13.地下水路と、悪夢の核
広場の端にある古い入口は、普段なら目に留まらないはずだった。
石造りの壁の影に溶け込み、ただの倉庫口のように見える。
だが今夜は違う。
そこだけ空気が薄く、冷たい。
鉄扉には封印札の痕が残り、剥がされた跡が雑だった。
力ずくで破ったというより、急いで“使うために開けた”ように見える。
「……誰か、先に入ってる」
レオンが呟くと、エリシアが頷いた。
「この札の系統、学院じゃない。……救済同盟かもしれません」
ガルドが扉に手をかけ、押した。
軋む音がして、暗い階段が口を開ける。
下から、湿った空気が這い上がってきた。
水の匂いと、石の匂い。
そして――眠りの匂い。
甘いのに、喉の奥がひりつくような匂いだった。
「……結界符、張ります」
エリシアが懐から紙片を取り出し、階段の両脇に貼る。
淡い光が走り、空気の輪郭が少しだけ硬くなる。
「完全ではない。侵入は薄まる」
“残る”という事実が、言葉の裏に張り付いていた。
ガルドが先に降り、レオンが続き、エリシアが最後に入る。
鉄扉が閉じると、地上の喧騒は一気に遠のいた。
音が消えるのではない。
音の“逃げ場”が消える。
自分の呼吸だけが反響し、心臓の音まで壁に返されてくる。
――ここは、逃げられない場所だ。
その実感が、足首に絡みついた。
地下水路は広かった。
王都の基盤として作られたらしい石造りの通路が、枝分かれしながら奥へ延びている。
水はほとんどない。
だが湿度は高く、床の苔が靴底を滑らせる。
そして、空気に薄い“膜”がある。
目に見えないのに、皮膚の表面で分かる。
まるで、息を吸うたびに自分の中へ眠りが染み込んでくるような――。
「……澱んでる」
エリシアが呟いた。
「魔力が、眠りの形をしてる。こんなの……」
言いかけて、彼女は口を閉じる。
理屈に乗りにくい異常が、理屈で世界を掴む彼女の足元を、少しずつ崩していた。
通路の先に、人が倒れていた。
男が二人。女が一人。
どれも呼吸はある。だが目は閉じ、唇が動いている。
「やめて……」
「違う、俺じゃ……」
「戻って……戻ってこないで……」
夢の中で謝罪し続ける声。
懇願し続ける声。
レオンの喉が乾いた。
魔物なら、倒せば終わる。
だがこの人たちは、倒れているのに終わっていない。
ガルドが一度立ち止まり、倒れた者たちを見下ろした。
目線は冷たくない。ただ、情の置き場を探す暇を与えない。
「運べるか?」
問うと同時に、もう足が前へ出ている。
迷っている余裕を、こちらへ渡さない歩き方だった。
「今は無理です」
エリシアが即答する。
「この深さで運べば、こちらが先に侵される。まず発生源を……」
言いながら、彼女は倒れた女の額に手を当てた。
光が微かに灯り、女の眉間の皺がほんの僅かゆるむ。
「……薄く、裂けた」
エリシアの声が硬い。
「眠りが“縫い付けられている”」
縫い付けられている。
その言い方が、レオンの背中を冷やした。
ガルドが歩き出す。
「なら、奥だ」
その言葉のあとの沈黙が、先へ進めと背中を押してくる。
レオンも続く。
足の裏の感触に意識を集中する。滑らないように。躓かないように。呼吸を乱さないように。
この場所で一番怖いのは、魔物が出ることじゃない。
自分の心が勝手に“別の場所”へ連れていかれることだ。
その通りだった。
次の角を曲がった瞬間、空気が一段甘くなった。
目の前が、ふっと滲む。
石壁が揺らぎ、暗い水路が――祠の壁に変わる。
木の匂い。土の匂い。
村の夜の匂い。
レオンは足を止めそうになって、咄嗟に歯を噛みしめた。
――違う。
分かっている。
でも、胸の奥が勝手に痛む。
祠の前に、父と母が立っている。
背中だけ。振り向かない。
「……行くな!」
声が漏れた。
自分が叫んだのか、夢が喋ったのか分からない。
次の瞬間、背中が振り向く。
母の顔が――知らない顔になっている。
目が黒い。
涙が、黒い。
「レオン」
声が低い。自分の名前なのに、皮膚を這う。
「お前が、遅かったから」
心臓が跳ねる。
言葉が胸に刺さる前に、ガルドの声が落ちた。
「前見ろ」
それだけで、レオンの意識が“今”へ引き戻された。
言葉が少ないから効いたのではない。
迷いを許さない体温が、そこにあった。
レオンは瞬きをする。
祠は消え、石壁が戻る。
手の中の剣の冷たさが、現実だと教える。
「……すみません」
謝ると、ガルドは振り返らずに言った。
「謝るな。歩け」
慰められるより、ずっと効いた。
この場所では、優しさは眠りに似ている。
エリシアの呼吸も乱れている。
彼女は唇を噛み、前だけを見ていた。
この術式は“弱い者”だけを狙っていない。
誰にでも刺さる。刺さる場所が違うだけだ。
通路はさらに奥へ続き、やがて広い空間へ出た。
天井が少し高く、古い水門跡のような構造が残っている。
中央に、黒い塊があった。
石でも泥でもない。
黒い結晶の集積体。脈打つ心臓のように、ゆっくり膨張と収縮を繰り返している。
その周囲に、細い光――いや、糸が張り巡らされていた。
壁、床、天井。
そして、倒れている人々の額へ。
「……核だ」
エリシアの声が震えた。
恐怖ではない。憎悪でもない。
理屈で救えるはずの領域が、理屈の外側から汚されていることへの、硬い苛立ちだった。
「封印する」
彼女が一歩踏み出しかけたとき。
影が、核の前に立った。
黒い外套。
以前、旧水路で遭遇した黒衣の男とは違う。
立ち方が“待っている”ではなく、“守っている”。
「ここまで来たか」
声は落ち着いている。
温度がないのに、重い。
「……魔王軍の術師」
エリシアが断定する。
術師は肩をすくめた。
「名乗るほどでもない。だが、お前たちは知っておくといい」
核の脈動に合わせるように言った。
「眠りは、やさしい」
「人は起きていると、痛みを背負う。罪を背負う。後悔を抱える」
「だから、眠らせてやる。夢に沈めてやる」
レオンの喉が鳴った。
「……それが救いだって言うのか」
術師は静かに笑った。
「救い、という言葉を使うのは人間だ。私はただ、効率を取る」
「感情は魔力になる。王都はよく燃える」
聞き覚えのある言葉だった。
だが今度は、試すための挑発ではない。
確信として吐き出されている。
「さあ」
術師が指を鳴らす。
糸が震えた。
倒れていた人々が、一斉に身じろぎする。
起き上がるのではない。夢に引かれたまま、身体だけが動く。
目は閉じたまま。
なのに手が伸びる。
爪が、歯が、石を掻く。
エリシアが息を呑んだ。
「……暴走体」
「止める!」
レオンは剣を抜きかけて、止まった。
斬れば止まる。
でも、それは“人”だ。
迷いが、足首を掴む。
その隙を狙うように、術師の声が耳に刺さった。
「斬れ。斬れないなら、ここで終わる」
押し付けられる感覚が、胸を締める。
――斬れ。
――斬らないなら、終わる。
その二択に閉じ込められるのが、何より嫌だった。
「ガルド!」
レオンは叫ぶ。
ガルドは返事を挟まない。
かわりに身体が前へ出る。
大剣の柄で、暴走体の顎を打ち上げる。
刃ではない。殺さない。気絶させる。
力の配分が正確すぎて、逆に怖い。
次の一体がレオンへ突っ込む。
腕を振り上げ、爪が首を狙う。
レオンは半歩ずらし、腕を掴む――掴めない。
相手は力が抜けているのに、動きだけが鋭い。
「くっ……!」
剣の柄でこめかみを叩く。
硬い感触。身体が崩れ、倒れた。
息が詰まる。
(生きてる……? 生きてるよな)
確かめたいのに、確かめられない。次が来る。
エリシアが光の鎖を放つ。
暴走体の足が絡め取られ、動きが鈍る。
だが術師が指を動かすと、糸が引かれ、足が無理やり進む。
「……強制駆動」
エリシアの声が震える。
「拘束が通らない……!」
術師は笑った。
「お前たちの魔法は、“本人の抵抗”が前提だ。だが彼らは抵抗しない。夢に沈む方が楽だからな」
その言葉が、レオンの胸に刺さる。
――楽だから。
それは甘い。
疲れた人に、弱った人に、痛みを抱えた人に、最も効く。
「……ふざけるな」
レオンは息を吸った。
刃で止めない。
でも、止めなきゃいけない。
自分の中で、一本の筋を通す。
(倒すんじゃない。“外す”。糸から、外す)
エリシアの言葉が脳裏に浮かぶ。
――縫い付けられている。
なら、縫い目を裂く。
「エリシア!」
レオンは距離を保ったまま声を投げた。
「糸を切れる? 一瞬でいい!」
エリシアがこちらを見る。
目が速く動き、状況を組み立て直す。
「……できます。核と人を繋ぐ糸は細い。だけど核が守ってる。近づけない」
「近づくのは俺がやる!」
ガルドが言った。
言い終える前に、すでに踏み込む準備ができている。
空気が変わる。重心が落ちる。
術師が目を細める。
「無駄だ。近づけば、夢に沈む」
ガルドは鼻で笑った。
「夢を見る暇がねぇ人生でな」
次の瞬間、ガルドが前へ出た。
大剣の一撃で暴走体を弾き飛ばし、道を開く。
刃は振らない。柄と鍔で叩き、倒し、転がす。
“壊さずに通る”ための動き。
レオンはその背に続く。
自分はガルドほど器用じゃない。
でも、踏み込める距離は、もう分かる。
暴走体が迫る。
レオンは剣の腹で押し返し、足を払う。
倒れる。次が来る前に、進む。
息が荒い。
頭の中で、また祠が揺れる。
母の黒い涙が見える。
(遅かったから――)
聞こえる。
でも、聞かない。
聞けば、足が止まる。
ガルドの背が、現実だ。
石の冷たさが、現実だ。
自分の呼吸が、現実だ。
核の前まで辿り着いたとき、術師が腕を上げた。
糸が一斉に張り、空間が軋む。
頭が重い。視界が暗くなる。
眠りが落ちてくる。
「……いける!」
エリシアが叫ぶ。
彼女が術式を放つ。
光の刃が、空間を横切る。
糸が、数本、断ち切れた。
その瞬間。
暴走体が、がくりと崩れた。
まるで糸の支えを失った人形のように。
レオンは理解した。
この糸は、切れる。
切れば、止まる。
「もう一回!」
レオンが叫ぶ。
術師が舌打ちし、核に手を当てた。
核が脈打ち、糸が太くなる。再び縫い直すように。
エリシアの額に汗が滲む。
「……無理。核が強化してる。私の出力じゃ――」
「なら、核を崩す!」
レオンが言いかけて、息を飲んだ。
崩す。
それは封印と違う。破壊だ。
学院のやり方ではない。
救済同盟なら――壊すと言うかもしれない。
でも壊せば、何が起きる?
暴走体は止まるかもしれない。
同時に、溜め込まれた魔力が暴発したら?
頭の中で、道が何本も分かれる。
そこでガルドが言った。
「考えるな。今は“崩すな”。押さえる」
刃を使わず、核の周囲に叩き込み、振動を与える。
核が脈動を乱し、糸の張りが一瞬緩む。
その一瞬に、エリシアが術を差し込む。
糸が断たれる。
暴走体が、次々に倒れる。
術師の声が低くなる。
「……面倒だな」
「お前たちは、まだ“芯”を知らない」
核が赤黒く光り、空間の温度が一段下がった。
眠りが、重くなる。
レオンの視界が揺らいだ。
村の夜。
祠。
両親。
そして――地面に倒れるのは、自分自身。
剣を握れず、膝をついた自分。
「ほら」
術師の声が笑う。
「お前は、また遅れる」
その言葉が、最も効いた。
胸の奥が熱くなる。
悔しさが、痛みになる。
(違う)
レオンは、喉の奥で息を噛んだ。
揺れてもいい。
刺さってもいい。
でも、そこで終わらない。
レオンは足を踏ん張り、剣を握り直す。
刃は振らない。柄でいい。腹でいい。
核に近づき、全身で押すように剣を当てる。
「……っ!」
核が震え、糸がさらに乱れる。
エリシアが目を見開いた。
(無茶ではない。狙いが通っている)
剣士として見れば、洗練には程遠い。
だが、乱暴な必死さではない。
相手の機構を見て、崩すべき点に手を当てている。
「……合わせます!」
エリシアが声を上げ、術を重ねる。
糸が断ち切れる。
術師が一歩下がった。
「いい」
声が冷たい。
「今夜は、ここまででいい」
「目的の半分は達した。王都はもう、十分に燃えた」
核の脈動が一気に大きくなり、空間がきしむ。
崩落とは違う。魔力の逆流だ。
「退け!」
ガルドが叫ぶ。
三人は同時に後退した。
背中で空気が押される。
目が眩む。
次の瞬間、核が“裂けた”。
爆発ではない。
黒い霧が噴き出し、糸がほどけ、空間に散る。
霧は上へ、上へと吸い込まれていく。
まるで地上の王都へ、悪夢を持ち帰るように。
残された核は、半分だけ。
脈動は弱まり、糸は細く、ゆるくなった。
倒れていた人々の顔から、苦悶が少しずつ消える。
エリシアが膝をついた。
「……止まった。完全じゃないけど、波は弱まる」
ガルドが息を吐く。
「逃がしたな」
レオンは、視界の端で消えていく術師の影を追った。
追いたい。だが追えない。
今は、倒れている人がいる。
「……運びましょう」
レオンが言うと、ガルドは頷いた。
「上までだ。途中で止まるな」
エリシアは結界符を追加で貼り、眠りの膜を薄くしていく。
三人で一人ずつ、肩を貸して運ぶ。
途中、暴走体が再び動くことはなかった。
糸が弱まったのだ。
地上へ出たとき、王都の灯りが眩しかった。
空気が乾いている。冷たい。現実の匂いがする。
広場には、救済同盟の影がいた。
彼らも同じように人を運んでいる。
目が合った。
彼らは何も言わず、視線だけで状況を測る。
エリシアが小さく呟いた。
「……核を半分、逃がされた」
救済同盟の男が、低く言った。
「なら、次は壊すべきだ」
エリシアの目が鋭くなる。
「壊せば、暴発する可能性がある。封印が――」
「封印してる間に、また人が倒れる」
短い応酬。正しさがぶつかる。
レオンは、その間に割って入らなかった。
どちらが正しいか、今は決めきれない。
だが、目の前で呼吸している人がいる。
その事実だけは、揺らがない。
「……今夜は、まず寝かせてあげましょう」
レオンが言うと、救済同盟の男は少しだけ目を細めた。
否定しない。
エリシアも、唇を噛んで頷いた。
ガルドが背中を向ける。
「話は後だ。動け」
王都の悪夢は、薄まった。
だが、消えてはいない。
空を見上げると、雲が低い。
夜の灯りが滲んで、ぼんやりと広がっている。
レオンは剣を握り直した。
揺れた。
刺さった。
それでも、足を止めなかった。
次はもっと深く来る。
そう予感しながらも、レオンは今夜の現実を抱えて歩き出した。




