18.街道の町と、小さな歪み
王都を出て、一週間ほどが経った。
道は広くなったり狭くなったりを繰り返し、丘を越えるたびに景色が変わった。
王都の喧噪は、背中のずっと遠い場所へ沈んでいく。
それでも、ときどき思い出す。
広場の毛布。
目を覚ました人々の声。
泣きながら笑う若者。
「戻ってこないで」と縋る子ども。
あれが、ただの“事件”ではないことを、レオンはもう知っていた。
自分が関わった夜が、誰かの朝に残る。
残ってしまうものがある。
それは怖い。
同時に――目を逸らせない。
歩くしかない、と身体のどこかが言う。
まだ足りないと分かっているのに、歩くことでしか近づけない場所がある。
そんなことを考えていると、前を行くガルドが、ふいに足を止めた。
荷車の轍が濃く、道の脇に踏み荒らされた草がある。
人が増えている。町が近い。
ガルドは言葉を使わず、顎で前方を示した。
――今夜は、あそこ。
レオンは「分かりました、ガルドさん」と頷く。
声に出すと、やけに“旅”の輪郭がはっきりする。
横でエリシアが、地図と簡易の測定具を見比べながら歩いていた。
「この町は、街道の中継点です。交易が多い」
「人も多そうだな」
「ええ。……そのぶん、噂も集まります」
噂。
レオンは、その単語だけで背筋が少し硬くなるのを感じた。
王都の地下で起きたことが、どこまで広がるのか。
“癖”が、どこに残っているのか。
知らないまま進むのが、一番怖い。
町は小さかったが、活気があった。
木と石で組まれた柵。
門番の数は少ない。だが、人の出入りが絶えない。
荷車が入り、旅人が列になり、屋台が声を張る。
王都のような華やかさはない。
代わりに、生活の匂いが濃い。
宿もすぐに見つかった。
ガルドが短く頷き、レオンが宿屋に声をかける。
エリシアは料金を確認し、必要な条件を淡々と詰める。
その流れが、すでに三人の形になりつつあった。
部屋を確保し、荷を置き、最低限の食料を手に入れる。
そこまでは、ただの旅の手順だった。
レオンが宿帳に名を書き終えたところで、ガルドがふと足を止めた。
扉の隙間から入ってくる外気。
夕方のはずなのに、町の気配が妙に落ち着かない。
人の足音が多いのに、声が少ない。
ガルドは視線だけで外を一度なぞり、レオンとエリシアの方へ顎をわずかに動かした。
――外。
言葉にしない合図だった。
「……何か、ありますか」
レオンが小声で尋ねると、ガルドは短く息を吐く。
「空気が変だ」
それだけ。
だが、その一言で十分だった。
エリシアも同時に気づいたように、測定具を懐から出す。
宿の中で派手に構えることはしない。彼女も、まず“様子”を見る。
「魔力の濃度は、平常……でも、人の不安が強い」
不安。
それは、町が何かを隠している時の匂いでもある。
レオンは頷いた。
「じゃあ……少し歩きましょう。様子を見て、情報を拾う」
“ガルドの習慣に従う”のではない。
必要だと思ったから動く――そういう形に、自分の足を合わせる。
ガルドは返事をしない代わりに、先に扉を押し開けた。
それが「行くぞ」の合図だった。
宿を出てしばらく歩くと、広場の片隅に人だかりがあった。
男たちが声を荒げ、女たちが顔をしかめ、子どもが泣いている。
「だから言ったろ! 夜に外へ出るなって!」
「でも、店の片づけが――」
「片づけ? 命より大事か!」
怒鳴り合いの中心で、青年が肩を震わせていた。
顔色が悪い。眠れていない顔だ。
レオンは一歩踏み出しかけて、止まる。
口を挟むべきか。
いや、まず状況を掴むべきだ。
ガルドは何も言わない。
ただ人だかりの外側へ回り、視線の高さを揃えて“何が起きているか”を拾っている。
声を出さずに、見る。
エリシアが小さく呟いた。
「……魔力の匂いは薄い。けれど、歪みはある」
レオンは息を呑んだ。
「ここでも?」
「断定はできません。……でも、似てます」
似ている。
その言葉が、胸の奥を冷たく撫でた。
人だかりの中から、町の役人らしい男が現れた。
手に帳面。顔に疲れ。
「諸君、落ち着け。今夜は見回りを増やす。だから――」
「見回りじゃ足りねぇんだよ!」
別の男が叫んだ。
「“あれ”が出るんだ! 夜になると、変な霧みてぇな……夢みてぇな……!」
霧。夢。
レオンの耳が、勝手にその単語を拾ってしまう。
役人は言葉を濁した。
「……確かに、近頃は夜の騒ぎが多い。だが、魔物が入った形跡は――」
「じゃあ何だよ! 俺の弟は、夜に起きて、笑いながら外に出て――朝、川で倒れてたんだぞ!」
群衆がざわつく。
レオンは、喉の奥が乾くのを感じた。
王都の昏睡とは少し違う。だが、同じ匂いがする。
ガルドが、ほんの少しだけ体重を移動させた。
レオンの肩越しに、逃げ道と地形を確認している。
――動くなら、今夜。
そういう背中だった。
エリシアが役人へ近づく。
声は落ち着いているが、相手に逃げ道を与えない声だ。
「話を聞かせてください。いつから、どこで、どんな症状が」
役人が目を丸くする。
「君は……学院の?」
エリシアは懐から任務書を出し、印を見せた。
「外部観測の任務です。王都周辺の異常と関連がある可能性があります」
群衆の空気が変わる。
“王都”という言葉の重みが、ここでも通じる。
役人は一瞬迷い、それから頷いた。
「……分かった。ここでは話しにくい。役所へ」
レオンはガルドを見る。
ガルドは言葉を出さず、先に動いた。人だかりの外へ出て、周囲を確かめる。
――罠はない。追いすがる気配もない。行ける。
レオンは小さく息を吐き、「行きましょう、ガルドさん」と言ってから、エリシアの横に並んだ。
役所は質素な建物だった。
机と帳面と、疲れた椅子。
窓の外で夕暮れが深まり、町の色が薄くなる。
役人――名をバルツという男が、紙をめくりながら説明した。
「最初は、夜の徘徊だった。眠れない者が増えた。次に、笑いながら外へ出る者が出た。……止めようとすると暴れる」
「暴れる?」
「自分でも何をしてるか分かってない様子だ。翌朝、本人は覚えていない」
エリシアが淡々と確認する。
「共通点は?」
「……川沿いだ。川の近くで倒れていることが多い。あと、皆、同じ言葉を呟く」
「言葉?」
バルツが顔をしかめる。
「『縫って』だとか、『ほどけない』だとか……意味不明だろう」
レオンの指が、無意識に握られる。
縫う。ほどけない。
束。糸。
あの広間。核から伸びた線。
(……やっぱり)
エリシアも、わずかに目を細めた。
彼女も同じ結びつきを感じている。
ガルドは椅子に座らず、壁に寄りかかったまま話を聞いていた。
視線だけで、バルツの顔色、手の震え、呼吸の速さを拾っている。
「川沿いに何がある」
ガルドの声は短いが、要点が刺さる。
バルツが首を振った。
「古い水車小屋がある。今は使っていないが……近づくな、と子どもには言っている」
レオンは口を開いた。
「今夜、案内してもらえますか」
丁寧な声で言ったつもりだった。
だが自分でも分かる。少しだけ強い。
バルツは迷う。
当然だ。危険がある。
エリシアが助け舟を出す。
「私たちは封印の専門ではありませんが、痕跡の観測と、危険の切り分けはできます。……ここで放置する方が、町にとっては危ない」
バルツは唇を噛み、頷いた。
「……分かった。今夜、案内する」
話はそれでまとまった。
役所を出ると、町の灯りがつき始めていた。
夕食の匂いが漂い、人々が店の戸を閉め、家へ急ぐ。
夜が近い。
レオンは、自分の中に焦りが湧くのを感じ、深呼吸した。
焦って踏み込むと、また遅れる。矛盾みたいだが、そういうものだ。
ガルドが歩幅を少し落とす。
レオンが横に並べる速度。
言葉はない。
けれど、置いていかないという圧が、確かにある。
エリシアが歩きながら言った。
「レオン。さっきの提案は妥当です」
「……妥当?」
「感情で前に出たわけではない、という意味です。状況の整理ができていました」
褒め方が相変わらず硬い。
でも、胸の奥が少しだけほどける。
「ありがとう。……エリシア」
エリシアは特に気にした様子もなく、頷いた。
「夜は、観測の条件が揃います。危険も増えますが」
レオンは苦笑し、ガルドを見る。
「ガルドさん、今夜は……」
言いかけたところで、ガルドが視線だけを返した。
――分かってる。余計な言葉はいらない。
それが、なんだか可笑しくて、レオンは小さく息を吐いた。
宿に戻る前、ガルドは町外れの空き地へ向かった。
夕闇の中、短い訓練が始まる。
ガルドは木の枝を拾い、投げてくる。
レオンは避ける。
避けたあと、足を止めない。
ガルドが今日は、もう一つだけ足した。
枝を投げたあと、自分の足が一歩前に出る。
“追う”動き。
レオンは反射で下がりそうになって、思いとどまる。
下がるだけでは押し込まれる。
そこで、教わった線を思い出す。
相手の線が届かない瞬間。
その瞬間だけ、横へずれる。
枝が肩を掠め、ガルドの足が空を切る。
ガルドが止まる。
口元は動かない。けれど、圧が少しだけほどけた。
――今のは、通った。
レオンは息を吐き、剣を握り直す。
攻め方を教わっている、と言うほど派手ではない。
ただ、守るだけの動きが少しずつ変わっていく。
避けたあとに、相手の足を止める場所へ立つ。
それが、攻めの入口なのだと分かり始めている。
「……もういい」
ガルドが枝を捨て、宿へ向かう。
レオンは「はい、ガルドさん」と返し、エリシアを見る。
彼女は訓練を遠目で観測していた。
手元の紙に何か書きつけている。
「……何を書いてるの?」
「動きの変化です」
即答。
「レオンの回避は、身体の反応だけでなく、相手の踏み込みの癖を読んでいます。……速度が上がれば、もっと顕著になります」
「それ、褒めてる?」
「事実です」
やっぱり論文だ。
レオンは笑ってしまった。
夜。
宿の食堂は、いつもより静かだった。
町全体が、夜を警戒している。
酔って騒ぐ声も少ない。
エリシアが厨房を借り、簡単な料理を作って戻ってくる。
湯気と、香草の匂い。
「……本当に、料理までやるんだな」
レオンが感心すると、エリシアは平然と器を置いた。
「体調管理は重要です」
ガルドは黙って食べ始める。
黙っているのに、妙に“安心して任せている”空気がある。
食事が終わり少ししたところで、バルツが宿に入ってきた。
顔がこわばっている。
「……準備はいいか」
エリシアが頷く。
「ええ。案内してください」
レオンは立ち上がり、剣の位置を確かめる。
ガルドは何も言わず、先に扉へ向かった。
外へ出ると、夜気が冷たい。
町の灯りが遠ざかるほど、音が減る。
川の流れる音だけが、近づいてくる。
水車小屋は、朽ちかけていた。
木の板が歪み、蔦が絡み、窓が割れている。
ここだけ、空気が妙に重い。
エリシアが測定具を構える。
「……微弱。けれど、確かに歪みがある」
レオンの喉が鳴る。
「王都と同じ?」
「同じ“系統”です。規模は小さい。でも――」
言い終える前に、川面が揺れた。
霧が出たわけではない。
けれど、薄い膜が水の上に張るような感覚がある。
レオンの視界の端で、バルツがふらりと足を進めた。
「……縫って……」
呟き。
目が虚ろ。
レオンの身体が先に動いた。
「バルツさん、止まって!」
声を出した瞬間、バルツがこちらを振り向く。
怒りでも恐怖でもない、空っぽの目。
次の瞬間、川辺の草が揺れ、影が跳ねた。
小型の魔物。
犬ほどの大きさ。だが動きが妙に揃っている。
――束で引かれている。
レオンは半歩前へ出かけて、踏みとどまった。
ガルドがいる。エリシアが術式を組む。
自分の役目は何か。
脳内で答えを探す前に、ガルドが視線だけを投げた。
――止めろ。柱じゃない。バルツを。
レオンは理解した。
魔物ではない。
今、川へ引かれようとしている人間を止めるのが先だ。
レオンはバルツの前へ回り込み、剣を抜かずに手を伸ばす。
距離を詰めすぎない。押し倒さない。
相手の身体を壊さず、足を止める。
「……戻りましょう。大丈夫です」
丁寧な声。
普段の自分の声。
バルツの肩が震え、視線が揺れた。
意識がこちらへ寄りかける。
だが、魔物が跳ぶ。
レオンは剣を抜く。
踏み込まない。横へずれる。
教わった“線”の感覚で、爪の軌道を外す。
そして、斬る。
浅くていい。
倒すのが目的じゃない。止めるのが目的だ。
魔物が転がる。
ガルドが一歩前へ出る。
大剣が振るわれる前に、エリシアが短く言った。
「――拘束します」
光の輪が走り、魔物の動きが鈍る。
レオンは、息を吐いた。
目の前の仕事を、順番に処理できた。
焦って踏み込まなかった。
それは、まだ小さな成長だ。
でも、確かに昨日の自分とは違う。
川面の膜が、ふっと薄くなる。
バルツが膝をつき、荒い息を吐いた。
「……今のは……」
エリシアが川辺を見つめ、静かに言う。
「“入口”です。ここから、引いている」
レオンの胸が冷える。
王都で止めたはずのものが、形を変えて残っている。
規模は小さい。だが、確かに同じ系統。
そして――ここは王都ではない。
町は小さい。守る仕組みも薄い。
ガルドが川の上流を見た。
言葉はない。けれど、その視線は“続きがある”と言っている。
エリシアが測定具を握り直す。
「……辿れます。痕跡は薄いけれど、消えてはいない」
レオンは剣を握り直し、自分の手が少し震えているのを感じた。
怖さではない。
“触れてしまった”現実の重みだ。
あの夜が、まだ終わっていない。
そして、自分はもう、それを遠い出来事として扱えない。
レオンは小さく息を吸い、吐いた。
「行きましょう」
普段の丁寧な声のまま。
けれど、言葉の芯は自分の中から出ていた。
ガルドが、何も言わずに歩き出す。
エリシアがそれに続く。
川の音だけが、背中を押していた。




