16.封印陣の完成と、揺さぶりの言葉
核の鼓動は、音というより圧だった。
広間に足を踏み入れた瞬間、胸の奥に冷たい指が差し込まれる。
息を吸えば甘い痺れが喉に絡み、吐いても身体の外へ抜けきらない。
中央の黒い塊――結晶の集積体。
裂け目が走っているのに、まだ脈打っている。
鼓動のたび、床の細い亀裂が淡く灯っては消える。
核から伸びる束が、壁へ、床へ、天井へ。
王都のどこか――眠り続ける人々へ繋がっている。
救済同盟の男が、核を見据えたまま息を吐いた。
「……街を縛ってる」
エリシアは視線だけで広間を測り、すぐ学院側へ指示を飛ばす。
「結界柱は四本。核を囲む四点を作る。一本目、あそこ。二本目、対角――」
学院の魔術師たちが結界柱を運び込み、一本目の杭を床に当て、槌を構えた。
その直前、核の手前に影が立つ。
黒衣の術師だった。
昨夜の男とは違う。笑みはなく、目だけが冷え切っている。
「来たか」
救済同盟の男が前へ出て、短剣を構える。術師の注意を自分に向けるためだ。
「止める」
術師は頷きも否定もしない。
「止める? 今夜は“止まった”だけだ。道は残った」
エリシアが眉をひそめる。封印の理屈を知る者ほど、その言葉の意味が気になる。
「道……?」
術師は核に手を当て、霧を撫でるように言った。
「王都は覚えた。次は、もっと簡単に裂ける」
その瞬間、レオンの視界の端に村の夜が滲む。
祠の土の匂い。冷たい空。背を向ける影。
耳の内側で声が鳴る。
レオンは足元へ視線を落とす。石、苔、湿り。現実を掴むための確認。
正面では、ガルドが大剣を握り直していた。
構えが変わるだけで、広間の空気が硬くなる。
「今度は逃がさねぇ」
術師はわずかに口角を上げる。
「逃げる? 違う。――見届けるだけだ」
核が脈打つ。束が一斉に張る。
広間の隅で倒れていた魔物が、ぎこちなく起き上がり始めた。
数が多い。しかも動きが“揃いすぎている”。糸ではなく、束で引かれている。
エリシアが叫ぶ。声は学院側へ向けた指揮だ。
「封印陣が完成するまで、柱を守ってください!」
救済同盟の男が答える。役割は明確――
「稼ぐ」
ガルドも重ねる。
「押し返す」
レオンは剣を握り直した。
自分の役割は、“倒す”ではなく“繋ぎ目を断つ”。
束が残れば、魔物は倒れてもまた動く。
魔物が一斉に走った。
狙いは柱だ。
槌を振るう学院魔術師、術式を組むエリシア――封印の要を潰しに来ている。
ガルドが正面で受け止める。
大剣が壁になり、魔物の突進が跳ね返される。
叩き伏せる前に、まず“流れ”を止める戦い方だ。
「柱を離すな!」
学院の魔術師が叫び、槌の手を止めずに続ける。
金属音が鳴り、杭が石を噛んだ。
救済同盟の男は横へ滑り、魔物の背後へ回り込む。
刃は首へ行かない。腹へも行かない。
束の“張り”だけを裂く。
ぷつり。
魔物が力を失い、崩れる。
レオンも動いた。
柱へ寄りすぎない。だが遠すぎない。
「束が集まる場所」を狙える距離を保ったまま、広間の縁を回る。
「エリシア!」
レオンが呼ぶと、エリシアは核と束の動きを見たまま、位置だけを返す。
「右奥! 張りが二本! ……一本は薄い、そこ!」
レオンは見えない“張り”に剣を合わせ、空を斬る。
だが手に、確かな抵抗が乗る。
ぷつり。
魔物の動きが鈍り、その場に膝をついた。
(通った)
胸が熱くなる。高揚ではなく、正しい手順の確認だ。
ガルドが中央で圧をかけ続ける。
救済同盟の男が隙間を埋める。
レオンが繋ぎ目を落とす。
その噛み合いで、柱の設置が進む。
――しかし。
術師が指先を軽く弾いた。
核の脈が跳ね、霧が膨らむ。
甘い痺れが濃くなり、意識が薄皮一枚、ずれていく。
術師の声が、耳元にあるみたいに響いた。
「君は、間に合うと思っているのか」
答えを考えさせる言葉だ。
思考を止めた瞬間、動作が遅れる――それを狙っている。
「束を断って。……それで悪夢は消えるのか」
レオンは歯を噛む。答えは出ない。今は要らない。
足元を見る。石、湿り。現実へ戻る。
そして目を上げる。魔物の軌道、柱の位置、ガルドの剣筋、救済同盟の動き。
見るべきものを順に並べ、身体を動かす。
手を止めないために。
柱が三本目まで打ち込まれた。
床に淡い光が走り、三点を結ぶ線が浮かぶ。
封印陣の輪郭が、ようやく形になる。
エリシアの指先が速く動く。
術式を重ねるたび光が強くなる――その“完成間際”を、術師は待っていた。
「賢いな」
皮肉ではない。事実の確認みたいな声音。
「だから折れる」
霧がエリシアの足元へ集まり、薄い幻を描く。
燃えた街。瓦礫の下の手。助けられなかった声。
エリシアの呼吸が一瞬止まる。
恐怖ではなく“責任”が胸の奥を掴む揺れだ。
(また、間に合わない)
その揺れを、術師は逃さない。
「封じる手順は美しい。だが――救う速度には勝てない」
救済同盟の男が術師へ踏み込む。
術師の意識を柱から逸らすための突撃。
「黙れ」
短い言葉。だが踏み込みは鋭い。
術師は退かない。核へ触れ、束を跳ねさせた。
束が鞭のようにしなり、救済同盟の男の足元を払う。
男は受け身を取り、柱から距離を取らされる。
――術師の狙いは明確。「柱へ近づけさせない」。
「邪魔をするだけか!」
学院の魔術師が叫ぶ。
エリシアは手を止めない。
止めれば崩れる。崩れれば地上へ戻る霧はもっと濃くなる。
ガルドが術師へ踏み込んだ。
今度は“押さえる”ではなく、“割って入る”踏み込み。
大剣が振るわれる。重い。速い。迷いがない。
だが刃は術師の手前で止まった。
束が絡み合い、盾のように受け止めている。
ガルドが力を込め直す。刃が食い込み、火花が散る。
術師が淡々と言う。
「力は十分だ。だが、君は守る方向にしか刃を出せない」
その言葉に、ガルドの目が一瞬だけ硬くなる。
だが返事はしない。踏み込みだけが深くなる。
刃が盾を押し潰し、束が引きちぎられる。
束が切れた瞬間、核の脈が乱れた。
レオンは理解する。
束は“防ぎ”であり“繋ぎ”だ。
切れば核は不安定になる。
だが切らなければ、封印は完成しない。
「レオン!」
エリシアの声が鋭い。揺れているのに、指揮は折れていない。
「左! 柱の根元に束が集中してる! そこを断たないと四本目が打ち込めない!」
四本目――封印の最後の支点。
レオンは走る。
柱へ、だが直線ではない。
魔物の軌道を避け、ガルドの剣筋の外側を通り、張りの薄い場所を踏む。
跳びかかる魔物が一体。狙いはレオンの足。
レオンは喉を斬らない。
胸の奥へ刃を滑らせ、支点を探る。
ぷつり。
魔物が力を失う。
柱の根元へ。
そこに張りが何重にも重なっている。
レオンは息を吐き、剣を振る。
ぷつ、ぷつ、ぷつ。
抵抗が連続して指に伝わり、束がほどけていく。
その瞬間、学院の魔術師が槌を振り下ろす。
四本目の柱が、石に噛んだ。
光が走る。
四点が繋がり、床に円が浮かぶ。
エリシアが最後の術式を編む。
声は出さない。唇だけが動く。汗が滲む。
それでも指は止まらない。
「封印――成立」
エリシアが言い切った瞬間、光の円が核を包んだ。
核の脈が一拍遅れ、二拍目が乱れ、三拍目で止まる。
束が一斉に緩み、霧が引き潮のように薄れていく。
広間の空気が、少し軽くなった。
だが、終わりではなかった。
術師は封印の光を見て、眉をわずかに動かした。
驚きではない。計算の修正だ。
「……なるほど」
救済同盟の男が立ち上がり、短剣を構える。
「終わりだ」
術師は首を傾ける。
「終わり? 違う。これは、形が一つ残っただけだ」
術師は指先で空をなぞり、封印陣の縁を軽く叩いた。
光が一瞬、鈍る。
「封印は美しい。だが――“覚えた”ものは消えない」
レオンの胸に嫌な理解が落ちた。
道が残る。
霧が刻んだ“癖”が残る。
核は止まった。
だが王都そのものに刻まれた傷は、まだ残っている。
術師が一歩下がる。影が膨らみ、輪郭が薄くなる。
「また会おう。――次は、もっと簡単に裂ける」
冷たい言葉だけを残し、術師は闇へ溶けた。
追う暇はない。封印陣はまだ不安定だ。
核は止まったばかりで、余熱が残っている。
エリシアが膝をつきそうになり、踏みとどまる。
呼吸は荒い。だが目はまだ生きている。
救済同盟の男が封印陣の外周を見回し、静かに言った。
「止めた。……今夜は止めた」
ガルドが大剣を肩に担ぎ、低く息を吐く。
「足りねぇのは、分かってる」
レオンは剣を下ろした。
手が震えている。恐怖ではなく、終わっていない現実への反応だ。
レオンは足元を見る。石、湿り。
その確かさだけが、今は頼りだった。
「……帰ろう」
自分の声が、思ったより落ち着いていた。
帰って確かめなければならない。
地上で何が起きているのか。
そして次に裂けるという“道”が、どこに残っているのか。
エリシアが小さく頷く。
救済同盟の男も短く頷く。
ガルドは先に背を向け、出口へ歩き出す。
その背中を、レオンは追った。
追いつけない。
それでも、同じ場所に立てた夜だった。




