夢の続き
不思議な夢を見た。
高層ビルが林立する背景に生い茂る緑、なだらかな丘陵が奥に構えていて、目の前には二本のそれは幹の太い大きな樹木が見える。
新宿御苑か?
いや違う。あそこにはこんな立派な双樹はなかったはずだ。そもそもこの街にこんな広場があったか?などと思いながら取り敢えずその対になって聳え立つ巨木に向かって歩き出す。空を見上げれば雲だか霧だかはっきりしない灰色の空模様が延々と続いていた。
何となく落ち着かなかった。
むしろ不安だったと言うべきだろう。ただ、その不安を掻きたてるものが前方に構えている樹木にあることだけは間違いなかった。
枝が撓る姿がやけに視界のあちらこちらで目についた。
樹木の輪郭線が互い相違なくゆらゆらと揺れていた。風はなく、枝が一方に撓んでいるわけでもなく炎のように揺らいでいる。なんだかゴッホが描くような一枚画の中に飛び込んでしまった気分だ。
自分の革靴が踏みつけている芝生を更によく見てみる。どこから舞い込んだかさえ分からない微風に触れた葉の先が列を崩しながら波立っている。二、三歩踏み出してできた足跡は窪んで深い緑色が地面に刻み付けられている。更に歩いてみて踏みしめる大地や生ぬるい空気が厳然と存在しているのを確かめてみた。蒸し暑い空気が首筋に絡み付き、汗でシャツが肌に張り付いて気持ち悪くて仕方がない。思わず顰めた顔を上げた時、初めてその巨木が面妖に見えた理由がようやく解った。
木だと思っていたそれは木ではなかった。
単純に木の形をしているものにすぎなかった。それは人の身体が幾重にも絡みあって組み上がっている塊だった。
老若男女、肌の色、髪の色を問わず様々な人間が局部に顔を埋め、互いの手足を掴み、這わせながら生い茂っている。幹の部分では何がどうなっているのか見当さえつかない。都心部にぽっかり開いた広場にこんなものがあること自体考えられなかった。
何かの催し物でもやっているんだろうか?
そんな惚けた考えを抱かせるほど絡み合う人々の顔には恍惚の表情が浮かんでいた。
そんな異様な光景をつぶさに観察しているその最中だった。突然、傍を二十歳そこそこの女性が駈け抜けて行った。
人木と表現すべき大樹にある程度近寄ったところで、その女性は着ていた黒いTシャツの裾に交差させた両手を引っ掛けた。襟口が裏返しになってTシャツが彼女の頭から抜けた時には既にサンダルの片方が芝生の上に跳ね飛ばされていた。純白のタイトパンツを脱皮するかのように脱ぎ捨てると、彼女はうねる幹をよじ登っていく。
呆気に取られているところにスーツ姿の男性がネクタイを毟り取るように投げ捨てながら走り去っていったかと思うと、更に矍鑠とした爺さんが下駄を脱ぎ捨てていく。爺さんはサラリーマンの背中を追って走って行った。小学生の男の子達が手を繋ぎ、パンツ一丁走るその背中を見た時、もう誰が広がりつづける人木に駆け寄ろうと気にもならなくなった。
既に八方から数え切れない人が押し寄せてきている。
きりがない。
そう思って上を見れば、枝がざわつき、一段と広がりを増したように見えた。
その枝の先端がしなり、長髪の女性が上下反転したまま手を差し伸べてくる。乳飲み子に片方の乳房を塞がれ、くびれた腰の辺りに赤銅色のごつい腕が巻きつき、頭の禿げ上がった老人の荒い息を首筋に受けて腫れぼったい下頬を女の子を背にその女性が舞い降りてくる。広げる両手と共にその女性は「さぁ」と言わんばかりに口を開いていた。
幹の辺りには全裸になった人々が押し寄せてくる。
そして大木は更にその大きさを増していった。
その双樹はこちらに向かって枝を伸ばしてきていた。
こんな瞬間がいつか来るんじゃないかという根拠のない期待感が心の泉に一滴の滴となって落ちた。そしてその期待感という名の波紋は広がっていき、戸惑いを侵食していく。
さらりとうねる黒髪の後ろに雲間から射す日の光が降り注いでいた。
柔らかい指先が俺の頬に触れた。
その肌触りはとてつもない快感を伴っていた。俺は目を閉じてその感触を味わった。そして、再び目開くとそこには均整の取れた美しい顔が近づいて微笑んでいた。無数の手が俺の身体に触れ、抱きかかえて行こうとしている。そのまま彼女の顔が背景と共に白く滲んだ。
夢はそこで途切れた。
意識に飛びこんできたのはカーテンの合間から覗く日差しだった。光を遮った手で俺は目許を荒く擦った。敷布団の周りに散らかったものを見回す。CDケースと歌詞ブック、観葉植物のカタログにティッシュボックスとまばらにシミが広がって表紙がごわごわになっている18禁雑誌が転がっていた。
あぁ、そうだった。
夕べ、俺は柄にもなくジャックダニエルを買ってきて、ストレートでショットを開けながら椎名誠の『みるなの木』を読んでいた。短編の最後の挿話を読みながら、どこまで読んだかすらはっきり思い出せないまま眠りに落ちたはずだ。俺はタオルケットを跳ね除けて布団から抜け出た。
鍵を閉め、羽織ったシャツの襟を直しながら俺はアパートの階段を下りた。狭い路地を少し歩いて、交通の多い通りに出たところに待ち構えていたのは都会の雑音が逃げ出した静寂だった。
噎せるような熱風がジーンズの裾を脛に押し付け、シャツの襟を弄んでいった。歩道には自転車を蛇行運転させる老人も、手押し車に寄りかかりながら家路につくお婆さんも、ランドセルをばたつかせて走り回る小学生も、声を上げてその後を追う母親の姿もなかった。
完全に死んだ時間。
最初の交差点まで歩けば買い物袋を下げた中年主婦と鉢合わせすることがよくある。辺りには営業回りのサラリーマンの後ろ姿がぽつぽつと見えるのが何気ない平日の姿なのだ。この界隈はそういう場所だ。だが、辺りには人っ子一人いなかった。
俺は右足を踏み出そうとした。だが、その足は痙攣したように小刻みに震えていた。その振動が常識の棚の上に放置していた好奇心を呼び覚ましていく。
…さて、あの広場までどうやって行けばいいんだっけ?