどと」

「きれいな方が気持ちいいじゃないですか」

 ぴしゃりと言われても魔王はうーんと首をひねるばかりだ。蜘蛛の巣が張っていても寝るのに不都合はないし、別段日の光を浴びなくても生きていける。

 毎日清掃に手を入れて、ぴかぴかにしたところでなにがどうなるわけではない。

「この城どうせ消えるんだぞ? わざわざ余計な力使う必要はなかろうよ」

 その気になれば死霊兵の数を増やして城の整備をまかせることだってできないわけじゃない。けれどそれをしてなにか意味があるだろうか。世界を終わらせるまで壊れずここに存在する。それだけで十分だ。

「消えないかもしれないじゃないですか!」

 けれどニンゲンはなにを勘違いしたか、ぷるぷる震えながら魔王にくってかかる。この城を永遠だなどと思ってしまっているらしい。

「いや、消える。確実にだ。そういうもんだ」

「でも、貴方が世界を滅ぼしたら……って、あれ?」

 滅ぶという言葉を口にしてやっとその違和感に気がついた。

 滅ぶ世界というのはいったいどこのことをいうのか。ニンゲンは勝手に自分たちの暮らしている人間の世界だと思っている。けれど魔王の言い分ではどうやら違うらしい。

「そう。世界を滅ぼしたら世界の一部であるここもまた滅びる。最後は笑いながら部下を道連れに木っ端微塵が俺の生き様だ」

「な、ななな、なんなんですかそれはっ!」

 魔王の行動理念を聞かされたニンゲンは驚きの顔を隠しきれなかった。

 魔王の目的について、その思考パターンを推測した書籍を読んだことがあるけれど、そのどれにも世界の破壊そのものが目的、などという退廃的なものはなかった。誰もそんな理念を想像なんてできるはずがない。

 けれど彼はやれやれと首をふると、ため息混じりに続けた。

「なにも、そういうものだろう? 魔王の義務といったら破壊で消滅だ。そもそも世界征服なんて言うのは魔王じゃなくて王ってやつのやることだと翁は言ってたぞ。夜の眷属が跳梁跋扈するーとかそういうのじゃなくて、俺は単に全部ぶちこわして消えるのを目指してるだけだ」

 なに当たり前なことを言わせるか、というようなだるそうな口調の彼の前で、ニンゲンは言葉もなくぱくぱく口を開くことしかできなかった。 

「征服……が目的じゃなかったんだ……」

「全然。これっぽっちも。そもそもこの城だけで生活まかなえるし、ほとんど無尽蔵の力でいろいろなもん生めるし、世界征服したところで俺の生活に変わりはない」

 この城にしたってもともと人間がうち捨てた古城だ。周囲に住んでいるのもいないし、世界を壊す気がないならここだけで引きこもって十分に生活ができるのだ。

「前にその……封印されたときの意趣返し……とか?」

「あー。そりゃおまえの先祖とやらに封印されたらしいがな。これがこう……記憶がなくてな……」

 別におぞましい苦痛だとか恐怖だとかはさっぱりないし、恨むほどの元気もないとひきこもり魔王はごろりと寝返りをうった。

「はぁ」

「本能やら、やるべきことみたいなもんは覚えてるし力の使い方もわかるんだが、前の戦いでなにがあったかとかそういうのはさっぱりだし、前の俺がどんなんだったかもしらん。やらなきゃならないことをただやってるだけ、だな」

 だから必要なことしかやらんと魔王はニンゲンに背を向ける。

 ニンゲンはその背中を見つめながらふるふると震えていた。

「それでもボロいことの言い訳にはなりません」

 めずらしくきっぱりとした口調でニンゲンは言いきった。

「いいですか? それはどーせ死ぬから生まれてこなくていいって言ってるのと同じです。魔王さんは今ここにいて生活してるじゃないですか。だったら魔王さんだって滅びるまでよい生活しましょうよ」

「そいつは人間の流儀だろ。俺は魔王だ。ただ機械的に世界を壊す。システムといってもいい。そこに楽しみなんていらん」

 はっ、とそこで魔王は起き上がる。

「まさかおまえ! 俺の力をそちらに割いて世界の破滅を遅らせようとしているのか! そんなほけーっとしてながら知略に満ちた戦術……くぅ見くびっていた!」

「えー」

 がばりと起きあがった魔王の台詞はどこまでいっても真剣だ。まったくその気のないニンゲンはげんなりした声を漏らした。

「しかし残念だな、勇者の子孫よ。この城を綺麗にする程度の死霊兵に力を割いたところで世界の破壊は遅延したりしない。これでも我が力はまだまだ十分余裕があるのだからな」

 ふっ、と魔王は余裕の微苦笑を浮かべる。

「違いますっ。別にそんな策略とかそんなんじゃなくて。ただ……」

 うぅーと言葉を詰まらせてニンゲンは魔王をにらみ上げる。碧色の瞳には無念のあらわれなのか今にもこぼれ落ちそうな涙がたまっていた。

「まったく、めんどうくさい」

 魔王はそれをちらりと見ると、ごろりと寝返りをうってニンゲンに再び背を向けた。

 そしてぽつりとつぶやいたのだった。

「……どうしてもというなら掃除道具くらい貸してやる。好きにしろ」

 ぽそりと言われた台詞に、ニンゲンはぱぁと顔を明るくするのだった。



「ふぅ。やっぱりきれいなお部屋での料理は格別ですね」

 ニンゲンは額の汗を拭うと、きれいになった部屋を見てにんまりと笑顔を漏らした。

 あれから一晩が過ぎた。とりあえず自室の掃除をしてなんとか夜を過ごしたのだけれど、それ以外にもこの城のダメっぷりにはもうめまいがするほどだった。

 そもそもが生き物のための城ではないのだろうけど、なにからなにまで感覚が違う。

 けだるげと言えばいいのだろうか。生活する上で必要なことがすべて投げっぱなし。

 死ぬまでの時間を本当に適当に過ごしていると言ってもよかった。

 あれは生き物、という範疇なのか、と疑ってしまいそうになる。

 魔王はその天性の才覚だけで世界を滅ぼす。信念があるわけでもない。システムとしてただ本能に従って蹂躙するのだ。そこには喜怒哀楽という感覚はなく、粛々と殺戮を続けていく。

「魔王さんにも驚かされますが、まぁ自分の事をしろ、というのならそれに従うまでですかね」

 彼がどうか、というのはこの際どうでもいい。システムとして世界を滅ぼすのだとしたらそれはそれで別にかまわない。

 勇者としてはどうか、といわれると答えようもないのだが、自分の実力で彼を屠れないことは誰の目にも明らかだろう。それなら無駄なことに時間を費やすこともない。そこまで愛着のある世界でもない。終わるならそれでかまわない。

 もう世界の終わりはそこまで迫っている。それならば短い残り時間を自分の好きに使えた方がいいというものだろう。まだしばらく生が続くのだというのなら、こんな小汚い城よりも、清潔で明るいほうがいいに決まっている。

 あわよくば。そう。あわよくばだ。彼にも自分の人間としての生活を少しでも気に入ってもらえると嬉しい。掃除の許可は下りたのだ。とりあえず自分の住むところの掃除が済んで手が空いたら、魔王さんの部屋や他のところも綺麗にするつもりでいる。

「贅沢は言わないでおきましょう」

 まずは自分の事からどうにかしなければならない。

 この、生活感のまるで異なる中で生きていくには自分の手でなんでもやらないとダメだと昨日わかった。昨日の晩餐で思い知らされた。

 とりあえず水をねだったからなのか、生きた人間には食事が必要ということには気づいてもらえたようで、食事のようなモノは出してもらえたのだけれど、その内容がどうしようもない。

 必要最低限のエネルギー摂取ができればいいといわんばかりの、何か粘土のようなもの。周りにいるのは食事を必要としない死霊兵なのだからしかたないといえばそうなのだが、さすがに残念な生活すぎる。とうの魔王さん本人は食卓についたものの、くぴくぴとなにかの液体を呑んでいるだけだった。匂いからしてアルコールなのだろう。

 さすがに毎日あの食事となると気が滅入ってくるので、翌朝である今朝から厨房の掃除をして今晩の料理を作り始めたのだった。ここを管理している死霊兵さんにいくつか食材をお願いしたら快く分けてくれたのである。

 食べないくせに作っているというのだから不思議なのだが、その用意できるという食材があまりにもすごい種類と量だったので、つい、思ってしまったのだった。

 料理をしたら魔王さんの生活も多少変わるのでは、と。

 起きて、酒を飲んで、執務室に座り、酒を飲んで、執務室で飲んで、夜に寝る、というこのどうしようもないだめ生活も。

 執務以外に興味があるのが酒だけなのだ。それすら興味と言えるのかは難しい。そこまで好きそうに飲んでいないのだから。味を楽しんでいるというよりは、ただアルコールを摂取している、というような感じしかしない。

 それはとても勿体ない。せめて味わうということは知ってほしい。まずはそこから生き物らしい生活が始まるのだと思う。

「でも、味という概念をそもそも知らなかったらお手上げですかね」

 お玉をくるくる回しながらふと表情が曇る。

 ずれているなら歩み寄ればいい。けれど、もし無いのならばもう。その点で魔王とわかりあうことはできない。

「んっ。よい出来です。香辛料系がちょっと不安でしたが、久しぶりのちゃんとした料理は胸に染みますね」

 喉に染みていくミネストローネはほんわかと暖かくて幸せな気分になる。

 彼もこの味を好きになってくれればいい。いや、もっと多くの人間らしいことを好きになってくれれば、すべてを破壊するだなんて言わなくなるだろう。

 日常にある楽しいこと。それをたぶん魔王は知らない。この城の中でなにも知ることなくただ滅びをまき散らす義務を負っているだけなのだ。

「魔王さん討伐は僕の仕事です。仲良く価値観を変えていこうじゃないですか」

 ん。おいしいですともう一口味見をしてにんまりする。あとはサラダ用に葉物をむしってパンを焼き上げればいい。

 もう少し品数があった方が豪華だけれど、掃除をこなしてから作ったのだからそこらへんはおおめに見てもらおう。赤と緑と茶。色合い的にはそこまで貧しくもない。

「ああ、アムさん。そんなところでちょこちょこしてないで、こっちで一緒にお茶でもいかがです?」

 一緒にかけておいたケトルがぴょひぴょひ騒ぎだすころ、厨房の中をこそこそ伺うようにしていた小さな影に声をかける。

 アムさん。本名アムライガさんはアライグマの形をした死霊兵だ。死霊兵なので生きている時とは違ってところどころに傷があったり、肩がはずれていたりとずいぶん可哀想な姿だ。でもふかふかの毛並みは今も健在でもふもふしている。是非とも触りたいくらいだ。

「ずいぶんと綺麗になっちゃいましたねぇ。一人でやるのはしんどかったんで仕方なく放置はしてたんですが……」

 高いところとか届きませんし、とアムさんはちっこい身体でよいせと厨房の椅子に腰をかけた。

「えへへ。やっぱり綺麗な方が気持ちがいいですよね」

 わかってくれるのはアムさんだけですとニンゲンはことりと茶飲みをアライグマのまえに差し出した。中に入っているのは、ニンゲンが旅立つ時に母に持たされたほうじ茶だ。魔除けになるだなんて言っていたけれど、ここまできてしまえば飲んでしまってもかまわないだろう。どうせそんな迷信、効きはしない。

 アムさんは器用に両前足でそれを挟むようにしてつかむとくぴくぴと飲んでいく。頬が緩んでいるところをみるとお気に召してくれたようだ。

「それはそうとアムさん。さっき話してたことですけど、確かに食材はいっぱいある感じなのですか?」

「庭番のモルがわりと大量につくってますからね。収穫したら倉庫に入れるのくりかえしで」

「まったく、魔王さん本人はご飯食べないって言うのにどうして食材ばっかり……」

 それじゃあ貯まるばかりでしょうに、というとアムさんはもふもふのお腹をテーブルにたぷんと乗っけて、その通りなのですがね、と言った。

「そこらへんは趣味の園芸というかなんというか」

「そしてできた野菜がどんどん倉庫にたまっていくわけですか……」

「貯蔵庫自体はすさまじく高性能なのですよ。なんせ魔王さまの力がめぐらされてますから」

 一年前の野菜もあら不思議、まったく腐ることがないのだとアムさんは胸を張った。

 おそらく死者の城で生産が続けられるのにはそれもあるのだろう。野菜を作ってもそのままひたすら腐り続けるのではさすがに園芸を続ける気力が持たない。そして貯まる、という形で収穫が目に見えればそれは励みになる。目に見える形での労働の価値は大切だ。

「人は滅ぼすのに野菜は生かすことができるんですね……あのかたは」

「まーそこらへんは、我らの為といったところが大きいんですよねぇ」

 アムさんは茶をすすりながらしみじみと言葉をつくる。

「城の中にいるのは魔王さまに拾われたものたちなのですよ。でもただで居させることもしないのです」

 保護者という体をとりたくなかったのだと思いますとアムさんはもふもふのお手てを動かしながら熱弁する。

「それはそうと」

 アムさんがそわそわしながら鼻をひくひくさせた。

「あっちのほうでいい匂いを出してるのはなんなのです?」

「ああ、あれは今晩のご飯ですよ。アムさん達は食べなくていいのかもですけど」

「あれだけいい匂いを出していると、ちょっと気になりますねぇ。そりゃ食べなくてもやってけるのですけど、食べられないわけではないですし」

「じゃー、夕飯はみんなでご飯たべます? 魔王さんと二人っきりだとなんかこう……居づらいというか」

 さすがに警備の骸骨兵がずらりと並ぶ中、魔王さんと二人きりの食卓は会話もなくてしんどいのだ。

「魔王さまが許してくれるかどうかでしょうか。魔王さま、基本的にご飯食べない人ですからねぇ。あなたがいたから夕餉に立ち会ったんでしょうけど」

 いつもなら執務室でけだるげに酒をあおるだけだとアムさんはいう。そもそもダイニングにまでお出ましになったことの方が驚きなのだというのだ。

 そんな彼の姿を想像してふと昨晩言われたことが思い出された。

「アムさんはその、生前の記憶とかって残ってるんですか?」

「残ってますねぇ。山の中で殺伐と餌を求めて走り回ってみたり、わりとハードな感じで生活していて、最後は人間さんにバンと撃たれて谷底に落ちておしまいな一生でした」

 くぴくぴと呑気にお茶をすすりながら、アムさんはあっけらかんと答える。なるほど魔王さんだけが記憶喪失なのか。

「わりとハードな一生ですねぇ。じゃあ人間嫌いだったりとかします?」

「そりゃ猟銃もった人間は嫌いですけど、ご飯くれる人は味方です」

 はい、もう一杯、とアムさんはもふもふなお手てで湯飲みを差し出してくる。

 はいはいとそれにおかわりをついでやると、嬉しそうに両手でそれを持ち上げた。器用な子だ。

「魔王さまはご飯食べるっていう概念自体が欠落しちゃってますから、料理番なんて役職あたえられてますけど、これといってご飯作ったこともないのですよ。食材とかも取り放題でもう食物連鎖の頂点にたっちゃった感じだというのに、それをしないというのも贅沢な話ですけれど」

「でも、アムさんとしては食べないでもいいんだ?」

「そうなのですよねぇ。死んじゃったからなんでしょうけど、食べねばやばいみたいなのがないのです。飢えから逃れるってすごいことですねぇ」

 これぞ死霊の特権というやつでしょうか、と生き物時代の感覚と比較してアムさんが笑う。おなかのもふもふがひくひく動いていた。

「でも、お茶とか美味しいものは別ですよ? あそこでくつくつ煮えてるものも是非食してみたい」

 さぁ、ほらほらさっさとよこすとよいですとアムさんが可愛らしく催促してくる。

 けれど、今はまだダメだ。

「あれは魔王さんに先に食べてもらうんです。だからアムさんはその後でね」

「ちょっとくらいならどうです? 味見とかも大切かと」

「むぅ、アムさんもなかなか食い付いてきますねぇ。でもこればっかりは譲れないのですよ。魔王さんの味覚をがつんと震わせてやるんですから」

「どうでしょうねぇ。さっきも言いましたが魔王さまはいままでお酒しか召し上がらなかったですし」

「あうう。やっぱりダメですかねぇ。せっかくがんばって作ったのですが」

 食べてさえもらえばうまいと言ってもらえる自信はある。けれどそこにいたらないとなるとどうしようもない。

「なら、一口目までは我らが手伝ってさしあげましょう」

 テーブルにつっぷしていると、アムさんはぽふぽふ頭を撫でてくれる。もふもふの毛並みがさわさわと心地よい。

 けれどそれはすぐにやんで。

 上手くいったら、それをたらふく寄越すとよいのですと、アムさんはトコトコとどこかに行ってしまった。

 


「で? これを俺にどうしろと?」

 魔王さんはあからさまにその食卓を怪訝そうに眺めていた。

 前に住んでいた貴族でも使っていたのだろう長テーブルの魔王さんの席の前にはちょこんとミネストローネとパンが、そして中央には大きめな皿に盛られたサラダが並んでいたのである。

「いっぱい作りすぎちゃったので、一緒にどうかなと思いまして」

 おいしいんですよ、と言うと横に座っているアムさんがしきりにうんうんとうなずいている。そしてもう一人の同席者。コウモリのモルッキーくんも魔王さんに援護射撃を送ってくれる。

「おれっちが作った野菜が材料になってるんですぜ。魔王の旦那。せっかくなんだから一口食べてやってくださいよ」

 ここのところいい野菜ばかり採れてるんですからとモルくんは自分の仕事を見せつけようと必死だ。確かにモルくんの提供してくれた食材はどれも鮮度が抜群で育ち具合もちょうど良かった。形こそ多少悪いけれど味の方はすごく良いのだ。

 三対の瞳が魔王さんを見つめる。

 期待のこもった瞳に見つめられるとさすがの彼も観念をしたようで、銀のスプーンでミネストローネをすくって、ぱくりと口に放り込む。

 一瞬魔王の体が動きをとめた。

「どうです? あったかなミネストローネ。おいしいでしょ?」

 ふふふとニンゲンはその様子に笑顔を漏らした。

 その反応からすると、たしかに魔王さんにも味覚はあるようだった。

「ま、まあまあだな。で、これはそんなに大量にあるのか?」

「ええ、そりゃもうアムさんやモルくんに振る舞えるほどに」

「さぁ、魔王さまが召し上がったんだからおいらにもさっさとよこすといいのです」

 アムさんがちんちんとお行儀悪く皿にスプーンをたたいて催促してくる。

 まったく。このもふもふした生き物はいくらなんでも期待しすぎだ。

「まあいい。よそってやれ。残すのも悪いしな」

 ぼそりと魔王さんは顔を背けてそんなことを言った。まったく人が作ったものを無駄にはできないというのだから変わった魔王だ。

「うぉぉ、おれっちの野菜たちがこんな風になるとは……ニンゲンの技術おそるべし」

 本来人間の料理など食べたことのありえないコウモリのモルくんは細長い手をあくせく動かしてスープを口にいれていった。普通コウモリの手といえば羽に進化してしまっているものだけれど、モルくんのお手ては羽と分離してしっかりと機能しているらしい。

「くぅ。ようやくです。苦節数時間、おいらはこの城の死に物で本当に良かった!」

 アムさんの方はというとよそって終わったと思うとすぐにもぐもぐと口の中にスープを入れて小さめに切られた人参だのジャガイモだのをもふもふ咀嚼していった。

「ほかの方は?」

 お玉で鍋を軽くまぜながらちらりと視線を向けると壁際にはずらりと骨っぽい方々が並んでいた。みなさん槍とかを持っていて物騒なのだけれど、彼らの分も計算して作ってみたのでこの部屋にいる方くらいには振る舞うことができる。

「骸骨兵は食事がとれんのだよ。だからあいつらのは無しだ」

「本当に残念なことに、そうなのです」

 アムさんがお茶をくぴりと飲みながらパンの方へと手を伸ばす。

 小さなお手てでパンをちぎると、ミネストローネに浸して口の中に入れはじめた。

「そう言われれば、まぁ……胃袋ないですもんね」

 今気づいた、という様子でニンゲンは愕然と動きを止めた。

 アムさんたちはまだ生き物に近い形をしているけれど、彼らはもうずいぶん前にお亡くなりになっていて、食物をとるという行為ができないのだ。

 鍋に半分以上残ったスープを見て、うぅと泣きそうなうめき声を上げる。

「その分はもりもりおいらが食べてしまうつもりですよ」

「おまえにばっかり食わせてたまるか」

 そんな様子を気にしたのか。いいや気にはしてないだろう。

 半ば競争のような勢いでアムさんとモルくんがおかわりを寄越せとお皿をつきだしてくる。まったくこの二匹の食べっぷりは半端ない。

 そういえば兄さまたちもこんなだったと思い出す。

 二人とも暖かいスープが大好きで、おまえが作ったのが一番だと、頭をなでてくれた。

 大きな男の。戦士の手。

「ん? なんだ作ったおまえは食わんのか? そのための料理なんだろう」

 おまえが食わんでどうするよと言われてニンゲンはようやく正気に返る。

 このままではせっかくのちゃんとした料理がアムさんたちに食べつくされてしまう。

 自分のお皿にスープを入れると、ニンゲンは少しだけ冷めてしまったミネストローネの味を懐かしく噛み締めるのだった。

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