第54話 静かな嵐の前
9月下旬。夏休みが明けた。まだ夏休み気分が抜けないまま、大学の門を通り抜ける。まだ気温は例年より高く、9月の終わりだというのに夏の匂いがところどころに残っている。けれど、周りの服装はすっかり夏から秋へと様変わりし、爽やかな明るさから落ち着いた深みのカラーで溢れていた。
小晴も例に漏れず、秋らしい格好に身を包んでいる。肩にかけたトートバッグはまだ軽く、最低限の荷物で済んでいた。ピコンとポケットの中でスマホが鳴った。足を止めて画面をのぞく。
〈おはよ〉
今朝送ったメッセージに返信がきたらしい。
(今起きたんだ)
今日は3限4限だけだと言っていたから、夜更かしでもしたんだろう。拓也からのLIMEをあとで返信することにして、ポケットにスマホを戻した。それから立ち止まっていた歩を進める。
(何号館だったっけ)
目の前に聳え立つ建物を見上げて、小晴は眩しそうに瞳を細めた。拓也と付き合って、もうすぐ2か月を迎える。たぶん順調。合宿から帰ってきて、祖父母のところへ帰省していたのと繁忙期によるバイトのシフト協力でなかなか時間を作れなかったけれど、8月下旬からはちょくちょく会えるようになって、夏休みは大体週1ペースで会っていた。1ヶ月記念だからと初めて“そういう”相手にネズミーランドに連れて行ってもらったり、お家にお邪魔させてもらったり、心臓がいくつあっても足りないくらいの時間を過ごした。
初めて、キスもした。手をつないだ時以上に胸がいっぱいになって、ドキドキが加速して、心臓が痛いくらいだった。LIMEは、今も毎日途切れることなく続いている。合宿以来の大学は、なんだか新鮮なような、また日常が戻ってきたような感覚だ。
4月に決めた後期の履修科目の一発目は、朱音も陽介も取っていなくて小晴ひとりで受ける。だから、みんなと会えるのは3限からだ。2限の講義が始まる教室に着いて、小晴は空いている席に荷物を置いた。まだ疎らにしか学生がいない教室の端っこに腰を下ろし、さっき開かずにいたLIMEを開いて返事を送る。続々と席は埋まっていき、教室内に雑多な音が増えた。教授が登壇すると、すこしざわめきが落ち着いて、出席カードが配られる。回ってきたカードを受け取り、次に回していく。
(あ、シャー芯買うの忘れてた)
久しぶりに吸った大学特有の空気は、小晴に夏休みの終わりを静かに知らせた。
*
〈2限おわった?〉
〈いまどこ?〉
初回だからか少しはやめに終わり、購買部から戻ってきてちょうど図書館のゲートをくぐったところで小晴のスマホにLIMEが届いた。〈図書館だよ〉と短く返した言葉はすぐに既読され、拓也から〈了解〉という一言が返ってきた。
(了解?)
やりとりの意味が繋がらず、はてなを浮かべているスタンプを送ってから広間を通り抜け階段を降りる。特に用事があったわけでもないが、お腹も空いていない小晴は、一人で時間を潰すには丁度良いと思ったのだ。
小晴がよく訪れる一番奥まった心理学の蔵書が並ぶ図書館の隅っこには、1人、2人用のこじんまりとした読書用スペースもある。たくさんの人が集う学食やフリースペースより誰に目にも触れない図書館の端っこの方が居心地が良い気がした。
ただ座っているよりは何か面白そうな蔵書がないか探してみようと、なんとなく本棚の前に立ってずらりと並んだ背表紙を眺める。端から順に本のタイトルを見ていた時、背後に人が立ったような気配と共に誰かの腕が小晴の腰にまわり抱き寄せられた。
「おはよ」
低く甘い声が鼓膜を揺らす。反射的に振り返ろうとした小晴は、ぴしりと体を硬直させた。
「っ、拓也さん」
顔のすぐ横、後ろから覗き込むような体勢を取る拓也の顔が、異様に近かった。頬に拓也の吐息がかかる。
「お、おはよう…、ございます」
腰をさらに引き寄せられて、背中が拓也とぴったり重なる。
「前もいたよね、ここ」
小晴の緊張が伝わっているのか、拓也は一息ほどの間を置いてから言葉を紡いだ。
「そういえば、前に拓也さんが寝てるところに、偶然遭遇しましたよね」
ドキドキと心臓がうるさいくらい脈打ちながらも、拓也の言葉に相槌を打って会話へ意識を向ける。赤い顔のままチラリと拓也を見ると、目が合った。
(あ、やば)
小晴は心の中で小さく声を漏らした。
「小晴」
名前を呼ばれた。肩が揺れて、息を詰める。だって、拓也の目は明らかに小晴にキスを要求していたから――。
1週間前に拓也のお家にお邪魔して、その時に初めてキスをした。まだ数えるほどと言うのも烏滸がましいほど、キスの経験がないに等しいけれど、痛いくらいに空気で伝わってくる。
(でも、誰かに見られたら)
本棚に隠れて周囲から見えないとはいえ、こんないつ誰が来てもおかしくない場所でキスをするなんて、と一瞬目が泳いだ。けれど、艶やかな色を持った拓也の目から顔を逸らすこともダメだと抗う術もなく、まるで魔法にかかったように、小晴は順々に瞳を瞑った。心臓が痛いくらいに鳴っている。心臓の音で誰かに気づかれてしまいそうで、嬉しさと不安と背徳感で内側がごちゃ混ぜになった。溢れるような吐息を感じた後、唇に軽やかな衝撃が触れた。微かに揺れたのは小晴の肩で、ちゅっというリップ音の柔らかな感触が、小晴を甘く解けさせる。軽く触れただけなのに、唇が熱くて、溶けてしまいそうだ。きゅっと結んだ小晴の手のひらに力が籠る。
「かわいい」
ほんの一瞬距離が離れて近づいて、また唇を奪われる。先ほどよりもだいぶ緊張が解けた唇に柔らかな熱を押し付けられ、割り入るつもりもない舌が、悪戯に触れた。驚きと共にまた体に力が入った。けれど拓也はそれ以上触れようとはせずに、もう一度小晴に軽くキスをすると距離を置く。後ろから抱きしめられていた腕が離れ、小晴は恐る恐る目を開けた。振り返って明るくなった視界の中に、愉快そうに瞳を細めた拓也を見つける。いつ見てもかっこいい拓也にドキンと胸が鳴る。拓也の足が一歩前に出て、小晴の足が一歩後ろに下がった。トンっと背中が本棚に触れる。小晴を閉じ込めるように、拓也の腕が本棚に伸びた。結局、拓也との距離は先輩と後輩というには近すぎて、今この場を見られたら明らかに恋人同士の距離感でしかない。
「ねえ、もっとキスしていい?」
小晴を真っ直ぐ見下ろして、拓也が甘ったるく囁く。
「っ、だ、だめです!」
これ以上は、心臓がもたない。息を呑みつつも小晴は、視線を横にずらしてどうにか拒否の言葉を口にできた。
「えー、全然足りない」
小晴の反応を楽しんでいるみたいに、拓也は楽しそうに笑いながら不満を口にする。
「っ~~、た、たり…、」
意地悪をされていると分かりながらも翻弄されてしまうのは、経験値の差と小晴自身の性格の問題だ。拓也の言葉を繰り返して言葉を失った小晴は、次の返しに困り果てつつ逸らした瞳を拓也に戻した。
「で、でもここ、図書館で、誰か来たらみ、見られちゃうと…」
わたわたとどうにか言葉を重ねていると、拓也が限界と言うように表情を崩した。
「うん、分かってるよ。しないから安心して」
意地悪な顔から優しげな笑顔に変わって、ホッと息を吐く。
「あからさまにホッとしないでよ」
「え、いや、ちがいます!」
笑われて、慌てた。顔を上げて否定しようとして、拓也の瞳がまた意地悪に細まる。
「はい、もう駄目。流石にアウト」
「へ?」
急な話に何のことかと目を白黒させた。
「名前と敬語」
「あ、」
言われて思い出した。
「二人の時は取るって約束したよね?」
これは、一緒にネズミーランドに行った時に約束した。まだ練習中だけれど、だいぶマシになったと思っていたのに、休みが終わって学校が始まったらそれも元に戻ってしまったらしい。
「そ、それは…」
「ん?」
すっかり約束が頭から抜け落ちていたことに、若干の後ろめたさを覚えた。目が泳いで、言い淀む。けれど、拓也はどうも見逃す気はないらしい。
「えっと、その。タ、ク…くん。約束破って、ごめんね」
申し訳なさと改めて名前を呼び直すことへの恥ずかしさから小晴は、そろりと拓也を見上げる。小晴の心配をよそに、拓也はとても満足そうに笑っていた。
「よく出来ました」
ゼロ距離。
また、唇にキスをされた。




