第61話 恋心の自覚
前半をほとんど聞き流していた講義が終わった。ため息を吐きそうな心境で、机の上に広げたものを片付ける。
「こは」
名前を呼ばれた。顔を上げた先にいたのは、この講義で合流する予定だった朱音と陽介だった。
「おはよ、はるちゃん。珍しいね、遅れるの」
「もう、間に合わないなら連絡してよ。心配するじゃん」
いつもと変わらぬふたりが立っている。
「あ、おはよう。ごめんね。ちょっとぼーっとしてたら普通に間に合わなかった」
女子トイレで聞いたことを話すわけにもいかず、小晴は曖昧に微笑んだ。
「珍しい。あ、これさっき配られたプリントね」
「ありがとう。助かります」
朱音に差し出されたプリントを受け取る。
「うん。まあ、何か困ったら相談乗るからね」
さりげない朱音の好意に、胸が詰まる思いがする。どうにか気持ちを持ち直し、小晴は改めて礼を言った。
「そういえば次、どこだったっけ? なんか今日だけ場所違ったよね」
それから小晴はこれ以上話を広げないように別の話題に切り替えた。
「3号館じゃなかった?」
「3号館ってどこだっけ?」
陽介と朱音は、違和感なく小晴が投げたボールを受け取ってくれる。
「ちょっと距離あったよね。移動して席とろっか」
「だね。誰かさんがまた遅刻するかもしれないし」
話題が逸れたことにホッとしつつ、クスクスと笑った朱音に目を細める。
「朱音ちゃん、それ私のことでしょ」
小晴が指摘すると、朱音はただ悪戯に笑った。
次の講義が始まる前に3人は無事に目的の場所に辿り着いた。ちょうど朱音が席を外し小晴が陽介と二人だけになったタイミングで、ふと陽介が小晴に視線を向けた。それまでの雑談から空気が微妙に変わったことに首をかしげる。
「なんか元気なさそうだけど、大丈夫?」
え、と一瞬フリーズして、遅れたように瞬きをする。
「…あ、そう?」
分かりやすく反応してしまった恥ずかしさと知られたくない防衛反応が働いて視線を逸らした。
「うん」
「そ、んなことないよ。陽ちゃん心配しすぎ」
挽回したくて笑ってみたが、上手く出来たかは分からなかった。乾いた笑いが口から漏れる。
「まあ、言いたくないならそれで全然いいんだけど」
陽介の空気はいつも柔らかくて、不思議な心地よさがある。
「はるちゃんって、考えすぎるところあるからさ。たまには気抜いてもいいんじゃないって思ってますけど、どうですか?」
いつも重くも軽くもないちょうどいい塩梅の優しい言葉だ。最後におどけたように問いかけられ、笑みが雪解けのように吐息とともにこぼれた。
「うん…。ありがとう」
友人たちのさりげない優しさにじーんと沁みながら、小晴は少しだけ泣きそうな気持ちになった。
*
「じゃあね」
「また明日~」
朱音と陽介がそれぞれ別の方向に散っていくのを見送り、小晴はひとり帰る方角へ足を向けた。今日の講義はこれで終わりだ。普段であれば軽やかな調子のはずだが、心に重しが乗っかっているせいか足取りはどこか重い。
(陽ちゃんは考えすぎって言ってたけど、やっぱり私が負担かけてたのは本当だし)
もうなにもかもが遅いけど、私が変わったからといって何かが変わるわけでもないけれど、いつまでもこのまま、変わらないままはきっと良くない。だけど、この怖さをどう乗り越えたらいいだろうか。誰かに嫌われるのも後ろ指さされるのも、陰口をたたかれるのも、全部怖い。
どうしたらいい?
どうすればよかった?
私には何が足りない?
過去を振り返ったって意味がないと分かっていてもそんな疑問が頭に浮かぶ。一人で悶々と考え続けているが、たった数時間ごときでは解決の糸口すら見えない。迷宮の奥深くに飲み込まれていくばかりだ。はあ、と色んな感情を凝縮したため息が、小晴の口から出ていった。もし、立ち聞きしたのが陽介や玲央ならあの時どうしていただろうか。
「…あれ、小晴?」
学生たちが集まる共同学習エリアの横を通り過ぎようとしたときだった。聞きたかったような、聞きたくなかったような、柔らかな声が届いた。
「タク…、拓也さん」
振り向いた先に、ちょうど扉から出てきた拓也が立っていた。タクくんと呼びかけて、慌てて言い直す。
(今のバレてないかな)
自分から内緒にしたいと言っていたのに、こんな初歩的な間違いを見透かされていたら恥ずかしい。「こ、こんにちは」と、誤魔化すように挨拶を挟む。
(今のは、ちゃんと後輩っぽかったかな…)
小晴がどぎまぎとしているうちに、拓也が目の前までやってきた。拓也は相変わらず、そこにいるだけで空気を変える。迷うことのない真っすぐな足取りに、気持ちが勝手に浮きたったのと同時に、なぜか気圧されたような気持ちにもなった。
「今日は、もう終わり?」
「えっと…、はい。帰ろうかなってとこでした」
癖のように瞬時に周囲を見回して、学内だからという理由で敬語で返した。「そうなんだ」と微笑まれてぽっと頬が染まる。
「拓也、さんは?」
「俺は、学祭の準備。書類とか、色々やんなきゃいけなくて」
「そう、なんですね。やっぱり代表は忙しいんだ…」
ぼそっと呟いた独り言は、案外大きくて拓也の耳に拾われた。
「なに、寂しいの?」
「え、わ、や、ち、ちがいます。今のはそういうんじゃなくてっ…」
「ふーん。そうなんだ。俺は寂しいけど。今日はもう小晴と帰りたい気分」
拓也の甘い言葉に、限界とばかりに小晴の頭からぷしゅーっと音を立てて湯気が立つ。
「え、え。あの、えっと。そ、それは…」
どうしよう、口角が勝手に上がる。顔が熱い。拓也の顔が見れない。
「そんなに嬉しそうにされるとこっちが照れる」
大人っぽく笑ったかと思うと、拓也は周囲に人がいないのを良いことに、先輩と後輩だと言い訳できない距離まで隙間を縮めた。
「流石にその顔はキスしたくなるんだけど」
本気なのか揶揄っているのかよくわからないぎらついた瞳で低く呟く。覗き込むように近づかれた顔が思ったよりも間近にあって、ひゅっと息を飲んだ。
(あ、むり)
小晴は一瞬で敗北を悟り、白旗を振った。こんなの心臓がどんなに強靭でも持たない。疼いた胸の奥が痛いくらい収縮する。誰かに嫌われるかもしれない怖さを押しのけるほどの好きが増して、小晴は躊躇いながらも拓也の服を掴んでいた。変わらないといけないと、このまま流されたい気持ちが重なって、ぎゅっと瞳を瞑る。きっと握る手は微かに震えていた。
束の間の空白から落ちたリップ音。
「…、なんかあった?」
「え?」
近くに感じていた体温が離れ、きつく閉じた瞳をそおっと開く。開けた視界の中で、拓也はどこか心配そうな怪訝げな顔をしていた。さっきまであった甘い空気が失せ、急に距離が出来たような気がする。唇ではなく額に落とされたキスは、まるで小晴の覚悟をなかったことにされたように感じて、内側にモヤが生まれた。
「小晴に無理してほしいわけじゃないんだよね」
自分を思いやってくれる拓也に対して、私もして欲しかったなんてなんだか恥ずかしくて、正直な気持ちが言えない。無意識に唇に力が入った。
「てか、俺がガッつきすぎてんだよな。ごめん」
苦笑混じりの拓也の言葉に、小晴は首を横に振った。
(違う。そうじゃない)
そうじゃないのに、言葉にするのが怖かった。
(私がキスしたかったって言ったら、がっつきすぎてキモイって思われるかな)
伝えないといけないのに、怖くて恥ずかしくて、小晴は「大丈夫」と曖昧に微笑み返した。
*
拓也との些細なすれ違いを起こした次の日も大学生としての時間はやってくる。今日の小晴は、薄手の長袖にデニムパンツというラフな格好に身を包んでいた。
「ねえ、陽ちゃん」
目の前でレポート課題を片付けている陽介に目をやる。小晴は、講義と講義の合間の空きコマに、陽介と二人で大学のカフェに来ていた。
「んー、なに?」
「…、拓也さんってさ。今までどんな子が、その、好きだったりしたのかな。なーんて…、あはは」
勇気を出して聞いてはみたものの、なんだか気まずい。そんな気持ちを打ち消すように、最後に取ってつけたように笑ってみたが、乾いた笑いは空中で分解され沈黙が落ちる。より気まずさが増した。
「なんかやらかしたの?」
紙の上にペンを走らせていた陽介の手が止まり、手元に落としていた視線が小晴に向けられる。陽介の怪訝気な顔に小晴の視線が泳いだ。
「ち、違う。そうじゃなくて」
やらかしていないというより、そうじゃないと思いたい。たぶんあれはやらかしたには、入らない…、きっと。うん。たぶん、絶対。
動揺を隠せない小晴を見た陽介は、ただ一言「ふーん」とだけ呟いた。手にしていたボールペンをくるりと指で器用に回す。それから深く追求することなく口を開いた。
「たっくんの好みねえ。まあ、はるちゃんと付き合う前って噂の通りっていうか、本人に聞けば?」
求めていなかった答えを至極当然のように告げられる。
「っ、それは無理!」
「なら、余計深入りしない方がいいと思うけどなあ」
強固な意思が詰まった拒否に陽介が呆れた顔をする。
「それは…、わかってるけど。その、ちゃんと付き合った人というか…、前の元カノさんってどんな人だったのかなあ…、って気になったというか…なんというか」
聞きたいことは最初から決まっているのに、口から出ていくのはごにょごにょとはっきりしない言葉の数々。
「元カノ? あー、元カノね」
「知ってるの!?」
陽介の反応に、ガタっと座っていた椅子が鳴った。
「まあ、ちらっとだけ。目立ってたし。てか、今付き合ってんのは、はるちゃんなんだから普通に考えてたっくんの好みは、はるちゃんでしょ」
これまた公式に当て嵌めたような答えが返ってくる。
「っ、そ、うじゃなくてさあ」
もどかしい気持ちがゆらゆらと身体を前後に揺らす。
「知りたいなら自分でたっくんに聞きなよ。僕から聞いても意味ないよ」
「だ、だって…。重いとか、思われたらやだもん」
陽介の終始一貫した呆れた顔は、小晴に本音を白状させた。ぼそぼそと下を向きながらいじけたように呟いた言葉が、再び居たたまれない沈黙を場に下ろす。
「恋じゃん」
瞳を瞬かせて、陽介が言った。
「ちがっ…、くはない」
否定しようとして、言葉が止まる。視線はまた膝の上へと舞い戻る。ぼんっと体内で爆発でも起こったように脳が沸騰し顔に熱が集中した。
「えー…、はるちゃんがちゃんと恋してるのおもしろ」
「陽ちゃんのバカ、揶揄わないでよ!」
陽介の煽りにまた顔が上がった。その顔は誰が見ても真っ赤だ。熟れた林檎みたいな色をしている。
「怒らないでよ。揶揄ってないから」
なんて言う陽介は、やはり面白がっている顔をしていた。
「たっくんにベタ惚れなの?」
続いた言葉が物語っている。
「〜っうるさい」
否定できない小晴を見て陽介は笑った。好きに笑ったあと、むくれている小晴を見る。
「そのまんまでいればいいのに。頑張らなくてもはるちゃんなら大丈夫だよ」
やっぱり最近の陽介は、よく呆れている。笑っているけど、今も目の奥が呆れに満ちている。
「…自信ないもん」
小晴は、むくれたまま答えた。
「初めての恋だもんね〜」
「陽ちゃんってば!!」
すかさず返ってきた言葉に小晴はまた怒った。それも分かっていたのか、陽介はさっきよりも勢いよく笑った。




