第60話 愉しい陰口
「そろそろ行かなくちゃ」
バス車内の時のような楽しい時間は過ぎ、小晴は手元のスマホを確認した。カバンを手に取って腰を上げる。
「話せて楽しかったです!」
眩しい笑顔がはじけ飛ぶ。
「私も。時間潰しに付き合ってくれてありがとね」
いつも気を遣ってしまう小晴もずっとにこにこと笑っている遥生の空気に絆されていた。
「全然! むしろまた話せたら嬉しいな〜、とか思ってたり…」
「また話そうね」
最初の勢いが少しずつ削がれ、遥生の言葉は尻込みしていた。そんなところも微笑ましく小晴は柔らかい笑みと一緒に頷いた。
「はい!! 言質も取りましたしね!」
「確かに、そうだね」
コインの表と裏をひっくり返したような変わり様に笑ってしまう。
「それじゃあ、またね」
「この後の講義、頑張ってください!」
「ありがとう。遥生くんも頑張ってね」
元気な遥生と手を振って別れる。小晴は、食堂を出て目的の講義室の前にお手洗いへと足を向けた。
*
ちょうど小晴が、お手洗いの個室から出ようとしていたタイミングだった。小晴よりも先に個室から出てきた二人が、手洗い場で小気味よいテンポで会話をしていた。講義が始まる直前のほとんど人がいない時間帯は二人の声量もあってか、わりとクリーンに会話内容が個室まで響いている。
「てかさあ、最近拓也さん飲み来ないこと多くなったよね」
今まで単位やらコスメやらとりとめのない話をしていたのに、突然話題が変わった。急に出てきた拓也の名前に、小晴の心臓がドキリと跳ねる。彼の名前に反射的に反応した自分も、その原因が自分にあることもなんとなく居心地が悪く、小晴はこれ以上盗み聞きになってしまわないように鞄を手に取った。
「あ、わかる~」
「めちゃ萎えんだけど」
その間も二人の会話は、誰が聞いてるとも知れずに軽快に進んでいく。
「あんた、ほんとに拓也さん好きだね」
呆れた声が小晴の鼓膜を震わせ、個室から出ようとしていた手をぴたりと止めた。それまで盗み聞きについてしか気にしていなかった脳みそが、急に扉を隔てた向こう側の会話を気にし出す。無意識に、存在を消すように息を潜めていた。
「だって、めちゃくちゃカッコいいじゃん」
「わかるけどさあ。狙っても無理でしょ、あれは」
小晴の心情の変化など関係なく世界はまわり、なんと評したら良いのかわからないざっくばらんなやり取りは相変わらずの調子で続く。
「別にそういうんじゃないですから~!」
「へ~。でも、ほんとに減ったよね。彼女でも出来たとか?」
「え~! いやだ~~~」
甲高い声が脳にダイレクトに響いた。彼女という単語の殺傷能力の高さに、危うくやられるところだった。
「そういうんじゃないんじゃなかったの?」
「そうですけど~」
彼女たちのやりとりを聞きながら、小晴は上がった心拍数を落ち着けるために瞳を閉じた。
(大丈夫、大丈夫。別に私が彼女ってバレたわけじゃない)
心の中で二、三度唱えて、どうにか動揺を抑える。
「まあ、拓也さんの元カノって去年のミスコン出てたし。なかなか次の彼女のハードルは高いんじゃない」
元カノ、ミスコン。初めて聞く話に、モヤっとした黒い霧が胸に広がる。きっと彼の元カノは、ものすごい美人なんだろうと簡単に想像がついた。
「じゃあさ、もし彼女ができたとして誰だと思う? 例えば、うちのサークルから挙げるとしたら…?」
「え~…、うちのサークルで?」
顔が見えなくても声だけで、考えるのも面倒といった感じが伝わる。小晴が知る名前や知らない名前が上がった後に「…、うーん。えー、そうだな。朱音とか?」とひとりが言った。
(朱音ちゃん!?)
「え、朱音!?」
予想外の名前に、小晴の心の声と女学生の声がピッタリと重なった。
「私、それこそ無理なんだけど」
不満げに漏らされた声は、なんだかすごく嫌な気配を纏っている。
「いや、だって顔は可愛いし、先輩受けもいいじゃん」
褒めているというよりも事実を並べているような言い方にも、なんだか引っ掛かりを覚える。なぜか出るタイミングを完全に間違えたような予感がした。その予感を肯定するように小晴の耳が、さっきまでの甲高い声と明らかに違うローテンションの音を拾う。
「いいけどさあ。なんか最近ちょっと、ん?って思うこと増えたっていうか。前の朱音どこ行った~?みたいな、わかる? この違和感」
「え…!? まって、わかる。え、だよね? 一昨日の飲み会やばくなかった? 声デカすぎてまじで耳がキーンってしたんだけど」
「だよね! 私に注目して感強すぎるってか、可愛いのは分かるんだけどさあ。男子も男子だし。隆哉さんも圭太さんも朱音のこと持ち上げすぎ。だから調子乗るんだって」
下がっていたはずのテンションが一気に引き上がり、この上なく高揚している。小晴は、いつの間にか硬い顔つきに変わっていた。
「絶対あの時、美沙さん内心苦笑いしてたよね。それに気付けないの致命傷ってか、まじでやってること痛いってはやく気づいた方がいいと思うんだよね」
「流石にあれは拓也さんも呆れてたでしょ」
「私があそこにいたらたぶん顔引き攣ってたよ。つかいなくても引き攣ったし」
「わかる〜。あの後さあ、自分の居場所無くなったからって玲央くんたちのところ押しかけてて、なんかもういつメンみたいにされてる玲央くんとか陽くんも可哀想だった」
「まじそれな。お前くんなよって」
ケラケラと下卑た笑い声が耳につく。
「ほんとほんと。男好きなのも大概にしたらいいのに。まじで、拓也さんたちに媚売るのやめてほしい」
「まーじ、見ててしんどいよな。涼矢とお似合いなんだから、そっちにしとけって」
「ほんとに〜! お願いだから涼矢と付き合っといて」
終始楽しげな女子二人の会話を打ち切るように、お手洗いの外からチャイムの音が聞こえた。
「あ、やば」
「ちょ、急ご」
忙しない様子で慌てて出ていく彼女たちの足音を聞きながら、小晴はその場から動けず個室の内側で固まっていた。胃のあたりをギュッと強く握りしめ、口を固く結ぶ。腹の下に突如落っこちてきた黒いとぐろのようなモヤをどう処理したらいいのかわからなかった。何より、隠れて聞いていただけの自分が不甲斐なく情けなかった。
あらゆる感情の波が小晴の内部に押し寄せ、攫って行こうとする。
小晴の身体は、じっと耐えるように静かに震えた。
鬱々とした気分のままお手洗いを後にして、小晴は講義室の後方の扉から静かに入った。すでに始まっている講義の邪魔にならないよう端っこの席に腰を下ろし、バックから必要なものを机に置く。
しかし小晴の頭の中は、先ほど聞いてしまった話がぐるぐると回っている。一度落ち着いて考えてみようとしたが、やはり混乱するばかりだ。教授の話は砂が手からこぼれ落ちるように、右から左に流れていく。ついさっきまで、遥生と楽しく話していたことなんて頭になかった。
(なんであの流れで朱音ちゃんの悪口に発展するの?)
どうにか理解しようと試みても、理解の範疇を超えていることに頭が追いついてこない。朱音自身が顔もわからないサークルの誰かにあんなに嫌われるようなことをしたとは、盗み聞いた会話からはわからなかった。
最初はとりとめもないどうでもいい話だった。そのうち拓也が飲み会に来ないという愚痴に代わって拓也の彼女候補みたいな話になって――。
(ていうか、なんであそこまで言われなきゃいけないの? 陽ちゃんも怜央くんも、そんなこと思うわけないじゃん)
そうだ。思うわけない。全部憶測で、しかも全部間違っている。どうして、陽介も怜央も朱音を嫌っているという話になるのだろう。陽介と玲央は朱音を友だちだと思っている。彼女を好ましく思っていて、それは一方通行ではない。話の端にも出てこなかったが、いつも一緒にいる小晴だって同じ気持ちだ。なんでそんな風に言うのかと責めたくなって、胸の中にさらに重りが増した。
(なんで…、じゃないんだよね。きっと)
きっと彼女たちの会話に整合性なんかない。ただ朱音が美人で可愛くて、みんなから好かれているのが羨ましいだけだ。きっとただそれだけ、大した理由があるわけじゃない。でも、その説明のつかなさがよりこの問題の解決策のなさを物語っている。
(だから――)
手に持っているシャープペンシルの柄にぐっと力が入った。
(私が勝手にムカついてるのだって、大した理由じゃない)
朱音ちゃんにお節介だとか、余計なお世話だと言われたってこの感情は私の勝手。
唇を噛むと、同時に眉間に皺が寄った。
好き勝手文句を言うのも彼女たちの勝手で、それを理不尽だと思ってむかつくのも私の勝手で。
(ああ、もうやだな)
ニコニコと笑う朱音を思い出して、小晴は思った。大事な友達が意味もなく嫌われている状況も、好転しそうな解決策が思いつかないことも、周りを黙らせられるほどの力が自分にはないことも、全部が嫌になる。
それから朱音自身が目立ちすぎるのが嫌いって言っていたこと、飲み会は特に目をつけられると言っていたこと、一つ一つ思い出して気が付く。
きっと朱音は、全部わかっていた。
玲央も陽介も、きっと知っている。
『朱音もヘイト買ってでも、あれは止めたかったわけでしょ』
ふと思い出したのは、前期の玲央の言葉だった。
私は――、わかっていなかった。
自分のことばっかりで、拓也や悠真に好かれている事実がバレたくなくて、みんなに庇ってもらってばっかりだった。今だってそう、拓也と付き合っていると知られるのが怖い。そして、今も現在進行形で迷惑をかけている、のかもしれない。サークルの女子たちの嫉妬が朱音に向いたきっかけは、私が作ってしまったのかもしれない。噂にもならない、可能性にすら上がらない、誰かに見つけてほしいと思うくせに空気のようにいたいと思う私のせい。
だって、ずっと臆病な私の恋の応援をしてくれていたのは、励ましてくれていたのは朱音だった。周りをよく見ている朱音は、みんなが笑っていられるように動く優しい人だから――。




