おしまいの秋
「いくぞおっ!」
夫が樹を蹴って慌てて逃げると、頭上からばらばらとイガが落ちてくる。スニーカーの先でそれを開き、トングで実を取り出す。空は高い、絶好の栗拾い日和。パパの真似をして、小さい長靴の足で幹を一生懸命蹴る三歳児。うん、君の脚力では、栗は落ちてこないんだよ。それよりも、転んだら痛いから止めておこうね。
もうじき切り倒されちゃうっていう栗の実を、最後に食べるのは私たちだ。たわわな柿は、まだ鳥がつつくかも知れないけれど。郊外の祖母の家は管理する者もなく、家を壊して土地だけ売りに出される。惜しんでも古い家に住まう人はいないし、私の両親も私自身も、生活の基盤はここにはない。仕方のないことだ。
春、ハナモモのたくさん咲いた庭。夏は庭いっぱいに干された梅干。冬は寒くて、炬燵に集まって蜜柑を食べた。あの時の祖母は、まだ元気で優しい笑顔だった。施設にいた二年と数ヶ月間放置された庭は、主の不在を悲しむかのように荒れていた。時々両親が風を通しに通ったが、家の中だけのことで、庭までは手を入れていなかった。
もう帰る予定のない人は、それでも最期まで家を手放すことに同意しなかった。あれはお父さんが建てた家だと、何度も繰り返した。私が死んだら好きにすればいい。でも生きているうちは、お父さんの苦労をお金に換えたりしないでくれと。高度成長期に家を守った祖母は、家そのものが祖父を感じるものだったのかも知れない。祖母の得た病気は、痛みを緩和することにすらお金のかかるもので、祖母の僅かな保険では足りず、一人息子だった父は相続を担保に借金していた。どちらにしろ、もう自分の持ち物としては機能しない場所でもある。
もう、形見分けは済んだ。古物商と古道具屋が明日大物を運び出すと、解体を待つだけの古屋になる。父は、柱の一本一本を撫でて歩いている。育った家なんだものね、本当は一番悔しいよね。
「うわ、これもか!」
キッチン鋏で栗の鬼皮を剥いていた夫が、縁側から剥きかけの栗の実を投げた。三歳児は、木登りの真似事中。
「せっかく剥いた実に虫が入ってると、地味にへこむな」
「その栗、甘いのよ。渋皮煮も作るから、たくさん剥いておいてね」
「お義母さん、これ、結構手が疲れます」
「男が弱音を吐かないの」
母と夫のやりとりを聞きながら、私は里芋の皮を剥いていた。隣家の住人が、寂しくなるねと持ってきてくれたものだ。ガスはもう止まっている。残っていた灯油のストーブと七輪、それにポータブルなガスコンロで調理するのだ。電気を止めていなかったのは、訪れた両親が泊まるときのためだったという。祖母の居ない祖母の家に泊まる父の気持ちは、どんなだったろう。
お祖母ちゃん、病院には連れて行けなかったけど、あなたの曾孫だよ。仏壇はもう、両親の家に移っている。けれど、祖母の気配は仏壇よりもこの家のほうが遥かに濃い。
祖母の梅干が送られてこなくなって、初めてスーパーマーケットで梅干を買った。美味しいと思ったのは、はじめの一回だけだった。私も来年、漬けてみようかな。毎年の夏に訪れた時、夕方に干してある梅干を甕に取り込むのは、私の仕事だった。何年も手伝いに来てなかったね。ごめんね、お祖母ちゃん。
妹夫婦から駅に着いたと連絡があって、父は車のエンジンをかけた。
「秋刀魚買ってきてね」
母は念を押しながら、父に財布を渡す。祖母が全部一人で用意していた秋のもてなしは、今日たくさんの手で分けられている。引き継ぐ者のいなかった糠床は、もうダメになってしまったけれど。
はしゃぎ疲れた息子が、ウトウトしてる。母がそれを横にして、毛布をかけてる。あれはきっと、幼い頃の私だ。眠っていた時間さえ惜しくて、起き出したら不機嫌になるに違いない。子供には探検する場所がたくさんある家。あっちの引き出しもこっちの押入れも開けてみなくちゃいけなくて、別に楽しいものがあるわけじゃないのに、小さい子供は忙しい。
ストーブの上の土鍋から煮汁が吹きこぼれて、慌てて蓋を開けた。里芋を煮るのは、やっぱり土鍋が美味しい。外はそろそろ夕焼けだ。自分の家では、こんなに早い時間に夕食の支度はしない。だけど大人数でゆっくり摂る食事ならば、やっぱり早い時間にはじめないと。そうか、早い時間に食べ始めれば、ゆっくり寛ぐ時間も長くなるのか。日々の忙しい中、保育園に子供を迎えに行って、慌しく夕食をしたためることが当然になっているから、夫ともしばらく話してなかった気がする。事務連絡みたいに、あれこれ伝え合うだけ。お祖母ちゃんの家の時間はゆっくり流れると思っていたけど、こうして時間の余裕があるのは、人間を豊かにするね。だってほら、外の虫の声が聞こえる。
父と妹夫婦が、帰ってくる。これで全員が揃った。
夫が七輪で火を熾しはじめると、母は大鍋の中にたくさんの種類のキノコをざざっと入れた。そろそろ、ごはんが炊けるはずだ。息子ははじめての栗ご飯、ちゃんと食べてくれますように。お祖母ちゃんの庭の最後の栗なんだから、美味しいって言うといいなあ。
「慧太、そろそろ暁くん起こしておいて」
眠がってむずかっている子供に食事させるのは、難しいものね。先に起こして、機嫌をとっておかなくては。
妹が持参した漬物はパック入りだけれど、切りそろえて大皿に盛り付けると、なんとなく懐かしいものに見える。それは多分、普段よりもずいぶん多い量だからなんだろう。ここに来るたびにお茶請けに出された漬物は、子供だった私たちにはまったく興味のないものだった。それよりも、子供をもてなすために買い揃えられたチョコレートやクッキーを頬張った記憶がある。お祖母ちゃんのお漬物の味は、覚えていない。
父は七輪の前で難しい顔をして、秋刀魚を焼いている。そろそろ、みんなでごはん。
大きな座卓の上に揃えられたのは、山盛りの秋。こんな贅沢な食卓は、きっともう訪れない。夫が大好きな厚切りのステーキより、私の好きな六本木のイタリアンより、もっと贅沢だ。だってこれは、二度と再現されない味なのだから。お祖母ちゃんの栗は、もう実を結ばない。隣家から里芋を、いただくこともない。
「瑞穂、大根おろしは?」
「慧太さん、銘々皿をまわして頂戴」
旧家でも名家でもない家には揃いの食器なんてなくて、みんなそれぞれがちぐはぐな皿を持つ。
栗ご飯、きのこ汁、秋刀魚、里芋の煮っ転がし、お漬物、柿のなます。デザートは栗の渋皮煮と、やっぱり柿。全体的に茶色の、華やかじゃない食卓。子供にはきっと、魅力的じゃない。
息子に向かって、話しかける。多分彼の記憶には、この食卓は残らないだろうけど。
「暁くん、秋のご馳走だよ」
「あき?」
「うん、全部秋に美味しいものなの。いっぱい食べようね」
里芋をフォークで小さくして、母が息子の口に入れてやっている。私も祖母に、同じことをされたかも知れない。栗ご飯の栗は、記憶よりも甘くて強い香りがした。
七輪の熾き火の中に入れておいた薩摩芋が、いつの間にか焼けていたらしい。これから全員で一番近い銭湯に行くから、それは夜更かしのお楽しみになる。
車に乗り込む前に空を見上げれば、秋の星座があった。残り火を始末しながら、父が呟いた言葉を、私は一生忘れない。それはとても陳腐で、誰もが心に持つ言葉なのだけれど。
「母ちゃんの飯、旨かったなあ」
遅く咲いた金木犀が、ふわりと香った。
fin.