第49話 揺れる境界線
合宿二日目。昨日の夜に拓也との間に流れていた微妙な空気を払拭できた小晴は、すっきりとした気分で朝6時に目を覚ました。朱音は隣でまだ気持ちよさそうに寝ている。同部屋の子たちの中では、小晴が一番はやい目覚めだった。
小晴は、周りを見回してから物音を立てないよう注意を払いながら充電コードに繋がったままのスマホを手に取った。布団を頭まで被り、画面を開く。まだ何のメッセージも届いていない。それでも小晴はLIMEのトーク画面を開いた。一番上のチャットをタップすると、昨日の深夜0:02と小さく表示されているメッセージが目に飛び込んでくる。口元が微かに綻んだ。
同時に、昨日の直接したやりとりも思い出してカッと体の熱が上昇する。付き合う前にもキスされそうになったことを思い出し、二重で悶えるハメになった。歓喜なのか羞恥なのかわからない感情が走り去ったあと、やっと呼吸を整える。
(拓也さんと私が付き合ってるの、いまだに信じられない…)
スマホの画面に目を落としながら心の中で独りごちる。
(……キス、いつしてくれるのかな)
唇を引き結んだり、窄めたり、小晴はまだ見ぬ未来に少しばかりの思いを馳せた。しばし昨日の他愛もないやりとりを見返してから、小晴はキーボードに指を走らせた。流れるような入力で画面下の小さなバーの中に〈おはようございます〉の文字が浮かぶ。まだ6時という早い時間に送るかどうか悩みが生じる。でも、拓也さんからのメッセージを待つよりも「彼女」らしくていいんじゃないかと、やや迷いながら送信をボタンを押した。静かに呼吸を繰り返す小さな寝息だけだった部屋に、シーツが擦れる音が響く。誰かが身じろぎをしたようだ。
小晴は、スマホを閉じてそっと体を起こし布団から出た。朝食は8時からだが、はやめに身支度を済ませたかった。拓也の周りはいつも魅力的な女の人ばかりで、少しでも自分が一番可愛いって思われていたいから。
小晴は、よーしと小さく呟いて気合いを入れた。
朝食の時間になり、みんなで部屋を出る。ぞろぞろと連なりながら、大広間に顔を出した。すでに半分ほど席が埋まっていた。学年別になんとなく分かれて座っているなか、どこに座ろうかと朱音たちと入り口付近で立ち止まる。小晴たちの脇を他のメンバーたちが抜かしていく。女子同士でなかなか決まらない席の話をしているときに、後ろから「おはよう」という声がした。振り返ると同じ学年の男子たちが立っていた。
「あ、おはよう。隼くん」
声を掛けてくれた隼に挨拶を返す。
「席どこ座んの?」
「まだ決まってないよ」
「ならみんなで座ろうぜ」
隼の提案で、自然と男女グループが合体して大きな集団になる。なかなか決まらなかった席は、隼のおかげですんなりと決まった。ぽっかりと空いた席になんとなく雑談している同士で腰を下ろしていく。最後まで座らず場の流れを見ていた小晴の隣にいつの間にか隼が並んでいた。
「隣いい?」
「え、うん」
促される形で隣に腰を下ろす。朱音はちょうど真向かいの席だった。
「昨日は眠れた?」
「うん。隼くんは?」
「ぼちぼち。みんな騒ぐから全然寝かせてもらえなくて、ちょっと寝不足」
会話は自然と生まれて、隼の話にクスリと笑いが溢れる。
「あ、そうだ。昨日はごめんね、お酒持ってきてくれるって言ってたのに。途中で抜けちゃって」
昨日謝ろうと思っていたことを思い出して、小晴は改めて謝罪を口にした。
「あー。うん。戻ってきたらいなかったからびっくりした。悠真さんが来たって聞いたけど」
「うん。なんか、陽ちゃんが探してくれてたみたいで」
「…へー、そうなんだ」
一瞬変な間が二人の間に流れた。
「陽とは会えた?」
「うん」
「そっか」
不思議に思って隼を見たが、何事もなかったように口を開くから気のせいだったと片付ける。ちょうど会話が終わったタイミングで大広間に別部屋の陽介と玲央が顔を出した。
「おはよー!」
「おは」
小晴たちを見つけた二人は、真っ直ぐみんなが座るテーブルへとやってくる。朝から和かな陽介と、まだ眠たそうな玲央という対照的な挨拶だった。隣に座る隼から視線を外し、小晴は陽介たちに目を向けた。朱音も二人に挨拶を返している。
「あれ、はるちゃんの隣隼じゃん。なんかめずらしい組み合わせ」
陽介は、小晴の隣の席を引きながら横並びのふたりを意外そうな顔で見比べた。玲央はササッと朱音の隣に腰を下ろしている。
「でも、昨日結構一緒にいたよな? 俺ら」
「なになに、二人ともいい感じですか?」
顔を見合わせた小晴と隼を朱音が茶化すように笑った。でも小晴に笑いかける朱音の視線は、やけに鋭さを帯びていた。まるで隼を品定めするようであり、小晴への忠告でもあるような瞳だった。ふと思い出したのは、昨日の夜に拓也が見せてくれた不安そう顔だった。
(そうだ。私、拓也さんの彼女なんだ)
さりげなく拓也の方を見ると当たり前のように目が合った。ドキッと心臓が小さく波を打つ。途端に心の隙間に微量の後ろめたさが生じる。拓也がにこりと微笑んだような気がした。
朝食を終えて、サークルの代表から今日1日のスケジュールのアナウンスがされた。それも無事に終わると、また大広間はガヤガヤとした音を取り戻し、それぞれが席を立ち始める。小晴たちが囲んでいた長テーブルでも各々が席を引いて、小さなグループを作って大広間の外へと向かう。小晴も流れに沿って部屋へと戻ろうとしたときに、ふいに「小晴ちゃん」と名前を呼ばれた。びっくりして思わず拓也を凝視すると、こちらにおいでと言っているように手招きをされる。近くにいた隼や朱音たちの視線を受けながら、慌てて駆け寄る。周りと一定の距離がある場所に立っている拓也のそばには、さっきまで一緒にいた3年生たちはいない。
「な、何ですか?」
何を言われるのかわからず、ほんの少し警戒しながら尋ねると拓也が小さく吹き出した。
「挙動不審すぎでしょ。別にこんなことじゃばれないよ」
拓也に笑われて、ほんの少し耳が赤く染まる。自意識過剰なのはわかっているけれど、改めて指摘されると恥ずかしい。一瞬、拓也から視線を外して斜め下を見る。頭によぎったのは、さっきのことだった。
「ね、あいつと仲良いの?」
拓也がチラッと隼の方を見た。一瞬、精巧に研いだ刃物のような光を放ったような気がした。
「昨日も結構一緒にいたよね」
視線の先が戻って、小晴に向けられる。見られていたんだ、と拓也の言葉で小晴は軽い衝撃を受けた。昨日、自分ばかりが拓也を見ていると思っていた。
「昨日は、たまたま一緒にいることが多くて」
若干言い訳がましく思えたが、概ね嘘ではないので事実だけを伝えた。拓也は、ふーんと小さく相槌を打った。やっぱり言い訳だったかもしれない、と背中にひんやりと冷気が伝う。
「それで仲良くなったんだ?」
「よ、陽ちゃんのおともだちで」
「へ〜」
やっぱりこれは完全な言い訳だ。まるで、浮気でもしてきたかのような嫌な錯覚を覚えた。
「小晴はさ、自分の可愛さわかったほうがいいよ?」
ほんの少しだけ距離が詰まる。耳元に拓也の顔が近づいて、小晴は慌てた。
「た、拓也さん、ち、近い。周りにバレちゃう」
「バレちゃだめなの?」
最大限に小さくした声量で、小晴は抗議の声を上げた。しかし、耳元で囁かれる声は甘ったるい。
「だ、だめです」
目を白黒させながら否定すると、溢れるような笑い声が鼓膜を揺らす。
「かわい」
普段と変わらない拓也に対して、ボフンと頭の上に見えない煙を上げた小晴は、外から見ればギリギリ、モテモテの先輩に揶揄われている初心な後輩だった。
「じゃ、あとで。撮影気をつけてね」
小晴の反応に満足したのか、拓也は何事もなかったかのような自然さで大広間を出て行った。確かにただの先輩に見えなくもなかった。口元に浮かんだ微笑は、いつも通り穏やかで爽やかな拓也そのままだった。けれど、その瞳の奥に微かな剣呑さが帯びていたように見えたのは、なにかの間違いだったのだろうか。
ひやりとした感覚が、胸の奥を細く縦に走った。残された小晴は、どうにか拓也の囁きを自分の中で処理する他なかった。




