第45話 わからなくなった気持ち
お手洗いから出た後、小晴は売店に立ち寄った。そこで拓也を見かけてドキリとする。入ってすぐの商品コーナーで足が止まって、そのまま視線で追いかけた。誰かと話している様子が伺えてじっと見ていると、商品棚の影に隠れていた美沙が現れる。
(あ、また美沙さんと一緒なんだ)
バスの中で感じたモヤモヤがまた大きくなった。楽しげな2人の様子を見ていたくなくて、小晴は視線を外す。それから拓也たちから見えない場所に隠れるように体を滑り込ませた。
二人を見ていたくない気持ちと同じくらい今の自分を拓也に見せたくなかった。楽しそうに話してるだけで嫉妬してるなんて、拓也に知られたくない。
(絶対重いって思われるもん)
こんなことで拓也から嫌われたくない。瞳を瞑って、ふうと息を吐く。大丈夫、ただの友達同士。嫉妬することなんて何もない。自分に言い聞かせて、無理やり胸に広がったモヤモヤを奥の方へと押し込んだ。
とりあえずバスに戻るまでの時間は残っているし、拓也たちが立ち去るまでここでやり過ごそうと思考を切り替える。この際だから何か買っていこうかと、売店の中を拓也たちの視界に入らない場所でウロウロ歩き回りながら商品を物色していた。小晴がちょうどお菓子コーナーで足を止めていた時、うしろから声をかけられる。
「彼女さん」
ぴたっと何かが首に張り付いた感覚。
「ひゃっ、冷た!」
びっくりして勢いよく振り返った。小晴の瞳が限界まで大きく丸くなる。
「拓也さん、なんで…」
その後に続いただろう「ここに?」という言葉は飲み込んだ。さっきまで美沙さんと一緒だったのに、と言いたい気持ちがバレる気がしたからだ。
「おはよ」
拓也が爽やかに笑った。
「っ…、おはようございます」
「はい、これ。小晴に」
名前呼び、すっかり忘れていたことで、小晴は見事に硬直した。
すでに拓也の笑顔に軽い衝撃を喰らっていた小晴は、さらに広がった第二の余波に完全に飲み込まれてしまった。ペットボトルのお茶を差し出され反射的に受け取りながら、小晴の頭の中は大混乱の大渋滞を極める。今日初めての対面で名前を呼び捨てで呼ばれたという衝撃が強すぎて、自分が拓也からお茶を受け取ったという意識もない。動揺のあまり目が泳いで、拓也を直視できなかった。泳いだ目が手元のお茶を映し、初めてそこで拓也が小晴にお茶をプレゼントしてくれたことを知る。
「あ、お茶。ありがとう、ございます」
冷たいペットボトルをぎゅっと握って、慌ててお礼を口にした。二人の間に少しの間が生じて不思議に感じ、小晴はやっと拓也を見た。見上げた先にいた拓也の顔は、難しい顔をしていた。
「迷惑だった?」
「え?」
拓也の口から発せられた予期せぬ言葉に驚く。
「あんまり嬉しくなさそうだから」
目を丸くした小晴をじっと見ながら、拓也はそのまま言葉を続けた。
「そ、そんなこと」
小晴の瞳が戸惑いで揺れた。
嬉しくないはずがない。嬉しいに決まっている。
なんでそんな風に拓也が思うのか小晴にはわからなかった。けれど、小晴の気持ちとは裏腹に拓也の表情は曇る一方で戸惑いが大きくなる。
「なんか、気のせいだったらいいんだけどさ」
重たげに口を開き、拓也は少しだけ言いにくそうな様子を見せる。
「…、俺と付き合ってるのバレたくない?」
小晴は、息を詰めた。それから少し遅れて顔を赤くして、視線を落とした。図星を指されて動揺して、付き合っているという言葉に反応した。周りに聞こえていなかっただろうかと、心配が頭を掠める。
小晴は拓也の言葉を否定も肯定も出来ずに、もらったお茶を両手でただ握りしめた。
「そっか、わかった」
嘆息と共に短い了解の言葉を言い渡される。
「俺、もう戻るわ」
「あ、…」
踵を返した拓也の背中を小晴は引き止められなかった。
「小晴も時間遅れないようにね」
最後に寂しそうな笑顔を向けられる。
(どうしよう、私)
拓也さんのこと傷つけた。
売店に一人取り残された小晴は、拓也の背中が見えなくなるまで放心していた。
拓也を傷つけてしまったことで心ここに在らず状態に陥ってしまった小晴は、結局何も買わずに拓也からもらったお茶だけを持ってバスへと戻ってきた。
外は茹だるような暑さだ。小晴は少し汗ばんできた首筋に風を通すように髪を耳にかけた。影ひとつない一面のアスファルトの上を歩きながら、乗ってきたバスを見つける。バスから伸びた影に身を潜めるように立つ拓也がいた。入り口付近に拓也含めた代表組の3年生たちが揃っている。美沙はいなかった。
女の人に見せる顔とはまた違う、仲の良さそうな雰囲気が少し離れた場所からでも伺えた。さっきのこともあって、体に緊張が走る。無意識に拓也からもらったお茶をぎゅっと両手で握っていた。少しぬるくなってきた表面が水滴で滑って小晴の手を濡らす。
(謝らなきゃ)
――でも、どうやって?
小晴が考えあぐねている隙に、同じサークルの2年生の女子たちが追い越して、あっという間に拓也たちを取り囲んだ。「あ…」と小さく漏れた声は、だだっ広いアスファルトに吸収される。女の子たちの少し高い楽しげな声が離れたところから耳に届いた。拓也が一瞬こちらを見たような気がしたけど、結局目は合わずに話しかけてきた子たちの輪の中に綺麗に溶け込んでいる。
(謝らないと、いつ謝ろう)
小晴は目を伏せて、拓也たちの前を通り過ぎてバスに乗り込んだ。モヤモヤとした心のざわめきと拓也に見向きもされなかった悲しい気持ちと、やっぱり傷つけたという大きな罪悪感が、小晴の胸のど真ん中にズドンと胡座を描いている。まだ周りは誰も戻ってきていないバスの中で、小晴は自分の席に腰を下ろした。ぽつんとした静けさがより一層、小晴を惨めな気持ちにさせた。
拓也からもらったお茶に目を落とす。嬉しかったのに、バレたらどうしようとか、彼女扱いしてくれることに戸惑って、素直に喜べなかった。結局、また自分のことで精一杯で、拓也を傷つけた。
他の人と仲良く話してる姿に嫉妬していたのも原因かもしれない。小晴はお茶をシートと体の間に挟んで、スマホを取り出した。LIMEを開いて拓也とのトーク画面に移動する。
〈さっきは名前呼んでもらえてちょっと恥ずかしくて、戸惑っちゃってました。素直に喜べなくてごめんなさい!〉
〈お茶すごく嬉しかったです!〉
〈大事に飲みます!!〉
何度も文字を打って決してを繰り返して、やっと送信した。あとで直接謝るとして、一旦気持ちを送れたことにホッと息をつく。スマホをポケットにしまって隣に置いていたお茶を手に取った。キャップを開けて、一口飲む。まだひんやりとしたままのお茶が火照った体を癒してくれた。
少しして前方の入り口からガタガタという音がして、小晴は顔を上げた。どうやら他の人もバスに帰ってきていたらしい。
「あ。小晴先輩、戻ってたんですね」
一人だったバスの空気が変わる。小晴の次に早く戻ってきたのは、隣の席の遥生だった。
「うん。休憩してきた?」
お茶をしまいながら、小晴はにこりと笑顔を向けた。
「暑かったからアイス食べました。小晴先輩は?」
「私は、アイス食べ損ねちゃったなあ」
拓也とのことがあってから、そんなことも頭から抜け落ちていた自分に小晴は苦笑した。そんな小晴に遥生が「えー」と声を漏らす。
「もったいない。めっちゃうまかったのに。言ってくれたら買ってきましたよ」
「なにそれ」
遥生の提案がおかしくて、ちょっと笑う。「冗談じゃないのになあ」と、愚痴でもこぼすかのように呟いてから遥生は「てか、あの」と小晴の方に体ごと向き直った。小晴は、なんだろうと遥生を見返した。
「先輩じゃなくて、さん付けで呼んでもいいですか?」
「え? うん。別にいいよ」
なんてことないお願いに拍子抜ける。
「じゃ、小晴さんって呼びます」
何がそんなに嬉しかったのか、遥生が弾けるようなはにかんだ笑顔を浮かべた。
ところ変わってバスの車外はというと――。お手洗いに行っていた美沙もバスへと戻り、1、2年生メインのバスを担当している代表組の面子が揃ったところだった。
「ごめんごめん、みんな。お待たせ」
拓也たちに駆け寄った美沙は、少し息を弾ませていた。顔の前で手を縦に立てて、軽く謝る。
「いや、ぜんぜん」
「間に合ってるから謝んなくていいって」
「トイレ空いてた?」
拓也、隆哉、圭太がそれぞれ返事をする。
「いや、ちょっと並んだ」
圭太に答えながら、美沙が拓也に視線を向けた。
「拓也なんかあった?」
大きな瞳が不思議そうに拓也を見つめている。
「ちょっと機嫌悪くない?」
聞き返すと、返ってきたのはそんな言葉だった。
「そう? 別に悪くないよ」
指摘されて一瞬ムッとしかけた拓也だったが、すぐに気持ちを切り替えてニコリと笑った。
「あ、ごめん。言われたくなかった?」
申し訳なさそうな顔をした相手に少し息を吐いて、首を横に振る。
「いや。大丈夫。なんでもないから気にしないで」
「うん、わかった」
美沙の引き際の良さに、拓也は小さく胸を撫で下ろした。
「まだみんな戻ってきてないね」
話題を切り替えるように、美沙がバスを振り返る。
「どうせみんな時間ギリギリ攻めてくんだよ」
「今車内いんの、椿さんと一年生の子くらいじゃない?」
拓也以外の3人の会話の中に、小晴の名前が出る。それだけなのにぴくりと反応する自分に、拓也は暑さも相まって微かな苛立ちを覚えた。
「私、ちょっと荷物だけ中に置いてくる」
そう言って、美沙が入り口の手すりを掴んで中に入っていった。しかし見送って数秒もしないうちに、入っていった格好のまま出戻ってくる。
「荷物置きに行ったんじゃないの?」
隆哉が不思議そうに美沙を見た。
「いや、なーんかいい感じでさ。出てきちゃった」
気まずそうな苦笑いを浮かべて、バスからぴょんっと飛び降りる。
「椿ちゃんって、陽くんといい感じだと思ってたけど違うのかもね~」
何気ない一言にピシリと拓也が凍りついたなんて、きっと誰も気がつかなかっただろう。「は?」と言いかけた言葉をどうにか飲み込んだ拓也は、ほぼ条件反射のようにポケットに突っ込んでいたスマホを手にしていた。
(あ、通知きてる)
みんなで話していて気付かなかったけれど、数分前にLIME通知が届いていた。トーク画面を開くと、小晴からだった。文字を目にした拓也の顔が、なんとも言えない表情に変わる。
彼女らしさが詰まったメッセージだったけれど、拓也は素直に喜べなかった。付き合ってからの小晴の気持ちが、実際どこにあるのかよくわからないし、なぜあんな反応になるのかも理解できなかった。
始まりは、正式に付き合うことが決まった日からだった。ここ最近、少しずつ積もっていたものが、一気に噴き出したのを感じた。
小晴の気持ちが、今の拓也にはよくわからなかった。
時間通りに全員がバスの中に戻ってきて、バスは無事にサービスエリアを出た。引き続き高速道路を走るバスに揺られながら、朱音と他愛のない話をしていると彼女がふいに体を寄せてきた。内緒話でもするように、「ねえ」と朱音が声を落とした。
「遥生くんとなに話してたの?」
「え? んー、特になんでもないことだったと思うけど」
話した内容を振り返ってみても、これといった特筆した話はなかったはずだ。
「どうして?」
そのまま伝えてから、なんでそんなことが気になったんだろうと尋ねる。
「いや、戻ってきたらわりと盛り上がってそうだったからさ。珍しいなって思って」
「うん。早めに戻ってきちゃって、お互い暇だったから」
「ふーん…、まあ。それならいいんだけどさ」
納得いったのかいっていないのか、よくわからない微妙な反応だった。
「一応アドバイスというか、あんまり拓也さん刺激するようなことは避けときなよ」
「え?」
どうしてここで拓也の名前が出てきたのかと、びっくりする。
「あの人、わりと気にしそうっていうかさ、たぶんそういうタイプじゃん? 嫉妬深そうっていうか」
朱音が言葉を選ぶように話すのを感じながら、小晴は拓也の彼女として見られていることに気がついて、戸惑いと気恥ずかしさで顔を赤くした。
「ま、知らんけど」
小晴の戸惑いを感じたのか、朱音は付け足すようにそう言った。少し投げやりにも聞こえる言葉は、まるで初めての彼氏に戸惑う小晴を見守ってくれているようだった。




