第40話 溶けていく約束
灼熱の炎天下。アスファルトから立ち上る熱気を感じながら、小晴は最寄駅近くのカフェまで足を運んでいた。店内に入った途端、スゥーっと冷えた空気が全身を包む。カウンター内にいる店員さんの「いらっしゃいませ」という声を聞きながら、小晴はじんわりとにじんだ汗をハンカチで拭った。
「Mサイズのアイスココア、テイクアウトで」
にこやかな店員さんに緊張しつつ、お目当ての飲み物を注文する。
小晴は、ここのココアがお気に入りで、よく自分のご褒美に買っている。特にアイスが最高だ。濃厚なカカオのコクと、ふんわり乗った程よい甘さの生クリームが、小晴にとっては至福だった。
「580円です」
会計を済ませ、受け取り番号が印字されたレシートを受け取った小晴は、レジ前から受け取り口に流されるように移動する。
(涼しい)
順番を待っている間の時間は、火照った体を休ませるちょうどいい時間だ。暇つぶしに眺めていたスマホに、ピコンとLIMEの通知が表示された。誰だろう、とアプリを開く。
〈おはよ〉
何でもないメッセージにドキッと心臓が鳴った。
(…、悠真さん)
どう連絡しようか悩んでいたから、尚更だった。悠真のトーク画面を開いて既読をつける。
〈おはようございます〉
〈いま起きたんですか?〉
そう返すと、すぐに既読がついた。小晴が送ったメッセージの下に、悠真から新しいメッセージが追加される。
〈いまおきた〉
悠真らしくて、少し笑ってしまった。
〈小晴は、なにしてんの?〉
ピコンとまた新しいメッセージが続けて届く。
〈いまカフェいます〉
そのまま送ると、すぐに送られてきた悠真からの返信。〈誰かといんの?〉と、まるで嫉妬でもしているような言葉に一瞬ドキリとする。
〈ひとりですよ〉
〈甘いもの欲しくて〉
ずっとトーク画面を開いている小晴も同じだが、やっぱり送った瞬間に既読がついた。悠真も別の場所で似たような状況だと思うと、なんだか変な気分だ。
〈どうせココアだろ〉
まるで小晴のことをどこかで見ているかのような言葉だった。ちょっと驚いて手が止まったあと、思わずそのまま打ち返す。
〈なんでわかったんですか?〉
〈小晴のことはわかんの。おれ〉
返ってきたメッセージを見て、一瞬心がふわっと上昇する。なのに、すぐチクリと胸が痛くなった。
「アイスココアでお待ちのお客様~」
店員さんの声に、スマホから目線が上がった。スマホをカウンターに置いて、小晴はココアを受け取った。
店外に出れば、またあの強い日差しが小晴を照らした。見上げた空は一面真っ青で、どこまでも綺麗な色が続いている。小晴は眩しそうに瞳を細めた。暑い外とは対称的な冷たい温度が指先から伝わる。小晴は、ココアを一口飲んだ。重たい甘味が口の中に広がった。スマホを取り出して暗くなっていた画面に明かりを点ける。待ち受けのロックを外すと、すぐについさっきまでやり取りしていた悠真とのトーク画面に切り替わる。
〈悠真さんは、今日暇なんですか?〉
小晴は、一つ前の悠真の言葉に返さずに話題を変えた。
〈うん。ひま〉
〈そっちは?〉
少しして返ってきた悠真からのメッセージにも特に掘り返すような言葉はなくて、少しホッとする。
〈今お店出たところで、帰り道です〉
駅と反対の道沿いを歩きながら、悠真とのLIMEを続けた。
〈熱中症気をつけろよ〉
今度は、間もあかずに返ってきたメッセージはぶっきらぼうなのに優しくて、悠真らしくて。やっぱり、ツキンと胸が痛んだ。
〈わかってますよ〉
横断歩道の手前、赤信号で足が止まる。目の前を車が通り過ぎていく。じりじりとした陽の光は、まるで小晴を焦げ付かせようとしているようだ。
〈ほんとかよ〉
〈ほんとです!〉
揶揄うような言葉に乗せられて、強気な言葉を返した。
〈ならいいけど〉
信号が青に変わる。一旦止まる他愛ないやりとり。ココアを持っている手は、結露で濡れている。小晴は近くの公園にふらりと寄って、木陰のベンチに腰をおろした。風がそよいで、木々を揺らす。暑すぎる気温のせいか、公園内で休む人はほぼいない。ちらほらといる人は、小晴と同じく暑さしのぎに木陰に身を寄せている。
ふう、と小晴も息を吐いて、ココアを飲んだ。氷が少し溶けて、さっきよりも味が若干薄まっている。けれどホッとする甘さは健在で、暑さで弱った体を脱力させた。
小晴はベンチにココアを置いて、スマホに視線を落とした。数秒、画面を凝視してから指を滑らせた。いつもよりゆっくり、一文字一文字に念を込めるように、打ち込んだ。
〈いま電話してもいいですか?〉
送信ボタンを押す指先が、わずかに震えた。シュポッ、と更新されたトーク画面を息を詰めて見つめる。
既読。それだけで、心臓がバクバクと脈打つ。
ポコン。
画面が動く。
〈えー。なんか怖いんだけど〉
返ってきたのは、そんな言葉だった。
〈予定とかあったら全然〉
〈無理にとかじゃないので〉
すぐに送り返すと、返信の代わりにスマホが震えた。着信だ。ごくりとつばを飲み込み、通話ボタンを押す。
『もしもし、なに?』
スマホを耳に当てると聞こえた、ズルくて甘くて優しくて、とっても怖いと思った声。久しぶりに聞いた悠真の声は、少しぶっきらぼうでどこか緊張しているように感じた。
『どうかした?』
なんて返したらいいか分からなくて、言葉が喉でつかえる。
『…、小晴が俺に電話したいってめずらしいじゃん』
少し間が空いて、悠真が言葉をつづけた。
「悠真さん」
やっと出た声は、震えていた。
『ん?』
「わたし…、」
口が酷く重たかった。ズシン、と優しい相槌が小晴によけいに胸の乗りかかる重みを実感させる。
『うん』
「夏休み、一緒にどこか行く約束出来そうにないです」
言った。言ってしまった。
心臓をぎゅうっと鷲掴みにされているような苦しさが込み上げる。無言の時間が怖くて、悠真の言葉を待たずに小晴は口を開く。
「ずっと、曖昧なままにしてて、ごめんなさい」
この胸の苦しさは、いったい何なのだろうか。思わせぶりだった自分への懺悔か。傷つけてしまったことへの後悔か。それとも、まだ胸の奥で、消えきれずに残る淡い未練か。あるいは、理想とはかけ離れた自分への失望か。
『俺とは付き合えない?』
「はい」
悠真の問いに小晴は静かに、けれどはっきりと返事をした。短い沈黙が電話越しに流れる。
『あいつに決めたの?』
答えられなかった。でも、それがきっと答えになっていた。『そっか』と、電話の向こうで悠真が言った。
『悔しいけど。あいつ、めっちゃいい男だから仕方ないか』
今まで聞いてきた中で、一番さっぱりとした軽やかな声だった。何も言えないでいる小晴を察してなのか、悠真は言葉をつづけた。
『こっちこそ、今までずっと振り回してごめんな』
トーンが落ちて、柔らかな音がスマホを通して聞こえてくる。小晴は、首を横に振った。
「謝らないでください」
どうにか絞りだした言葉が向こうに届くと、ふっと空気が微かに揺れた音がした。
『うん。ありがとう』
笑って、いるのだろうか。電話の向こうにいる悠真が想像できなくて、また苦しくなる。
『ちゃんと、幸せになれよ』
じゃあ、またなでプツリと途切れた電話。小晴は通話が切れたスマホを両手でぎゅっと握りしめた。じりじりと焼く日差しは、容赦なくアスファルトを焦がしている。隣に置いたアイスココアの氷は、もうほとんどが溶けてしまっていた。
*
通話が切れた。一瞬、スマホを見つめたまま、何も考えられなかった。悠真は、スマホをベッドに投げ出すように放って、そのまま仰向けに寝ころんだ。何もない真っ白な天井を眺める。
少しは俺のこと、好きだっただろ。
喉まで出かかったその言葉を、飲み込んだ。部屋の中には。エアコンの低いゴォという音が響いている。いつもなら気に留めない音が、今はやけに耳障りだった。
(付き合えない、ね)
はあ、と口から溜息が零れる。なんとなくそんな気はしていた。でもほんとは、ほんの少しだけ期待していた。カーテンの隙間から差し込む陽に光が、薄暗い部屋の一角だけを白く照らしている。そこだけが、まるで別の世界のように、眩しかった。
ああ、ほんとバカみたいだ。
たかが女のことで、ここまで落ち込むなんて。
嗤ってみたけど、口角は歪にしか動かなかった。
こんなに落ち込む理由も笑えない理由も、自分が一番分かっている。最後まで皮肉な野郎だと、悠真は心の中で自分を嘲笑った。




