第62話 噂収集という名のリスク管理
「小晴さん!」
廊下の向こう側から弾けるような声がした。朱音たちと一緒にいた小晴の足が自然と止まる。視線の先には、瞳を煌めかせた遥生がいた。小晴が気が付くとぶんぶんと大きく手を振って、嬉しいという感情が倍増している。その様は、まるで子犬のようだ。
「随分懐かれてんじゃん」
まだ少しだけ距離がある遥生を見ながら朱音が小晴を肘で小突いた。
「人懐っこいだけだよ」
すでに駆け寄ってきた遥生は、目の前だった。朱音は「へー」と薄く返事だけして、一歩下がった。サークルでも構内でも、小晴を見つけると所構わず話しかけてくる男の分かりやすさは、すでに周囲から生暖かい目を向けられる対象だ。
「本人だけだよ。あれ、気付いてないの」
朱音が呆れ口調で遥生の相手をする小晴を見ながら言う。その目の温度は生ぬるい。
「まあ、それがはるちゃんだし」
陽介が苦笑を漏らす。
「拓也は?」
「さあ、最近学祭準備で忙しいし、知らないんじゃない?」
「面倒にならなきゃいいけど」
怜央もやはり呆れていた。
*
ちょうどお昼時の学食。いつも人で賑わっているがこの時間帯が、一番混雑しガヤガヤと騒がしい。拓也はここ最近よく顔を合わせる面子で、今日もまた昼食を取りつつ学祭の準備に追われている。拓也の他にいるのは、同じ代表組の悠真、美沙、隆哉、圭太。それから大佑と倫子の7人だ。
「次なにやったらいいの~?」
「もう無理だ…。みんな俺の屍を超えていけ…」
「いや、仕事しろよ」
いつも一緒に騒いでいる悠真も今回は、大佑と倫子を冷めた目で見下ろした。
「悠真こわ。てか別にうちら言われたことはちゃんとしてるし~」
「飯食ってる時くらい愚痴吐いてもよくね」
ぶーぶー文句を言いながらも、あーだこーだ全員で取り掛かる仕事の確認をしていく。そんな中、ふと思い出したように倫子が拓也を見た。
「ねえねえ、気になってたんだけどさあ。拓也って元カノとより戻すの?」
何を言い出すかと思えば、予想もしていなかった話題を振られる。ゴボッと飲みかけていた水が喉に引っかかて、口から勢いよく吹き出した。
「は? え、俺が?」
拓也は溢れた水を余所に信じられないといった顔で倫子を見た。
「ちょ、拓也こぼれてるって」
代わりに隣に座っていた美沙が慌ててハンカチを出す。
「わり。さんきゅ」
「っ、ううん。気にしないで」
断るのもおかしな話なため、美沙の動揺を見ないフリして有り難く受け取る。一旦、服に引っ掛けた水を拭いた。
「てか急になんで、そんなこと聞くの?」
もう一度倫子に視線を戻し、改めて質問の意図を探ってみる。すると特に大した意味もないのか、倫子はすぐに理由を教えてくれた。
「最近拓也推しの間で噂だよ。聞いてこいって言われたから、仕方なく聞いてまーす」
面倒なくワケが知れたのは有り難かったが、噂が立っているという新たな情報に自然と眉のあたりに皺が寄った。
「最近やたら会うだけで、なんもないよ」
それから、取り繕うに笑みを作る。
「それ、向こうがより戻したいんじゃない?」
ズケズケとした質問は倫子らしいとは思ったが、不愉快な質問だと思った。
「ないない。まじでない」
相手の感情など想像すらしたくなくて、すぐさま否定する。
「えー。でも、戻そうって言われたらどうすんの?」
「瑠華が?」
「そ」
しばしの沈黙が落ちる。
「いや、ないでしょ」
そもそも言わせるつもりもないというのが正確な答えだったが、そこまで伝える必要もなかった。
「噂といえば、最近さ。陽にライバル出現って言われてんの知ってた?」
話を切り替えるように圭太が口を開く。
「陽?」
「そ。ほら、休み明けに飲みあったじゃん。あの時、お前の隣座ってた2年の子。朱音と仲いいさ、確か小晴ちゃん? 今猛アタックされてんの」
話がうまい具合に切り替わり、拓也はホッと胸を撫で下ろしたのも束の間だった。寝耳に水な話題に体がピシリと硬直する。
(…は?)
声には出さなかったが胸中で呟いた一言は、ドス黒い音を立てていた。
「あー! 知ってる、それ! 密かな注目株ね」
美沙が五月蝿いくらいに大きく反応する。
「つか、椿さんに飲み会で隼がわりとアピってなかった?」
隆哉が思い出したかのように、あの時の嫌な絡みを口にする。拓也の不愉快指数は上がっていくばかりだが、誰もそのことに気がついていない。
「確かに。でも、ちょっと意外かも。椿ちゃんって結構大人しめの印象だったから」
ぼそっと呟いた美沙の一言は、結構な地雷だった。
(意外? 俺の彼女、死ぬほど可愛いけど?)
今真っ向から否定できないのが、もどかしい。他の男が小晴を気になるのは、至極当然なことではある。しかし、だからと言ってその状況を許せるかは、また違う話だ。
「そう? 可愛いじゃん、小晴」
心の内が喧しくなり始めた時、拓也の声を代弁するような言葉が耳に届いた。
「なになに。悠真も狙ってんの?」
完全に状況を面白がっている倫子の声が割って入った。拓也が追いかけるように視線を投げた先で、悠真はいつものように軽く笑っていた。
「え、てか。悠真知ってたわけ? 噂」
動揺をどうにか隠しながら、拓也は悠真に尋ねた。笑っていた悠真が拓也に顔を向ける。真っ直ぐ向けられた瞳の奥に、冷たい刃がキラリと静かに光ったように見えた。
「逆に知らんかったの?」
質問に質問を返され、口を噤んだ。悠真と拓也の間に、二人にしかわからない空気が流れる。
「なーんだ。二人とも陽くんが心配なだけじゃん」
それを一掃するように倫子がつまらなそうに呟いた。結局噂話はすぐに過ぎ去って、その日もいつも通り学祭の準備に追われた拓也たちだった。
*
珍しく小晴が不在の講義終わりの自由時間に「なんで朱音は彼氏と別れたの?」と、前後の会話も脈絡もないまま、怜央は隣に座っている朱音に聞いた。
「え、聞く? そこ」
朱音の顔にありありと、あり得ないと書いてある。
「え、聞かないとかあんの?」
怜央は、わざとらしいびっくりした表情を朱音に向けた。
「あるでしょ。人のデリケートな問題なんですけど?」
「確かに。で、なんで別れたの?」
「うわ、最悪じゃん。こいつ」
睨んだことまでスルーされ、朱音は盛大に眉を顰める。さっきまで会話という会話もなく、ただ同じ席に集合しスマホを弄っていただけのはずだったが、どういう展開なのか。
「だって別れないって宣言してたじゃん。なあ、陽」
「まあ、それはそう」
スマホ片手に陽介が悪いとは思ってそうな顔で笑いながら、怜央の話題に乗っかる。こうなっては、話す以外の流れはこの場にはない。朱音はわざとらしく肩を落として、仕方なく口を開いた。
「元彼が、私が持ってる男の連絡先、全部消せって言ってきたの。SNSもブロックしろとか、それで喧嘩になって別れた」
できるだけ感情を排除して、事実だけを告げる。
「うっ…わ」
「うわ~、きつー」
言い終わった途端、怜央と陽介の反応は似たようなものだった。
だから言いたくなかったんだと、朱音は不貞腐れた態度で空中を見た。そもそも、元彼を思い出したりもしたくなかった。あいつの話題なんて論外だ。絶対に引かれるのは目に見えていた。あと付け加えるなら、こんなしょうもない男と付き合っていたと知られるのは、なかなか精神的にくるものがある。しかし、玲央と陽介の二人なら言いふらすこともしないだろうから、まあ良いかと言ってしまった手前の諦めで目を瞑った。ドン引き顔の二人を軽く睨みながら、朱音は「そもそもさあ」と話し始めた。こうなったら、とことん愚痴を聞いてもらうしかない。
「これまでの私を見て好きになったくせに、私が人付き合いするのは嫌で、いきなり男全員切れってバカなんじゃない? って思わない?」
元彼に言えなかった悪態が口をついて出た。
「それなら普通に違う女好きになれば良いし、『連絡先全部消せ』は、感性バグりすぎて虚無。こっちが浮気したとかなら分かるけど、そこまでの束縛は普通にあり得ないでしょ」
愚痴と共に元彼への怒りが蘇ってくる。束縛をするということは、私を信用できないと言っているのと同義だと、なぜわからないのだろうか。
(私がそんな軽い女に見える? 浮気とか、するわけないんですけど)
ああ、本当に思い出すだけで腹立たしい。
「なに、朱音浮気したの?」
全くもってタイミングのいい言葉が耳を撃つ。
「するわけないじゃん。いい加減にしなよ」
いつもは冗談と笑って流せる玲央の言葉も、今の朱音には難しく苛立ちを隠すことなく睨みつけた。
「とか言って〜、男と連絡してたんじゃねえの〜?」
「はあ〜? 彼氏が心配するような連絡はしてないわ!」
お前が言うか、と思いながら売り言葉に買い言葉で言葉をぶつけた。
「あはは、二人とも落ち着いて」
陽介が苦笑しながら、「まあまあ」とヒートアップした二人を落ち着ける。それからまだ鼻息荒い朱音に視線を向けて、慰めの言葉を向けた。
「まあ、いいじゃん。そんな男と早めに別れられてラッキーってことにしとこ」
柔らかい笑みを朱音に向けると、少しだけ朱音の釣り上がった眉が力無く下がった。
「つか、朱音の男を見る目がさあ」
陽介のおかげでうまく場が和やかな方向へ行きかけたのに、再び玲央が空気を読まずに爆弾を投下した。
「玲央」
流石に陽介もこの時ばかりは眉を顰めて、非難めいた視線を送った。
「なに、私の見る目がないって言いたいわけ?」
八の字だった眉が元に戻り眼光は鋭く光る。朱音と玲央の間に一触即発の空気が漂った。
「言いたいってか、そうじゃん。周りに敵増やさないように良い顔しまくるから、やばい男しか寄ってこないんだよ」
すでに玲央は呆れた顔をしていた。場の空気に流されるわけでもなく、怒り心頭の朱音を小さな子供でも見るような目で見ている。
「いやいや、処世術ね。処世術」
「あー、はいはい」
すでに結論は出たのか、会話を続ける気が失せたのか、玲央は肩をすくめた。




