12.悪夢の波紋と、眠れない街
王都の夜は明るい。
灯りが多いからではない。人の気配が消えないからだ。
宿へ戻ったあとも、通りの笑い声は薄い壁を透けてくる。
だがその騒がしさは、今夜に限ってレオンの心を落ち着かせなかった。
目を閉じると、旧水路の冷気が喉に戻る。
黒い結晶の脈打ち。
「よく燃える」という声。
そして、幻の中で倒れていた誰かの背中。
――違う。幻だ。
分かっているのに、胸の奥が勝手に反応する。
眠りは浅く、途切れ途切れだった。
夜明け前。
廊下で、どたどたと足音がした。
「起きて! 誰か……誰か助けて!」
女の悲鳴に混じって、子どもの泣き声が聞こえる。
レオンは跳ね起き、外套を掴んだ。
隣の部屋の扉が開く。ガルドが出てきて、レオンを一瞥する。
その目だけで、状況を読む。
「行くぞ」
宿の階段を駆け下りると、食堂はすでに騒然としていた。
店主が震える声で叫んでいる。
「通りで人が倒れてる! ただ寝てるんじゃない、泡を吹いて……!」
外へ出ると、夜の名残りがまだ街角に溜まっていた。
薄暗い通りで、男が一人、石畳に倒れている。
呼吸はある。だが瞳は閉じたまま、唇がかすかに動いていた。
「……やめろ。やめてくれ」
夢の中で誰かに懇願しているような声だった。
その周りで、家族らしい女が泣きながら肩を揺すっている。
揺すっても、反応はない。
エリシアが後から追いついてきた。
髪はまだ整えきれていないのに、目だけが冴えている。
「同じ症状が、下層区で広がっています」
言葉が、息のように早い。
「昏睡――いえ、悪夢による拘束。起きない人が増えている。起きても……」
言いかけたとき、遠くから叫び声が上がった。
「止めろ! 寝ぼけてるんだ、でも刃物を持って――!」
角を曲がった先で、若い男がふらふらと歩いていた。
瞳は開いているのに、焦点が合わない。
手には肉切り包丁。
「……来るぞ」
ガルドが低く言う。
男はゆっくりと包丁を振り上げ、目の前の商人へ向かって突進した。
商人は腰が抜け、逃げられない。
――止める。どう止める。
頭の中で手段がいくつも浮かぶ。
剣。体当たり。拘束。呼びかけ。
迷っている暇はない。
レオンは走りながら剣を抜かなかった。
代わりに、腰の短い縄を掴む。荷の固定用に使っていたものだ。
「こっち!」
声を投げて、男の進路へ身体を滑り込ませる。
包丁の軌道を見て、ほんの少しだけ位置をずらす。
刃が空を切る。
縄を男の手首に絡め、引くのではなく“落とす方向”へ体重をかけた。
包丁が石畳に落ち、甲高い音が響く。
男はそれでも進もうとする。
夢の中の何かを追いかけるように。
ガルドが背後から回り込み、首筋へ掌底を落とした。
力は最小限。倒すためではなく、意識を揺らすための一撃。
男はぐらりと膝をつき、そのまま倒れた。
「……生きてる」
レオンが息を吐くと、エリシアがすぐに膝をついて男の脈を確認した。
「危険な昏睡ではない。でも、このまま放置すれば事故が起きる」
彼女の声には、焦りが混じっていた。
理屈だけでは追いつかない速さで、現場が崩れていく。
通りの先で、別の家からも悲鳴が上がった。
「母さんが起きない!」
「弟が、目を開けたまま笑って――!」
街全体が、夢に侵されている。
魔物を引っ張る“糸”が、人の心にも伸びている。
そう思っただけで、背筋の内側が冷える。
「……旧水路の術式と同じ系統だ」
エリシアが言った。
「感情を引き金にして、心を縛る。恐れや後悔を拾って……眠りに沈める」
ガルドが短く吐き捨てる。
「材料、ってやつか」
レオンは口を閉じた。
怒りが湧く。だが、それに飲まれたら手が止まる。
ここで必要なのは、怒りの吐き出しじゃない。
目の前の混乱に、手を入れることだ。
レオンは息を整え、エリシアを見る。
「学院に戻って伝える? それとも……今、ここで動く?」
エリシアが一瞬、言葉を失った。
昨日までの彼なら、答えを待って立ち尽くしたかもしれない。
けれど今は、場を見て、段取りを口にしている。
(……現場の優先を、先に置けるんだ)
その観測が、彼女の胸のどこかを小さく叩いた。
「……今、動くべきです」
エリシアはそう言ってから、続けた。
「でも、私一人では全域を見られない。術式の中心がどこか、まだ特定できない」
「なら、分ける」
ガルドが言った。命令でも提案でもない、ただの決定だ。
「俺は通りを押さえる。暴走が出たら止める」
「俺は――」
レオンは言いかけて、息を吸い直した。
自分の役目を口にするのは、まだ怖い。
けれど、ここで黙れば、また流される。
「……起きてる人を逃がす導線を作ります。危ない場所から離して、広場に集める」
ガルドが一瞬だけレオンを見る。
「悪くねぇ」
それだけで、背骨が一本通る。
エリシアは頷き、懐から小さな紙片を取り出した。
符のように折られた紙。そこに光が滲む。
「簡易の結界符です。玄関や窓に貼れば、夢の“侵入”が弱まる」
「そんなのがあるのか」
「学院では常識です」
冷たい言い方なのに、今は少しだけ頼もしかった。
レオンが人々を誘導し始めると、街の“怖さ”が別の顔を見せた。
魔物と戦う怖さとは違う。
人の恐怖が人を押し倒し、善意が混乱に変わる怖さだ。
「落ち着いて!」
「この通りは危ない、あっちへ!」
叫び声は喉を削る。
強く言えば反発される。弱ければ届かない。
言葉の温度を変えながら、レオンは走り回った。
どの家を先に回るか。誰を先に動かすか。
剣を握らない場面のほうが、よほど神経が磨耗する。
――これも戦いだ。
そう思ったとき、路地の奥で黒い外套の影が揺れた。
刃物を持っているわけでもない。
だが、動きが異様に静かで、視線が“人の流れ”を測っている。
追うべきか、今は目の前を崩さないべきか。
レオンは、追わなかった。
自分がいま支えているのは、答えではなく導線だ。
「……ガルド!」
遠くに声を飛ばす。合図だけを渡す。
ガルドは即座に理解したように視線を流し、路地の奥を一瞥した。
だが追わない。追わなくていいと割り切ったのだ。
そのとき。
別の角から、統制の取れた数人が現れた。
武装は控えめ。だが歩き方に迷いがない。
救済同盟――あの気配だ。
彼らは叫ばない。怒鳴りもしない。
ただ、倒れた人間を静かに担ぎ、家の中へ運び、札を貼っていく。
手際が良すぎる。
「……学院の符と違う」
エリシアが小さく呟いた。
「理論じゃない。場数で整えてる」
救済同盟の一人が、こちらを見た。
敵意はない。だが、肩を並べる気もない。
「間に合わない展示だな、学院は」
それだけ言って、彼らは別の家へ消えた。
レオンの胸が、きしむ。
言い返したい。
だが、言葉で勝っても、倒れている人は起きない。
レオンは口を閉じ、足を動かした。
いまは「正しさ」を競う場じゃない。呼吸を繋ぐ場だ。
しばらくして、街の中心に近い広場で、エリシアが立ち止まった。
「……ここ」
地面の石畳に、薄い魔力の痕が走っている。
細い糸が絡み合うような線。
旧水路で見た感触が、皮膚の下に蘇る。
「中心が近い」
エリシアの声が硬い。
「でも、地上じゃない。……下へ伸びてる」
ガルドが戻ってきて言った。
「暴走は止めた。だが増えるぞ。夜が深くなるほど酷くなる」
レオンは広場の端を見る。
母親が子を抱いたまま座り込み、泣いている。
老人が目を閉じたまま、何かに怯えるように震えている。
魔物なら、斬れば終わる。
だが、人の悪夢は、刃で断てない。
それでも――
ここで引けば、同じ場所に戻る。
レオンは息を吸った。
声が震えないように、腹の奥で支える。
「下へ行きましょう」
エリシアがこちらを見る。
一瞬だけ、目が揺れた。
(……怖いはずなのに、言えるんだ)
それは尊敬には早い。
けれど、確かに心に残る種類の強さだった。
「……行きます」
エリシアは頷いた。
ガルドは何も言わない。
ただ、剣の位置を確かめるように肩を回した。
広場の端で、救済同盟の影がもう一度こちらを見た気がした。
だが、声はかからない。
彼らは彼らの正しさで救い、こちらはこちらのやり方で進む。
王都の灯りは、まだ眩しい。
その足元で、眠れない街がうめいている。
レオンは剣を握り直し、胸の中で言い聞かせた。
――迷ってもいい。
――でも、足を止めない。
そして三人は、広場の地下へ続く古い入口へ向かった。




