自慢の妹と百万人の兄
兄1000000人目
その日、私は広くはないリビングでウトウトとうたた寝をしていた。
いろいろと理由はある。
外は快晴で小春日和と言った風な陽気であること。この部屋の日当たりが良いこと。彼自身八十を越える老いた身であること。今日はこれと言って予定がないこと。
そんな訳だから、誰にも責められようはずもない。
まどろみと現実の境目で、自らの半生を振り返っていた。
平穏そのもの、平凡そのもの。物語にはなりそうもない大きな起伏のない人生ではあったが、それでも至福を勝ち取っている現在から鑑みれば、誇ってしかるべき人生だったと彼は自負していた。
最愛の妻が居て、一人息子も良人と家庭を作り、やんちゃ盛りの孫までいる。
一度しかない人生に成功や失敗などないが彼の持論であったが、それでも自分の歩んできた道は掛け替えなく、幸せなものだった。
だから、だからこそ、いつ『その時』が来ても、満足いく結果であったとしてそれを迎えられるという確信があった。いい加減そんな事も考えるお年頃である。
「あら、御昼寝ですか?」
背後の戸が開いた音がしたので振り返ってみれば、そこには自分とそう変わらない老女がいた。
いやさ、自分も爺であるのに彼女を老女と呼ぶのも失礼が過ぎる。たとえ身内だとてだ。内心で思ったそんなことを誤魔化すように笑ってみせる。
「今日はとても温かいからね。それに暇な身だから。今日はどうしたんだ?」
「私も暇だったので、気まぐれに」
彼女はゆっくりと対面に座り、小さな布包みを差し出した。
「御土産です。兄さんの好きなプリンを作ってきましたから」
「ありがとう。後で頂くよ。これを食べるのも、もう七十年か……」
「七十年たっても、兄さんは全然変わりませんね」
「そんな事はないだろう。お互いしわくちゃになってしまって。昔は、こういう未来までは考えた事も無かったなあ」
彼女は妹だ。一つだけ年の離れた、二人だけの兄妹。
長い長い人生で、彼が妻以上に一緒に過ごしたのは唯一彼女だけである。
幼いころから彼女は彼をずっと慕っていたし、振り返ってみれば一度も喧嘩のした事のないほど仲睦まじい家族だった。
「お互い、長生きしたなあ。長い人生だったよ」
「そう、ですね。本当に、本当に長かった……。ねえ兄さん。兄さんは、この八十年、幸せでしたか?」
そんな事を聞かれ、自分でもつい先ほど同じようなことを考えていたからか、ふと笑みが漏れる。
「御覧のようにさ。幸せそうな、素敵な好々爺だろう、私は」
「ふふふ、それは良かった」
声を上げて妹が笑ったのに合わせて、彼も声を上げて笑った。
どうにも今日は笑ってばかりである。けれど、それこそそれが幸せの証ではなかろうか。
ところが、妹はどうしたことか表情を曇らせて口を開く。
「ねえ、兄さん。私は今まで1354人を幸せにする事ができませんでした」
「なんだ、唐突に」
「でも、それでも、兄さん。兄さんが幸せだったと言ってくれるなら、私は、私は――」
改めて彼女の事を鑑みた。
彼女は、自分とは比べようもないほど優秀で、大学を出て博士号をいくつもとり、高校くらいの教科書になら顔写真が載せられるほど。そして何より心優しい女性だった。
記憶力もいい。驚くべきことなのだろう老いた今でも、全盛期と同じほど。彼女は物忘れという言葉の対極に存在する様な女性だ。
だから。
だから彼女は、今まで関わりつつも幸せに出来なかった人間の事を思い出して、そして悼んで――
「998646人を幸せに出来た事になります」
……記憶力のいいからこそ、自分が助けられた人間の事も事細かに覚えていたようだ。きっと自らの研究の波及効果も加算しているのだろう。
そういえば、彼女は決して繊細ではなかったことも思いだした。
「私は最後か?」
思ったほど深刻でないようでホッとしつつもおどけて聞いてみれば、にやりといたずらっ子のような表情で返される。
「最後ですよ。お互い長生きしましたもの」
「成程、それもそうか」
この年まで生きれば、結末を見たのも非常に多くなっていったのだろう。そうして自分たちばかりが残っていったと。
お互いにもう長くなかろう。これまでが本当に長かったのだから。
しんみりとする私に、彼女は微笑みながら聞いてきた。
「それじゃあ兄さん、私を、褒めてくれますか……?」
「ははは、懐かしいなそれは」
子供の頃――いや、学生のころまでも、彼女はよくこうやって聞いてきていた。
幼い頃両親と死別したった二人の家族であった妹は、何かするたびに口癖のように言っていた。当時は色々と不安だったのだろう。
時折、大人になってからもそんな事を言う妹だったが、今聞いたのは実に久しく、うん十年振りだ。
そうして、こう問われた時に返す言葉もいつも決まっていた。
「もちろん、君はずっと自慢の妹だったよ」
兄745368人目
はっと目が醒めた。
痛みがない。いや、自らの体の感覚がないのだと自覚するのに貴重な数秒を浪費した。
そう、貴重だ。
恐らく間もなく自分は死ぬ。自分でも不思議ではあるがそれが自覚できていた。
身体が動かないので、視線だけで周囲を観察する。真っ白い天井と、真っ白い蛍光灯と、ちらちらと視線の端を横切る真っ白い服装の人間。
どうやらまず間違いなくここは病院のようだ。
口につけられた呼吸器の音がやけに煩く感じる。その上機械を使っていても呼吸が辛い。声を出すなどもってのほかだ。
「――っせ、先生、意識戻ってます!」
私の目の動きに気がついたらしい看護師が声を上げた。
俄かに白衣の人たちの視線がこちらに向かい、色々と聞かれるがしかし視線でしか反応はできない。
その直後だった。慌ただしく一人の女性が駆け寄ってきた。
「兄さん! ああ、兄さん、どうして……!」
妹である。普段は才女らしい穏やかな雰囲気を持つ彼女が、今は死んでしまわんばかりに泣いている。大学から相当急いできたのだろう、顔も紅潮して息も切れ切れで、ともすればこちらの方が心配しそうになるくらいだ。
死にそうなのは自分。心配されているのも自分であるのに。
未だに現実を認めきれていないのか、自分が死ぬと言う重要性の思考や感情の中での優先度がどうにも低い。
未練はないと言ったらウソになる。やりたい事はまだまだあった。人生なんてまだまだこれからだったとも思う。
けれど、交通事故なんて仕方がない。受けてしまった側からすればどうしようもなかった。
もう何年前になるか、父さんと母さんの時もそう。……だからこそ僕だけはこんな末路を辿りたくはなかった、妹にだけは見せたくなかったけれど、けれどやっぱりそれこそどうしようもない現実だ。
悲しむな、とは言えない――たとえ言葉を発する事が出来たとて、これから勝手に死んでそれで終わる人間が、遺す相手に言える言葉じゃあない。
強いて思いついたのは、いつものように、いつかのように彼女に感謝したいと言うこと。
親を亡くしてから、ずっと二人だけの兄妹として過ごしてきた、過ごしてくれた彼女にお礼の言葉を。
声に出来なくとも、その意志は自分の中に形作って逝きたいのだ。
ありがとう。君はずっと自慢の妹だった――
兄7人目
今日は妹が部屋から出てきたので、話しかけることができた。
なんて言ったらいいか分からなくて、とにかく「おはよう」とあいさつした。けれど、やっぱりむしされた。
ぼくの妹はとてもかしこい。
小学三年生のぼくには分からない算数の問だいもかんたんに分かってしまうし、むずかしい漢字もすらすらと書いてしまう。
パソコンだってとっても上手だ。
なのに、妹はいつもつまらなそうな顔をして、ずっと部屋に閉じこもっている。一つ下で小学二年生なのに学校にも行かないから、妹のたんにんの先生は何度もうちに来る。
もしもぼくが妹みたいに色んなことが出来たなら、きっと色んな楽しいことをするのに。
ひょっとしたら、たくさん勉強ができるのに、遊び方とかを知らないのかもしれない。
そう思って、妹に話しかけようとするけれど、妹はぼくことがきらいみたいでいつもむしされる。
悲しい。
お父さんは、妹は心のびょう気だって言う。お母さんは、妹は勉強ができるかわりに他のことはゆっくりなんだって言う。
ぼくは、妹といつかいっしょに遊びたい。
お兄ちゃんなのに、妹の方がたくさん勉強できるけれど、やっぱり遊び方はぼくの方がたくさん知っていると思う。だから、いつか色んな遊び方を教えてあげるのだ。
とてもすごい妹だから、ぼくよりもすぐに上手になってしまうかもしれないけれど、そのときはぼくも負けないようにがんばろうと思う。
いっしょに遊べるようになったら、家にずっといるから友だちのいない妹と、ぼくと、ぼくの友だちとでたくさん遊ぼう。
ぼくの友だちは、だれも妹と会ったことがないから、年下なのに色んなことが出来る妹にびっくりするだろう。
そうして、ぼくはみんなに言うのだ。
この子が、ぼくのじまんの妹なんだ、って。
兄101人目
「行ってきます」
欠伸を噛み殺しながら、僕はドアノブに手をかけた。
朝練の日の早起きには未だに慣れない。
玄関の戸を開ける直前、図ったようなタイミングで妹が台所から顔を出した。片手に小さな包みを持って。
「お兄ちゃん、お弁当は持ったの?」
「分かってるなら聞かないでくれよ……」
バツが悪くて俯きながら、その包みを受け取る。
「お兄ちゃんがいつも忘れるからダメなんです。……部活は結構だけど、勉強の方もしっかりとね」
「妹に言われる事じゃないよ、そんなの。とにかく僕は行くから」
それだけ言って、逃げるように家を後にした。後ろから小さく「いってらっしゃい」と言う声が聞こえた。
ああいう小言を言うのは妹じゃない。母親の言うことだ。僕たちにはもういないから、妹はその代わりをしているのだろうか。
そんな訳はない。アイツは、母さんと父さんが居なくなるより前からああだった。
僕の妹は天才だ。少しおかしいくらい。正直それが、うっとおしい。
小さい頃は何とも思わなかった。ちょっと人より勉強ができるくらいだと思っていた。
思いかえしてみればちょっとどころではない。
どんな天才児だって、幼稚園児で高校の科目の問題が解けるわけがない。それでも、妹はやってのけていた。
そして妹は、自分がそうできる事は人とは違うという事まで理解していて、昔から家族以外の前では当たり前の子供のフリをしていた。いや、家族と言っても、僕だって偶然気がつかなければ、妹が普通だと今でも思っていたかもしれない。
頭がいいだけじゃ無い。気立てが良くて、察しが良くて、几帳面で、そつがない。妹以上に欠点のない人間を、僕は知らない。
異常なほどに。気味が悪いほどに。
時折、関係なんかないとわかっていても、両親がいなくなったのはあの妹のせいではないかと思う。
アレだけ優れた妹には、親などいらなかったろうから。
そうして、ならばいつか僕もいらなくなるのではないか。
そんな、益体もない他愛もないささやかな妄想。くだらないと理解しつつも、どうしても払いきれない。
どうにも、どうしても、どこかで好きになりきれない妹。
けれど、周りのみんなは口を揃えてこういうのだ。
自慢の妹さんですね、って。
兄1人目
僕の妹はすごい。何でも一度見たり聞いたりしたことは絶対に忘れないらしい。
小さい頃に聞いたテレビの歌も、一週間前に食べた夕飯のおかずも、いつか僕が母さんに叱られた時の言葉もみんな覚えているんだと言う。
ただ、妹は勉強が嫌いだからテストの点が悪いこともあるし、運動神経は僕の方がいい。
それに、覚えているから大変だということもあるようだ。
人の悪口なんか一度聞いたら忘れられないものだから、妹は中々友達を作れない。人を信用するのに一苦労するみたいだ。
その点、小さい頃からずっと面倒を見てきた僕は、実に懐かれている。
父さんや母さんが結構厳しいから、ことあるごとに慰めていたのがきっかけかもしれない。
怒られることを怖がる妹が、何か出来た時に「褒めてくれる?」とよく聞いてきて、僕がいつも褒めてあげていたからかもしれない。
とにかくそんな訳で、僕は一番慕われている。
言う事も良く聞いてくれるけれど、妹だって来年から中学校なのに、こんなに僕にべったりで大丈夫かと不安にもなる今日この頃。それでも僕は、妹と二人で近所の神社に遊びに来ていた。
小さな神社だ。中学校の体育館より少し広いくらいの面積しかない。それでも歴史ある所らしく、社や鳥居は古めかしいし、御神木も随分と大きい。
ここで遊びたいと言うのは、妹の誘いだった。
セミがどんな形をしているか、本当に図鑑と同じなのか見てみたいと言うので、小六と中一でセミ取りだ。女の子なのに結構やんちゃなのは、男の僕にひっついて遊んでいたせいだろうか。
問題のセミはと言えば、暑さに負けじとばかりの鳴き声が今日もうるさいくらいに聞こえるので、きっとどこかにいるのだろう。
妹の喜ぶ声が聞こえたのはその直後だった。
「あ、お兄ちゃん、居た、居た、よっと……」
「わあ、馬鹿、何やってんだ! 危ないしダメだろう!」
ちょっと目を離したすきに、妹は御神木の注連縄に足をかけて、高い所のセミを取ろうとしていた。なんて罰当たりな。
「大丈夫、大丈夫。結構頑丈そうな縄だから……」
「そう言う事じゃなくて!」
「あと、ちょっと……」
僕が叱っても妹は降りようとしない。
なにも忘れることのない妹は、自分が見られないお化けやら幽霊やらをあまり信じない。記憶にあやふやがないから、そんなものはいないと確信しているのだと言う。
でも、妹に言っていないけれど僕自身はそういうのがいるんじゃないかって結構信じている。
だからたまにこういう事をされると気が気でないのだ。
そして、案の定。
ぶつりと鈍い音が聞こえたのと、目の前で妹が落ちたのは同時だった。
「ぎゃ! いったたた……。あー、逃げられちゃった」
「大丈夫――みたいだけど、何やってるんだ馬鹿! 注連縄切れちゃってるぞ!」
尻をさする妹は、上手に落ちたもので怪我こそないようで、そんなことより取り損ねたセミの心配をしていた。
僕としては、妹の次に不安になるのは、セミなんかよりも今妹が切ってしまった注連縄だ。
太く、歴史ありそうだったその注連縄は、今や見るも無残に千切れて落ちていた。
「あー、切れちゃったね、しょうがないよ。結構古かったみたいだし」
「切れたんじゃなくて切ったんだろう! 古いほど重要なものだろうこういうのは!」
「しょうがないじゃん。どうしようもないし。後で神主さんに謝りに行くよ」
口で謝りに行くと言っても、妹の口ぶりはまるで悪びれていない。
「当然だ! と言うか神主さんだけじゃなくてこの御神木にも謝っておけよ!」
「いいじゃんそっちは別にー。木に謝って何かあるの?」
「何かあるから注連縄巻いて、御神木として祀ってあるんだろう! ほら!」
「はーい、ごめんなさーい」
あからさまにおざなりに言って、妹はセミ探しに駆けだした。
僕は残って、心の中で妹の代わりに謝った。
ごめんなさい。悪い子じゃないんです。どうか許してあげて下さい。
あの子は僕の自慢の妹なんです。
兄266人目
シャワーの音がうるさい。うるさい。うるさい。
母さんが僕を見てる。見ていない。見られない。でも見ている。首から下が無ければ何も見えない。でもこちらを向いている。
父さんがある。居ない。ある。半分だけある。半分はいない。指がはいすいこうに引っかかっている。
血が流れる。はいすいこうに。父さんの指を染めながら、シャワーの水がはいすいこうに流し込んでいく。
妹がいる。
「に、兄さ、兄さん……兄さん? なんで、なんでココに、嘘、嘘、嘘嘘嘘嘘嘘……!」
手に包丁をにぎってる。妹は料理が好きだ。料理が上手い。昨日も晩ごはんを妹が作った。
ここは台所じゃない。料理はどこ? 見当たらない。包丁なんてなんで持っているんだろう。
「嘘、違うの兄さん。邪魔、邪魔だったの、兄さんと私だけ、兄さんだけでいいの、兄さんだけ、お兄ちゃんだけ。私はもう大人だから親なんて邪魔だったの、私がお兄ちゃんの為になるには邪魔だったから、違う、嘘、嘘、嘘」
ぼくの妹。かしこい妹。すごい妹。優しい妹。何を言っているのか分からない。うそってなんだろう。見えているもの? これがうそ? 本当にうそ? うそで良いの?
妹は大人じゃない。ぼくも大人じゃない。明日は小学校だ。ぼくも妹も。
父さんは仕事で、母さんは家事だ。
「なんでこんな、見られ、これじゃあ兄さん、兄さんは、お兄ちゃんは」
なんで妹が泣いているんだろう。
何でも出来る妹が、泣くことなんてないはずなのに。
ぼくのじまんの妹が、なんで。
兄43人目
目の前の布団からすやすやとした寝息が聞こえてきたので、僕は布団を撫でていた手を休めて一息ついた。
今年から中学生をやっている妹だけれど、未だに寝るまでついていて欲しいと言って聞かない。いい加減やめるように言うべきだろうか、と悩む。
言った所で聞きやしなかろうとも予想がつくけれど、それでも心を鬼にするべきだろうか。
慕われていること自体には悪い気はしない。だからといって、望まれるままに甘やかすことが妹にとっていいとも限らない。もっとも、教育の上で何が正しく何が間違っているかなんて、僕だって十代前半なのだ判断が付けられる自信なんてない。
それでも、妹が求めているのはたった一人の僕だから、その期待に対する責任はあるのだ。
知り合いはみんな僕の事を羨ましいと言う。あんなに兄貴に懐いてる妹はそういないって。そうだとしても、やはり当人からしてみれば「そうでもないよ」と言うのが返答である。
そうでもないと言うのは妹が僕の事を好きであることに関してではなくて、そこまで羨ましがられることじゃあないってことだ。妹が僕に懐いている話ならば「そんなもんじゃないよ」と言うのが返答である。
そんなもんじゃないと言うのは実は妹が僕を好きじゃないと言う話ではなくて、常識的に考える程度じゃあ僕の妹の現実を推し量れやしないってこと。
よく出来た、人に自慢できる程の妹だけれど、だからこそ他の人には欠点がそれに隠れがちに見えるのだろう。
何かあればお兄ちゃん。なにはなくともお兄ちゃん。カルガモの子の様に僕の後ろにひっついて離れない。僕が妹の言葉を会話の端にでも出せば何をおいてもすっ跳んでくる。
お前を呼んだわけじゃないと言っても、お兄ちゃんが私の事を話すなら何でも聞きたいと言ってまたべったり。
世の妹事情に僕は決して明るいわけじゃないが、これが普通じゃないというのは理解できている。
理由は、まあ、ある。当事者である僕としても理由として納得できるものがある。
父さんと母さんの失踪だ。当時小学生だった僕たち二人を残して、ある日突然、前触れもなく父さんと母さんは姿を消した。
いつの間にかいなくなった。どこに行ったのかも、そもそもどこかに行くかと言う話でさえ誰にも、僕と妹や親戚にも、仕事先の人にも、何にも告げずに消えた。
誘拐の的になるほど特別な大人じゃないし、攫おうと言うなら僕や妹を狙ったろう。まして犯人からの要求もない。
家庭に問題があったとは思えない。僕も妹も眉を顰められるほどの問題児ではないし、夫婦仲も――少なくとも子供の視点としては悪かったようには見えなかった。それに、もしそれが問題で姿を消したのだとしても、両方が一緒に消えたのとは結びつかない。
仕事の方も至って順調。問題がないとまでは言わないが、それにしても日常的な範囲の問題だったと言う。
借金取りに追われているとか、そう言う話もない。
本当に、父さんと母さんが居なくなる理由なんて、無かった。無かったはずなのだ。
事実として現実として、僕と妹の生活の中に今二人の姿はないのだけれど。
妹は、その二人が消えてしまう直前まで、一緒に居た。
基本的に健康優良児な妹が風邪をひくのは珍しいことで、しかも僕が覚えている限りはその日が初めてで、だから相当慌てたのだろう父さんも母さんも二人で妹の面倒をみると付き添っていた。僕は学校に行った。
僕が帰って来た時、妹は一人布団で寝息を立てていた。父さんと母さんの姿はどこにもなかった。
後から妹に聞いてみれば、気がついた時にはいなくなっていたらしい。
妹が僕にべったりになったのはそれからだ。それまでも結構なお兄ちゃん子だった妹だけれど、その日を境にまるで他の何も見えていないかのように僕に纏わりつくようになった。
ただの中学生に過ぎない僕たちが二人だけで生活している現状もそうだ。
親戚の中から、何人かが引き取ろうかと声をかけてくれた。けれど、妹がそれを異常に嫌がったのだ。
僕以外の誰かと暮らすという事を頑なに拒否したかと思えば、僕が離れようとすることも自分が死んでしまわんばかりに嫌がった。
親戚の人たちは、妹の心情を慮ってくれた。
元々、父さんと母さんが共働きで僕たち二人が簡単な『生活の仕方』を知っていたという前提もあるけれど、そんな訳で僕と妹は二人暮らしと相成った訳である。
僕を大好きな妹で、それを除けばよく出来た妹。だから、生活自体は案外順調に行えた。だけれど、僕が好きすぎる妹の偏執には時に困らせられることがある。
ある日のことだ。僕は友達に呼ばれて遊びに行こうとしていた。
公園代わりに、近所の古い神社で集まる予定だった。友だちたちも、妹が僕にべったりな事を知っていたので、一緒に遊ぶ予定だった。
けれど、その時、妹は妙に嫌がったのだ。
殆どの事は僕の言葉に一も二もなく頷く妹が、けれどまるで何があってもそこには行けないとばかりに、嫌がった。あまりにも珍しいことだったので理由を聞こうとしたが、それすら喋らずにイヤだイヤだと首を振るばかり。
仕方ないから僕一人で行こうとすれば、それもイヤだと服の裾を掴んで離さない。僕が行くのもダメだと言う。
珍しいことだった。何せ普段の妹ならば、僕と離れたくないとこねる駄々を、行かせたくないと言ったのだ。
そんなことがあって、結局僕はその遊びを断ることになった。未だに妹は神社を嫌っているし、その理由を話そうとはしない。
そして、こんな妹の突発的な我儘は、前触れもなく、そして非常に頑固に起こるのだ。しかも、偶にしか言わないから聞かない訳にはいかない。
非常に困る、と言う訳ではないが、僕はそれが、何か怖く感じることがある。
よく出来た妹、僕のことが大好きな妹、目の前で穏やかな寝息を立てる妹。僕は、この子を守るつもりでいて、実はいいように操られているんじゃないだろうか。
普段は面倒を見て、どうしてもと言う事にはまるで拒否できない。
何の確証もない些細な妄想なのに、僕の心からその疑念はどうしても消えきらない。
――ひょっとして、僕は妹が嫌になっているのだろうか? だからそんな事を考えるのではないのか?
そんな疑惑が僕の中に生まれて、そんなことを考えてしまったという自己嫌悪も、また生まれる。
やっぱり、妹には早く兄離れしてもらわなければいけない。
何より、僕が妹にとって嫌な兄貴にならない内に。
決意を新たにして、僕は目の前の妹に静かに、おやすみと言った。
自慢の兄貴でありたい。
彼女を自慢の妹と言い続けるために。
兄8239人目
「珍しいですね、兄さんが家に来るなんて」
「偶にはな。妹の顔を見ておこうとは思うさ。いい年して一人身で、だらしない生活をしてないかってな」
「あら、私はそんな妹に見られていたのかしら? それはちょっと予想外」
「冗談だよ」
安くはないマンションで、センスのいいソファに腰掛ける。窓の外に広がる夜景。
これで僕が妻帯者でなく、ここが妹の家でなければムードある状況だったのかもしれないと、軽口を叩きながらそう思った。
「兄さん、飲むでしょ?」
「……軽くいただくよ」
妹が持ってきたこれまた安くない酒に、益々状況が悔やまれる。
嫁に不満がある訳でも、妹にそんな感情を抱く訳でもないが、それでも三十路の男としては、惜しく思うなにがしかが存在するのだ。
「それで兄さん、あの娘とはどうなの? 家庭は順調?」
「今更あの娘という年頃じゃあないだろう、嫁さんもお前さんも。まあ順調だよ。お腹の小さい子も含めてね」
嫁は元々妹の友人だった。その縁で今に至る。
妹に心配されるまでもなく本当に家庭は安定していて、今五ヶ月目の三人目を合わせて今が一番楽しい時期なのかもしれない。
むしろ、二十代の終わりを目前に控えながら一人身で異性の影もまるで無い妹の方が、兄としては余程心配であったりするのだが。
「年の事はいいでしょうに」
「よくないだろう。いい人は居ないのか? 昔から浮ついた話をまるで聞かないで、いい加減こっちが気が気で無くなってきたよ」
「いいじゃない、本当に。私は私のやりたいように生きますって、何度も言ったでしょう?」
優秀な妹であるが、しかし彼女は頑固だ。恋愛嫌いなのまでこうも頑なになられると、溜息をつきたくなってしまう。代わりに、グラスを煽る。
妹もやれやれと酒を口にし、この話はこれまでとばかりに話題を変えた。
「それで、兄さん。そんな事を言いに来たのではないんでしょう?」
「ん、ああ、それはそうなんだが……」
けれど、本題を促されると、自分の口の動きがあからさまに鈍ってしまう。ここに来るまでに、覚悟はしてきたつもりだったのに。
頭がよく、問題の中心にズバズバと切り込める妹とは、やはり自分は違うのだ。
だからこそ、そんな訳はないと思いたいからこそ、だからかもしれないが。
もう一度、酒を喉に通す。アルコールが喉を焼く感覚が、固まる筋肉をほぐしてくれそうな気がする。
「……この間さ。取引先の人とちょっと仲良くなったんだ。同郷で年も一緒。地元トークに花が咲いたんだよ」
「そうですか、そんな偶然もあるんですね」
「それで、だ。その時――ちょっとした怪談を聞いてな」
「怪談?」
「ああ。何でも、昔そいつは地元で交通事故を見たんだそうだ。普通に走っていた車が、突然おかしくなって――後から、それが急にパンクしたせいだったと知ったそうだが――そうしてその車は、すぐ近くの壁に激突したんだと」
……確かにその事故は存在した。起こった後の様子も確かに自分自身でも見ていた。思い出しながら、思い出してしまいながら、また酒を。
「怪談、ってのはその先だ。その車がぶつかった直後、そいつは一人の女の子を見たって言う。車がぶつかったのを見て、安心したように、満足そうに笑う、自分と年の近い女の子。それを見たそいつはそれから恐ろしくなって、事故のあった辺りには絶対に近づかないようにしていたそうだが――」
「空ですよ」
言われて、手に持つグラスが開いている事に気がついた。気がつかないくらい、喋ることに集中してしまっていたのだ。
「それで、兄さんは――」
差し出される瓶に、空のグラスを寄せる。継ぎながら、妹は言い淀むことなく、悪びれるそぶりも、悩む様子の欠片すら見せずに言った。
「私が、父さんと母さんを殺したのではないかと疑っているんですね」
それは、まるで魔性の疑念だった。
友人が当時地元で見たというその事故は、僕たちの親の事故。両親ともに亡くしてしまった、苦すぎる記憶。そいつから詳しく聞いたその時の女の子の姿は、当時の妹と特徴が一致していた。それだけなら、嫌な話と言うだけで済んだ。
妹と比べれば記憶力に乏しい僕だったが、けれど話を聞いていて思い出してしまったのだ。
その日の直前、妹がガレージの辺りで遊んでいたこと。事故を起こした車は、他と比べてタイヤだけ劣化が激しかったと言う話を聞いたこと。
――当時から人並み外れて賢かった妹が、何かしていたんじゃないか、という疑い。あり得ない。あり得るわけがないのに、笑い飛ばされる――いや、激しく罵倒されるつもりでこの話をしたと言うのに、妹はあまりにも平然としている。
対照的に、僕の方が平静を装うのが辛い。
「相変わらず、核心を突くのが、早すぎる……」
「兄さんの前置きが長いんですよ、昔から」
妹は、まるで何でもない話を振られたかのように、微笑んでいる。
肯定なのか、それは。それとも、趣味の悪い戯言として、そもそも取り合っていないのか。
その先を尋ねるのに、喉は中々声を絞り出させてくれなかった。
けれど目の前の彼女は、微笑んでいた。
「私も、次からは気をつけますよ」
それがどういう意味なのか分からず、僕はいっそう言葉を失う。
追求することもできない僕の目の前に座っている彼女。
僕の自慢の妹は、ただ、にこやかに。
兄67821人目
週末の昼下がり。僕と妹は二人でゲームをやっていた。
対戦格闘ゲーム。ジャンルとしては下火となって久しいらしいけれど、相手が居るとこれが中々面白い。
ただ問題があるとすれば、僕と妹の間にあまりにも大きな実力差が存在しているという事実だけだ。
勉強ができる人間は、ゲームをやっても強いのだろうか? いや、計算的要素の強いパズルゲームや、知識や頭の回転を競うクイズゲームならまだしも、センスと反射神経が物言う格闘ゲームでまでハンデを貰わねば勝負にならないと言うのは、流石に認め難いものがある。
丁度今行われているのが、妹がキャラクタの体力を半分にしたハンデ戦である。
それでさえ正攻法で勝てない事を知っている僕は、必死に飛び道具で稼ぐ。近距離の殴り合いよりは、守りと攻めのタイミングが図り易い。
しかしそれでも、能力の差はジリジリとハンディの分を削っていく。
2:1だった体力の差が、3:2、4:3、1:1、ああ2:3と、ついにハンデの差をひっくり返された所で僕は一か八かと突撃作戦を敢行して――
「あー、あー、あああ……」
敢え無く滅多打ちの返り打ち。画面でくるくると回るYouWinの文字が、妹の勝利を盛大に称える。
これでもダメなのかと敗者の僕は意気消沈。しかして、これ以上のハンデは兄の沽券に関わる。ハンデを貰っている時点で沽券などどうにもならないという事実からは目を逸らしておく。
「ふっ……まだまだですね兄さん。私の兄さんの中でも下から数えた方が早いレベルですよ」
「お前の兄は僕一人で、僕の妹はお前一人だろうに」
非常に賢い――学業優秀で頭の回転も早い妹ではあるが、アホな事を言う事もある。
例えばこうやって、勝負事で完勝して気分のいい時とか。
「兄さんは知らなかったかもしれませんが――、実は私には過去に67820人の兄が存在していたのです。ちなみに兄さんの腕前はその中で41452位です」
「多いな! そして細かいな! 四万ちょいって僕の順位も微妙だな! お前はいつの間にそんなに沢山の兄を慕う兄長者になっていたんだ……。まだ見ぬ兄弟どもの顔を僕も見てみたいよ」
「ふふふ、嫉妬ですか兄さん。大丈夫、今の私は兄さんだけの妹ですよ。67820人も総て過去の兄。今の私の目に見えるのは兄さんただ一人です」
「光栄だね。……いや待て、と言うか過去のってまさかみんな鬼籍に入ってるのかい。殺伐としすぎだよ君の兄事情。一人二人くらい生き残りは居ないのか。ここに居る僕だけなのかよ」
「みんながみんな死んだわけではありませんよ。過去に未来に全ての兄は時の流れに飲み込まれて、哀しいかな私とは離れ離れ。でも私は大丈夫。なぜなら今の兄さんが居ますから」
「過去の人じゃないのか、未来って何なんだ。そして時の流れって一体どんなSFスペクタクルな冒険を送ったんだい」
「そう、実は私はついうっかり近所の神社の注連縄を千切ってしまったことに起因する、百萬の生を受けし者。つまりは百万回死ねる妹」
「SFじゃ無くて伝奇かよ! と言うか因縁を受けるきっかけがうっかりって! 軽いよ!」
「得てして取り返しのつかない引き金ほど、案外軽いものなんですよ。でも安心してください。兄さんに限ってはこの百万の人生を持つ私が安心サポート。貴方が墓石の下で眠るまで、兄さんの人生は全て私が守ります。他のだれにも邪魔はさせませんとも」
「そりゃありがとう、重ね重ね光栄だね。これからもよろしくー。……それでも僕のキャラの体力は守ってくれなかったんだね」
「お任せなさい。……勝負事に関しては、負けるのもまた経験、いつか兄さんの力になるはずです、きっと」
「妹に諭された……。ええい畜生! もう一回だ!」
「望む所です。それじゃあハンデを変えて――」
「ハンデは同じで!」
その日、僕はなんとかかんとかハンデを変えずに一勝をもぎ取った。これで兄としての面子も、どうにかこうにか保たれたと思いたい。ハンデを貰っている時点で面子などどうにもならないと言う事実はとりあえず気にしない。
時折アホな事を言うが、僕の妹は非常に優秀だ。非常に優秀な癖に、どこをとっても平凡な僕にやたらと懐いている。
さっき、僕の人生を守るだのなんて言っていたけれど、それこそ僕には妹の人生を守る義務がある。凡庸だとしても、それが兄貴の務めであるのだ。
彼女は愛すべき、僕の自慢の妹なのだから。
繰り返しからの脱却ではなく完遂が目的のループものを目指してみました。
12/19 タイトル等