砂上の楼閣
私の初恋は砂上の楼閣だった。
「約束通りにしたぞ」
中から聞こえた声に、教室のドアを開けるのをためらった。
忘れ物を取りに教室に戻った。ためらわせたのは、1ヶ月前に彼氏になった人の声が中から聞こえたからだ。高校3年間、ずっと好きだった人から告白された。卒業まであと少しのときだ。
お互い大学に合格し、自由登校になっていた。告白されて、学校の図書室で少しの時間会っていた。嬉しくて、誰にも言わないようにと念を押されたことにも、お互い時間はあるはずなのに、学校以外で会わないでいる理由にも、全く気付かなかった。
「お前が賭けで負けるから、付き合うはめになったんだろう」
残酷に告げる彼の友達の声にドアにかけた手が下にさがる。
「確かにそうだけど、すげー苦痛」
「そりゃ罰ゲームだもん。お前が嬉しかったら罰ゲームにならないからな。あいつ、お前のことが好きだって俺の彼女が言ってたし、お前はあいつを嫌いだからちょうどいいかと思って」
「そうだよ。ああいう女は嫌いなんだよ。キスだって昨日ようやくだぜ? 好きだってんならさっさとさせればいいのにもったいつけてさ」
「それは仕方ないだろう? 今まで付き合ったことないみたいだしさ。お前も優しい彼氏の役やって楽しかっただろう?」
「そんなわけあるかよ。好きでもない女相手に愛想振りまいて、それに気付かないで笑っているあいつを見ているとイライラしたね。とりあえずキスまでしたら別れていいって約束だろ?」
「ああ。最後の思い出になったんだろうし、あの子にも良かったんじゃないか?」
彼らの言っている意味が分からない。いや、分かりたくない。
どういうこと? 罰ゲーム?
一つ分かったことはこの場にいちゃいけないってことだ。
これ以上この場にいちゃいけない。
踵を返して廊下から立ち去ろうとしたときだった。
ガラッ
教室のドアが唐突に開いて、中から男子生徒3人が出て来た。
「「あっ……」」
しまったという顔でこちらを見る3人に、さきほどの会話は冗談ではないと知る。
「……ごめんなさい」
思わず言ってしまった。
「何が?」
すかさず、彼が反応してきた。その顔を見れずに俯く。
「私のこと、嫌いなのにつき合わせて……」
「ああ。嫌いだね。この1週間ずっとうっとうしくてしようがなかった」
「おい、言いすぎだぞ」
彼の友達が彼をいさめるが、意に介さず更に今までの鬱憤を晴らすかのように言い募る。
「お前もさ、鈍感なのがいけないってこれで分かっただろう? 好きだって言えば疑いもせずへらへら笑ってバカじゃないか?」
昨日まで優しかった彼が嘘のようだった。
目の前にいるのは、私を射殺さんばかりの目で見る見知らぬ男だ。
「き、昨日のキスは演技だったの?」
自由登校で図書室で自習をする生徒もちらほらいた。
本を返しに本棚に行ったら彼も一緒に着いてきて、棚に隠れるように小さなキスを唇にくれた。
恥ずかしくなって赤くなった顔を俯いて隠そうとしたら、顎をすくわれて目と目を合わせて優しく笑ってくれた。
それが演技?
「……ああ。あんなので真っ赤になって笑えるよな。こっちはこいつらとの約束だから仕方なくしただけなのに」
「おいっ。もういいだろう? 罰ゲームのことは話さないはずだったんだからさ」
「もうバレたんだからいいじゃん。俺が好きなんだろ? 1ヶ月間夢見させてやったんだから感謝状が欲しいくらいだよ。そもそも、そうでなきゃ、モテる俺がお前と付き合うはずないだろう」
言い捨てて彼はさっさと教室を後にした。
彼の友達がいろいろフォローを言ってくれていたようだけど、耳には入って来なかった。
放って置けなかったのか、私の友人でもある彼の彼女を電話で呼び出して私と一緒に帰らせた。
「これって夢じゃないんだね」
呆然としながら呟いた言葉に、友人はひたすら謝ってくれた。
彼女が悪いわけではないのに、自分の彼氏が私を傷つけるようなことをしてごめんと一生懸命謝罪してくれた。それが申し訳ないのと、今まで自分が彼に嫌われていたという事実にショックを受けながらも帰宅した。
彼があんな風に自分を見ていた。うっとうしいと思っていた。
最初からおかしいとは思っていた。
彼は陸上部で、短距離のインハイ出場までした凄い選手だった。
引退後に国立大学への進学を決めたのも陸上の推薦ではない。センター試験を受けた上での合格だ。
その彼が特に綺麗でもない、何かに秀でているわけでもない、そんな自分を好きだということがおかしかった。
ラッキーだと思いながらも疑問はずっとあった。だから、理由が分かったとき納得した。
悲しいというよりも、やっぱりなという気持ちの方が大きかった。
自由登校になっていたから、卒業までの残りは最小限に登校するだけにした。
登校しても、お互い別々のクラスだったから会うこともなかった。
友人の彼氏であの罰ゲームを提案した人からは、悪趣味なことをしてごめんと土下座するように謝られた。それに対して、付き合いができただけでも良かったからと思っていたことを伝えたら、泣きそうになってしまい、こちらが焦った。
卒業式の日、特に感慨もなく式自体は終わった。
何人かと適当に挨拶をして、夕方やるという二次会に不参加を告げて下駄箱に一人で行った。
「友達いないのか?」
まさか最後の日に彼に声をかけられるとは思っていなかった。
「……それほど親しい友達はいない」
「だからあんなに簡単にひっかかったのか」
どこか納得した様子で自分を見つめる彼に、不思議と感情が湧かない。
「ずっと好きだったから、ひっかかりたかったんだと思う」
これが最後になるのだからと、自分で思っていたことを口にした。
「へえ? 俺がどんなやつかも知らないで? そんなのでよく好きだと言えるな」
「よく知らないからだと思う。私が知っているのは、部活が休みの日に年の離れた弟さんと仲良く買い物をする姿しかないから」
聞いた途端、彼はこちらをじっと見つめてきた。
あれだけ好きだと思ったのにな。
少し前ならその視線だけで心臓がドキドキ鳴り止まなかった。
でも今は落ち着いてしまっている。
ああ、恋が終わったんだな。
自分で納得したら、急に嬉しくなった。
「卒業おめでとう」
まだ何かを言おうとする彼を、無視して帰宅の途についた。
こうして初恋はあっという間に消えていった。