第48話 預けた気持ち
陽介たちと大広間に戻り、全体の飲み会がお開きとなるまで小晴はいつものメンバーのそばで過ごした。急にいなくなってしまったことを隼に詫びたい気持ちもあったが、わざわざ出向くのも先ほどの二の舞になりそうで躊躇してしまった。
お酒を飲んで盛り上がっているグループの中にいる隼を見つけて、明日謝ろうと決める。
終わりの15分に差し掛かると大広間の片付け作業が始まる。さほどアルコールを摂取していない小晴は、まだ20歳未満の陽介、玲央とともに率先して片付けを手伝った。雑然としていた大広間は、元の状態に戻り、時間ちょうどに会がお開きとなる。飲み足りない人たちは、各部屋で集まって飲み直し、飲めない、飲まない組もまだまだ就寝時間とはほど遠い空気に酔ったような賑やかさだった。
近くのコンビニまでみんなが買い出しに出掛ける中、小晴は廊下の端にひっそりと佇む自販機へ足を運んだ。自販機の横の影に身を潜めるように拓也が壁に背をつけて凭れるように立っていた。スマホを片手に持ち、惰性で弄っているような雰囲気を滲ませている。小晴は拓也を見つけて、駆け寄った。「拓也さん」と、小晴が言葉をかける前に、駆け寄る小晴に気付いた拓也が顔を上げる。拓也は、そばに寄った小晴を何も言わずにぎゅっと抱きしめた。急な抱擁に、瞬時に小晴の頬が赤く染まる。それから少し離れたところの足音や笑い声が気になって、小さく身を捩った。
「気付かれたくない? 俺は、気付かれればいいってちょっと思ってる」
真偽はわからなかったが、冗談にしてはやや本音が入り混じっているように感じられた。どう反応したら正解なのかがわからなくて、小晴の顔が難しげに歪む。
「嘘だよ。だからそんな顔しないで」
小晴の困っている空気を察知した拓也は、抱き寄せていた体を離した。物悲しそうな笑顔にズキン、と胸が痛む。
また、間違えた。
小晴は、唇を僅かに噛み視線を落とした。
「こっちきて」
自販機が置かれた場所よりもさらに奥の非常階段の踊り場まで手を引かれる。照明が落とされた廊下は暗く、非常口の灯りだけが煌々と光っている。
「ここなら誰にも気付かれないから、安心して」
繋いだ手を離さぬまま拓也は、真正面に立ちながら小晴を安心させるように微笑んだ。
「さっき絡まれてたの気付けなくて、すぐ助けに行けなくてごめん」
全部見られていたんだと知り、胸がドキリと音を鳴らした。重ねるだけだった手が小晴の肌を確かめるように触れる。ゆっくりと指が絡み、意識の全てが手先へ集中する。心臓がドッドッドッと大きく唸りを上げ始めた。
「小晴が他の男の手触ってんのめっちゃ嫌だった」
向けられた瞳の奥に焦がれるような炎が燃えたぎっているのが見え、小晴は息を呑んだ。
「ごめん、なさい」
炎に飲み込まれたかのような息苦しさを感じる。喉の奥がヒリついて、小晴は項垂れるように俯いた。
「うん、次から気をつけてほしいかな」
静かに落とされた言葉は冷静だった。また傷つけてしまったという罪悪感が火種となり、胸の奥にチリチリと火傷のような痛みが走った。小晴は自分の不甲斐なさを実感して深く猛省するほかない。拓也の言葉に頭を上下に一つ振っただけで、口を固く閉ざした。沈黙が暗い廊下をどんよりと支配する。弁明する気配もない小晴に、拓也は小さなため息を吐いた。
「あのさ、ぶっちゃけるけど。正直、付き合ってるのに不安なんだよね」
拓也から吐露された本音に驚いて、小晴の重たかった顔が上がった。丸く見開かれた透明なガラスに、不安そうに瞳を揺らす拓也が映る。
「俺のこと、本当に好き?」
呼吸を忘れる。拓也を見返すことしかできなかった時間は、体感で言ったら1分にも2分にも思えるような長さだった。けれど、ここでまた間違えたら駄目だと自分を叱咤する。恥や外聞をかなぐり捨てて、小晴は絞り出すように気持ちを口にした。
「…、好き…です」
プルプルと震える手に力がこもる。拓也に手を握られていることを思い出したのは、手に力を入れたときの違和感からだった。指と指が絡んでいる手に意識が向いて、小晴はあらゆる羞恥で溶けてしまいそうだった。
「うん。疑ってるわけじゃないんだけど、なんか…、前よりぎこちなくてさ。小晴から距離感じて、どうしたらいいかわからなくなってるんだよね」
対して拓也はずっと冷静で、頬の熱が幾分か引いた。急に繋がった手の温度が冷え込む。今度はさっきよりも冷静に、小晴は重たい口を開いた。
「…、なんか、彼女って初めてで」
経験豊富な拓也に引かれそうで怖かった言葉を、喉が勝手に閉じてしまいそうになりながらなんとか言葉にする。
「拓也さんに、可愛いとか好きって思ってもらいたいのに急に、…付き合ってるってなったら、距離感とか、急に、なんか、知らない世界に入ったみたいで…、怖くなって。どうしたらいいか、わからなくなっちゃって…」
何が言いたいのかわからない取り留めのない言い訳は、だんだんと小晴の声量を落としていった。声は震えなかったが、小晴の瞳に薄い水の膜が張っていた。どんなリアクションを取られるのか分からず、拓也の顔は見られなかった。
「え…、待って。小晴の彼氏、俺が初なの?」
確認するような動揺した拓也の質問に、コクンと控えめに頷く。
「…っ、まじか。うわ、え、聞いてない」
「っ、引かれるかなって、思って。ごめんなさい。その、引きました、よね」
拓也の口から次に飛び出す言葉を聞くのが怖くなって、先に口を開いた。距離を取りたくて、繋いでいた手を離そうと指を解く。しかし拓也はそれを許さなかった。離れかけた手を手繰り寄せ、振り解けない力でやんわりと握り返す。一歩引いた小晴を、そのまま自分の方へと引き寄せた。
「引くわけないじゃん。むしろ喜んでる」
拓也の真剣な顔が近い距離にある。引かれていない事実にホッとしつつ、慣れない距離に目が泳いだ。恥じらう姿を愛おしげに見つめる甘い視線にやられて、耳まで赤く色づく。
「よ、よかった…です」
無言の空間が耐えられず直視できないまま返答すると、くしゃりと拓也が笑った。
「なにそれ、可愛すぎるって」
拓也の腕の中に閉じ込められて、今まで感じたことのないドキドキに翻弄される。
「はあ…、まじでかわいい。まじですき」
しみじみと呟かれて、ボフッと何かが爆発した。無言のハグタイムが終了して少しだけ距離ができる。けれど、今までにない近さに心臓は常に忙しない。自然と拓也を見上げる形になった小晴は、上目遣いで拓也を見た。異様に甘ったるい視線に頬の熱がまた上昇する。
「小晴、ごめんね」
拓也の手が熟れたリンゴのような頬に優しく触れる。彼の指先が炎を灯しているかのような錯覚を起こす。謝られた意味が分からず、小晴は不思議そうに拓也の顔を見つめた。拓也はフッと笑みをこぼす。
「初めてなのに、頑張ってくれてありがとう。怖がらせてごめん。ほんとにちゃんと大事にするから、だからさ。もう一回小晴のこと、俺に預けてくれる?」
小晴の瞳に膜を張っていた水滴が、瞬きと共に目尻に水玉を作った。唇をきゅっと結んで頷く。
「不安にさせないように、俺頑張るね」
涙を拭かれ、視線が自然と合う。柔らかく笑んだ拓也から目が離せなくなる。
「そんな顔してるとキスするよ」
悪戯に微笑んだ拓也の意地悪な顔に、呼吸が止まって慌てて視線を逸らした。クツクツと喉を鳴らす音が頭上で聞こえる。翻弄されるがままになっていると分かっていても、どうしようもなかった。してみたいけど、まだ怖くて、自分から一歩を踏み出す勇気はない。でも、今の拓也はその矛盾ごと抱きしめてくれているような安心感があった。小晴の反応を眺めていた拓也が、おもむろに身を屈めた。耳のすぐそばに唇を寄せて、甘く囁く。
「好きだよ、小晴が」
溶けてしまいそうなほど甘い告白は、小晴の体温を一気に限界へと引き上げる。いつか拓也に殺されるんじゃないかと、小晴は心のどこかで思うのだった。
*
小晴と別れた拓也は、コンビニで買った酒やらツマミの入ったビニール袋を片手に静かな部屋の扉の前に立っていた。ドアノブを回して中に入る。いつもであればどんちゃん騒ぎの中心にいるはずの男が一人、酒を片手にスマホを弄っていた。拓也は当然のように、その男、悠真に声をかけた。悠真も特に大袈裟なリアクションなく気安い挨拶を返す。
「なんか、俺ら話すのなにげに今日初じゃね?」
「そりゃそうだろ。こっち振られてんだぞ」
悠真の隣に遠慮なく座った拓也は、ビニール袋の中身を広げる。明け透けなやりとりは、返って二人の空気を軽くした。缶酎ハイの蓋を開けながら、一見変わりない悠真を見る。
「俺になんか言うことねえの?」
「ねえっつの。ま、お幸せに?」
拓也を横目に、悠真は元々開けていた酒を煽った。拓也は「どーも」と短く返して、悠真から手元の缶に視線を移した。一瞬会話が止まって、悠真がチラリと拓也を見る。それから仕方なさそうに口を開いた。
「強いて言うなら諦めるの諦めたんで。俺に取られないように気をつけてね。たっくん」
「…ほんと、最悪」
半ば冗談のようなトーンで発せられた言葉だったが、受け取った拓也はそこに含まれた本音の度合いを寸分の狂いなく理解することができた。だからこそ開き直った悠真とその原因を作った自分に腹が立って舌を打ち鳴らす。
「どうせこんなことでも確認しにきたんだろ」
「んで全部見えてんだよ。うぜえ」
そして、悠真が全てを飲み込んだまま全体を見ていることにムカついた。どうにもならない感情を飲み込むように酒をぐいっと喉に流し込む。
「でも、さっきは悪かった。助けてあげてくれてありがとう」
言いたくなかったけれど、言わないといけなかった。これはある意味牽制であり、小晴の彼氏としての矜持みたいなものだった。
「うわー。もう彼氏ヅラじゃん。こっちが最悪だわ」
お前のためじゃねえし、という副音声でも聞こえそうな苦虫を噛み潰したように苦い顔をする。
「れっきとした彼氏なんで」
なんの引っかかりもなく言い切れた時、拓也は今までの迷いが全部吹っ切れたような満足げな顔をした。
隣で無意識だろう、幸福顔を浮かべた拓也に、悠真は瞳を細めた。それから小さく息を吐いて、カツンと拓也の缶に自身の缶をぶつける。
(ま、二人とも俺の大事なやつには変わりないんで)
幸せになってくださいよ、と思いながら乾杯した。




