13.幕間 霧の置き土産
王都の外れ。
人の灯りが届かない石造りの回廊に、黒い霧が薄く漂っていた。
霧は風に散らない。
濡れた布のように壁に貼り付き、呼吸の隙間へ入り込む。
それは“逃げた”というより、“残った”。
地下水路から引き上げた男――黒衣の術師は、回廊の影で足を止め、掌を開いた。
指先に黒い粉が付着している。結晶が砕け、霧になった残滓だ。
「……半分は持っていかれたか」
低い声。冷たいほど落ち着いている。
対して、先にいた男は壁にもたれ、気楽そうに肩を鳴らした。
旧水路で人形のような魔物を動かしていた男だ。
「いや、半分“持っていかれた”んじゃない。置いてきたんだよ、半分は」
鼻歌でも出そうな調子で言う。
術師は返さない。
ただ霧を見つめ、指を閉じる。
「……霧が上へ流れた。あれが“成果”だというなら、説明してみろ」
旧水路の男は、両手を広げた。
「簡単な話だ。王都はよく燃える。恐れも後悔も、寝息みたいに溜まってる。あれを“引き出す”だけで、十分だ」
「夢に沈めた。目を閉じさせた。暴走させた。――つまり、心をこじ開けたんだ」
術師は淡々と告げる。
「こじ開けた心は、元には戻らない。戻ったように見えるだけだ」
旧水路の男が笑う。
「それでいい。戻らないなら、なお良い」
術師は霧の中に指先を差し入れ、空気を掻いた。
霧が、わずかに形を変える。糸のような線が、いくつも瞬いた。
「……残滓が、結び目を作っている」
「結び目?」
「夢は刈り取った。だが霧は“種”になる。感情が揺れた場所に、薄い道ができる。次に引けば、同じ箇所が裂けやすい」
旧水路の男は、満足げに頷いた。
「ほら。やっぱり成功だ」
術師は言葉を継ぐ。
「今回の本来の目的は、核の完成ではない。王都に“道”を残すことだ。あの霧は、次の術式の座標になる」
旧水路の男は、からかうように口笛を吹いた。
「相変わらず冷たい言い方だな。座標? 種? ――要するに、“また同じ夢を見せられる”ってことだろ」
「違う」
術師は否定した。
「同じ夢ではない。もっと効率が良い。次は“夢を見せる”必要すらない」
旧水路の男の笑みが、ほんの僅かに濃くなる。
「いいね。じゃあ、半分ってのは――霧と、記録か?」
術師は頷いた。
「霧は残した。もう半分は、反応を見た。誰が、どこで、何に揺れたか。王都は広いが、弱点は均等じゃない」
旧水路の男は指を鳴らした。
「つまり――街そのものが、地図になった」
術師は無言で肯定し、歩きながら話題を切り替えた。
「……それと、障害」
「出たな」
旧水路の男が肩をすくめる。
「勇者ご一行、だっけ? 面倒だったか?」
術師は即答しない。
霧の揺らぎを見ながら、言葉を選ぶように間を置いた。
「戦士は厄介だ」
旧水路の男が笑う。
「あの大剣の男か。確かに、派手だった。けど結局、核は割れたし俺たちは退けた。脅威ってほどか?」
術師は淡々と続ける。
「派手ではない。むしろ、正確だ。刃を使わずに人を止める。衝撃を逃がす。殺さずに通路を作る。……戦闘者として完成度が高い」
「へえ」
旧水路の男が目を細めた。
「つまり、あいつは“戦場の理屈”が体に染みてるってわけか。俺は嫌いじゃない」
術師は言葉を継ぐ。
「嫌い好みではない。あれは、こちらの“時間稼ぎ”を許さない。術式が整う前に間合いを詰める。守りながら攻める――矛盾を実行できる」
旧水路の男は、軽く笑って受け流す。
「でも、守るものが増えたら鈍るんじゃないか? 強い奴ほど、背負うものに足を取られる」
術師は否定しない。
「……その可能性はある。だが、期待は危険だ」
言い切る声が、石の冷たさと同じ温度を持っていた。
旧水路の男は肩を鳴らし、別の名を出す。
「学院の娘は? あれは頭が良さそうだった」
術師の目がわずかに細くなる。
「未熟だ。精神の置き方が不安定だ」
旧水路の男が楽しげに言う。
「揺らせば折れる、って?」
「折れない」
術師は短く切った。
「折れるのは脆い者だ。あれは脆いのではなく、硬すぎる。理屈を信じすぎて、理屈の外側に触れたときに乱れる」
旧水路の男が口角を上げる。
「それはつまり、大器ってことだろ」
術師は頷く。
「伸びる。今日も、核の揺らぎに合わせて術式を通した。……注意が必要だ。放置すれば、こちらの術式の“答え”に近づく」
旧水路の男は、軽く手を振った。
「まあ、学院の連中は遅い。上に報告して、会議して、範囲を決めて――その間にこっちは次を打てる」
術師は返す。
「遅いのは組織だ。個人ではない」
その言葉が、わずかに重く落ちた。
旧水路の男は、最後にレオンの話を引き出すように言う。
「で、あの剣士の少年は? あれが“勇者”だろ。……正直、今は大したことない。目も足も粗い。俺が見た限り、半端だった」
術師は霧の粒子を指先で弾き、淡々と答えた。
「今は、半端だ」
「だが、あれが持っている剣――」
旧水路の男が興味深そうに身を乗り出す。
「祠の鉄くずみたいなやつか? 光るの?」
術師の声が少しだけ低くなる。
「封印状態に近い。だが“応える”」
「剣が応える?」
「状況が揃えば、剣が力を貸す。力だけでは脅威にならない。問題は、その力に技術が噛み合ったときだ」
旧水路の男は笑った。
「技術? あの粗さで?」
術師は揺らがない。
「粗い。だが、崩し方を覚え始めている。核を“叩いて揺らす”判断は、凡庸では出ない」
旧水路の男が、軽い調子で言う。
「つまり、伸びる芽はある。けど、まだ芽だ。風が吹けば折れる」
術師は首を振った。
「芽は折れやすい。だが折れれば、別の方向へ伸びることもある。――危険なのは、折れてもなお立ち上がる芽だ」
旧水路の男は、しばらく沈黙したあと、肩をすくめる。
「なるほど。じゃあ、次はもっと深く沈めればいい。夢は、幾らでも作れる」
術師は、霧の中に一歩踏み出した。
「作る必要はない。道はできた。霧が残った。王都は、次にこちらが引くとき、もっと簡単に裂ける」
旧水路の男は笑い、踵を返す。
「じゃあ俺は、次の“火口”を探してくるよ。王都は広い。燃える場所は一つじゃない」
術師は背を向けた男に言う。
「油断するな。あの戦士は、火口を潰す。学院の娘は、火の形を読む。剣士の少年は――」
一瞬だけ言葉が止まった。
術師の脳裏に、核へ剣を押し当てた少年の姿が浮かぶ。
刃を振らず、全身で、ただ押す。
“倒す”のではなく、“崩す”。その手順。
「……あれは、近い」
旧水路の男が振り返る。
「何に?」
術師は答えた。
「こちらが嫌う形に」
旧水路の男は、少し楽しそうに目を細めた。
「いいね。敵が育つのは、退屈しなくて済む」
術師は、その楽観を咎めない。
ただ、冷たい声で釘を刺す。
「退屈しない代わりに、こちらも焼ける」
「だから、霧を残した。――次は、こちらが焼く番だ」
黒い霧が、回廊の奥へと静かに流れていく。
王都の灯りが届かない場所で、眠りの道が、薄く、確かに編まれていった。




