4.帰れる場所へ
『帰ってきなさい! いまなら間に合うから!』
電話に出た瞬間、母親の切羽詰まった声が飛び出してきた。
「けど……」
テレビの画面にテロップが表示される。富士山直下を震源とする最大震度5弱……火口上空5000mの噴煙。
胃が落ちていくような感覚に、たまらず立ち上がって窓辺に立った。富士山上空の灰色の領域はじわじわと広がりを見せ、もう稜線を確認することは出来なくなっていた。雨雲とも違う、不気味な暗い境界がゆっくりと、しかし確実に迫ってきていた。
胸の中で同じように不安も広がっていく。
それでも頭の中で、問題ない、大げさな反応だ、そう別の自分が言っていた。
ウチまで火山灰がくるとも限らないのに、ビビって逃げ出すなんて真似は出来ない。
「たいしたことないだろ」
『たいしたことがあってからじゃ遅いでしょう! なにもなければ、すぐ帰ればいいじゃない!』
普段と変わらない断定的な口調に苛立ちが湧く。反射的に言い返そうした言葉を、聞いたことのない声が押し留めた。
『お願いだから……。帰ってきて』
弱弱しく、かすかに震えを帯びた声音。スマホを握り締め、短くうなずいた。
なにを持てばいいかも考えず、普段通りの荷物をバッグに詰めて家を出た。
原付に乗って通りへ出ると、ひどい渋滞が出来ていた。歩道にも大きなバッグやスーツケースを手にした人たちが険しい顔をして足早に歩いている。
みんな、どこへ行くべきか分かっているんだろうか?
けたたましく鳴らされるクラクションの合間を縫って進みながら、向かうべき場所があることに心強さを感じた。
行けども行けども続く渋滞。高速の入り口に差し掛かると、多くの車が立ち往生していた。数人に詰め寄られた料金所のスタッフは、引きつった顔で怒鳴り返す。
ドライバーに求められて解放されるだろうか。
様子を見るか迷ったが、強引に引き返していく車に追われて、その場から離れた。
下道を行く。
山間に入れば減るかと思ったが、上りも下りも車の流れは途切れない。いつもは静かな道にエンジン音とクラクション、そして怒声が満ちた。事故に巻き込まれやしないか、ビクビクしながら走った。
ポケットに突っ込んだスマホからは、何度も緊急速報が聞こえていた。しかし、走りながらスマホを見るわけにはいかない。状況が分からないまま進み続けるしかなかった。
どれほど走ったか、じわりと薄暗くなってきた。雲が出てきたのかと空を見上げる。
雲は欠片もなかった。ただ黄砂が舞っているように空が白けて、ぼんやりとした幕の向こう側で太陽が光を滲ませていた。
視線を前に戻しても、なぜかゴーグルの視界は悪いまま。くしゃみが出た。車に巻き上げられた砂ぼこりのせいだろうか。ゴーグルのレンズを指で拭う。砂ぼこりにしては細かく、なのに固いざらつきを感じた。
息を吸うと、違和感を覚える。鼻がむずむずとし、口の中が砂っぽい。信号で止まった隙にマスクをつけたが、息苦しさにはぎ捨てては、呼吸の違和感につける。と、無意味なことを繰り返した。
普段の倍以上の時間がかかり、ガソリンの残量が心配になった頃。霞の中に見慣れた看板を見つけた。体に染み込んだ記憶が波のように迫って思い出される。
潮のにおい。波の音。狭い路地。馴染みの店。鳥居。ジャングルジム。船――。
湧き起こってきた感情に唇を引き結び、速度を上げた。
家に到着すると、勢いよく玄関を開け叫んだ。
「ただいま!」
小学生以来のことだった。
奥から母親が出てくる。
開口一番、言った。
「やだ、汚い。あんた、なんでそんな白くしてるの」
いつも通りの母親のしかめっ面に、帰らなくてよかったんじゃないか? と思った。




