第28話 怒った意味
「はるちゃんは、今日帰った方がいいよ」
涙がようやく止まったころ、陽介が困った顔で小晴に笑いかけた。きっと見るからに泣いたとわかる顔をしているのだろう。
「荷物は教室だよね。ちょっと待ってて」
陽介がスマホを取り出して、どこかに電話をかけ始める。
「もしもし、朱音ちゃん? うん、こっちは大丈夫。はるちゃんの荷物持ってきてくれない? ついでに、一緒に帰れそう?」
「え、陽ちゃん待って」
思いもよらぬ言葉に、慌てて小晴は口をはさんだ。しかし幼い子どもに言い聞かせるように、「しぃー」っと人差し指で静かにするように言われる。そして小晴を置いて朱音とふたりで話をまとめてしまった陽介は、口をはさむ隙を与えないまま電話を切ってしまった。
少しして、朱音が小晴の荷物を持ってやってきた。ちょうど、小晴が陽介が買ってくれたアイスココアをちびちびちと飲んでいたところだった。
「こっちこっち」
陽介の呼びかけで、周囲を見回していた朱音と目が合う。朱音の肩には、小晴のバックと朱音自身の二つを抱えていた。
「ごめんね、ありがと」
「いいの。この後飲み行っても楽しめる気しないから」
陽介と話す朱音は、声のトーンも表情もいつもより淡々としていた。どことなく固い朱音の雰囲気は、怒っている、そんな空気を滲ませていた。陽介に向いていた朱音の視線が、ふいに小晴へ注がれる。
「こは、大丈夫?」
ココアを飲んでいた手が止まった。その言葉に、小晴の中で張っていた緊張の糸がほんの少しだけ緩む。
「もしかして、泣いた?」
小晴の顔を視界にいれた途端、怒っている雰囲気がふっと消えて、朱音の顔が心配でいっぱいになる。
「ごめんね、朱音ちゃん」
余計な心配ばかりかけて、守ってもらってばかりの自分の不甲斐なさに申し訳ない気持ちが溢れた。
「なに謝ってんの? あんなのあの二人が悪いに決まってんじゃん。こはが謝る必要どこにもないからね」
やっぱり朱音は怒っていたようだ。自分のことみたいに怒ってくれる朱音に、小晴はちょっとだけ泣きそうになってへにゃりと笑った。
「ありがとう」
今度は、素直に朱音への感謝が出た。
「……、ほんとこはってズルいんだから」
目を丸くした朱音は、毒気を抜かれたように笑った。
「逃げてるわけじゃないんだから、こはのペースでいいんだよ」
朱音に全部を話したわけでもないのに、焦って答えを出さなくていいと、ズルい小晴を肯定してくれる。そんな朱音に小晴は持っていたアイスココアの缶をきゅっと両手で握りしめて「うん」と、小さく頷いた。
*
小晴と朱音が抜けたあとのサークルは、表面上何事もなく無事に終わった。この後の飲み会を開く声が全体にかかり、まだ教室内はざわざわとざわついている。当然、陽介も怜央も誘われた。サークル内は、すでに行く人行かない人に分かれ始めていて、この場のお開きムードが空気中に漂っている。
―拓也さんたち来るかな。
―悠真さん来ないなら行かなくていいかなあ。
ちらほらと、ところどころで聞こえる二人の名前は、相変わらず拓也と悠真のサークル内人気の高さを示している。
(ほんと、よくこの中で小晴にいけたな。あいつら)
怜央は内心で、独り言をつぶやいた。
「陽はどうすんの?」
教室を出て行ったあと一人戻ってきてから、なにごともなかったかのような態度で過ごしている陽介に、怜央は聞いてみた。陽介の答えは、聞く前からなんとなく分かっている。
「行かないよ。てか、このあとちょっと用あるし」
「ふーん。俺も行ってもいい?」
「え、なんで?」
怜央の言葉に、陽介の目が丸くなった。
「どうせ、呼び出したんだろ」
誰と怜央は言わなかったが、陽介にはそれだけで通じた。
「……、怜央ってなんでもお見通しだね」
陽介が困ったように笑った。
「そりゃ、わかりますよ。お前の思考パターンは」
なんで分からないと思ってんだか――、そんな視線を向けて、玲央は鼻を鳴らした。
「怖いなあ。それ」
「あっそ」
怜央の視線に、陽介はどこか観念した顔になった。ぶっきらぼうな言い方の中に、怜央なりの気遣いと優しさがあることを、陽介はもう何年も前から知っていた。
*
一度、解散となったサークルの波から抜け出した陽介と怜央は、西日が差し込むテラスに腰を落ち着かせていた。夕暮れの時間帯が遅くなりつつある7月上旬は、18時半を過ぎた今も、ほとんど青を残した空をしている。遠くのほうで微かに朱色が滲んでいた。
「よお」
特に談笑するでもなく思い思い過ごしていた二人のところに一つの影が伸び、声がかかった。
「いきなり呼び出すとか、もしかして俺告白される?」
いつものおちゃらけた悠真の軽口に、陽介は一瞥だけして何も言わなかった。そんな陽介に悠真は肩を竦め、同じテーブル席には着かず、隣の空いている席へ腰を下ろした。
「どうせ、あいつも呼んでるんだろ」
隣の席に座る悠真を追いかけるように動いた視線を、悠真は当然のように受け取りながら陽介に尋ねる。さっきよりも平坦で、取り繕っていない声音だった。「うん」と、陽介は素直にうなずいた。
「説教されんの? 俺ら」
悠真が鼻で笑う。口元に浮かんだ笑みは、腹立たしいほど小馬鹿にしていた。
「さあ、知らない」
陽介は、取り合う様子を一切見せずに顔を逸らした。いつもの朗らかさがない陽介の瞳は、内に秘めた温度すら見せない隙のなさがある。怒っているのか呆れているのか、失望でもしたのか。誰にも今の陽介の真意を測ることはできそうになかった。そこへ、もう一つの陰が伸びる。
「悪い。遅くなった」
拓也だった。拓也は、さらっと全員を見渡した後、隣の悠真と同じ席に着いた。拓也が悠真の斜め向かいの席に座るのを、陽介は黙って見ていた。
「話って何?」
陽介と目を合わせた拓也が、席についてすぐに本題を切り出した。その間、悠真と拓也はお互い一度も目すら合わさなかった。まるでお互いを無いものとしているかのような空気を纏っている。
「もしあの子に関してだったら、陽に説教される覚え、流石にないと思うんだけど」
そして拓也からは明らかな敵意が陽介に発せられていた。笑えない沈黙が落ちる。
「二人とも流石にさあ。いい加減にしろって」
今まで黙っていた怜央もつい口を挟んでしまった。
「は?」
場を震わせる低くて重たい威圧的な声が落とされた。ビクッと揺れた怜央の視線が、声を発した者へ向けられる。
(うわ、やば)
たった一言で、空気が明らかに変わったのを怜央は肌で感じた。背筋がじわりと汗ばむ。
「そりゃ流石にタイミングが良くなかったのは認めるけど、お前ら小晴のなに? ただの友だちが、俺らのことに口出す権利なくね?」
冗談もふざけた空気も取っ払って不機嫌さをあらわにした悠真が、鋭い目つきで怜央と陽介を射貫く。
「それとも、陽介は彼氏のつもりだった?」
嘲笑うかのごとく、拓也が冷ややかな笑みを浮かべて、陽介に向けて言葉を続けた。
「あのさ」
やっとだんまりを決め込んでいた陽介が口を開いた。
「僕だって二人のことに口出すつもりなんかハナからなかったよ。今まである? 僕が口出したこと」
陽介の声は淡々としていて、この場の誰にも内の感情を見せないことを徹底しているようだった。一様にして口をつぐんだ悠真と拓也を見て、陽介はあからさまに溜息を吐いた。そして、誰も何も言わないから仕方なくといった様子で口を開く。
「今日のはないから。正確には昨日からだけど。ほんとにありえないと思う」
言い切った陽介の瞳に、強い光が宿る。今までひた隠しにしてきた感情が、やっと表に出たタイミングだった。
「で?」
陽介が支配したと思われた空気を切り裂くように発せられた短く、挑発的な返し。
「悠真、いい加減に――」
「いや、玲央が黙りなって」
咄嗟に出た怜央の反論が、拓也の冷たい言葉にかき消された。一瞬だけ向けられた鋭い視線に、硬直してしまった自分が情けなかった。場の調整役になればと思って付いてきたはずが、なんの役にも立てていないどころか、さらに状況を悪化させてしまっている原因を作っていることに、罪悪感すら覚えた。
「陽介はさ、なんでそんなにイラついてるわけ? 俺らにそこまで怒る意味ってなに?」
陽介ひとりに絶対に浴びたくない鋭利な圧が注がれている。第三者の立場であっても、胸が圧迫されるような心地だ。何をそんなに必死になっているのかと思うほど、二人は陽介に対して手厳しい視線を向ける。
まるで拓也たちは、陽介の中に隠されたナニカを暴こうとでもしているかの様だった。
しかし結局、この場で一番動揺したのはきっと怜央だった。だが、場には部外者が口を挟むことを許されない空気がすでに整ってしまっている。玲央は為す術もなく事の成り行きを固唾を飲んで見守るしかなかった。時たま不安げに陽介の横顔をちらちらと確認してしまう。そんな玲央の心配をよそに、陽介から一切の動揺を見せない静かな声が発せられた。
「はるちゃんは、あの子と違うから」
ピシっと空気が固まった。
「ぜんぜん似てないからね」
静かな怒りが、陽介の瞳にメラメラと燃えている。口調は穏やかでも、それは二人の過去への否定だった。
「二人は、はるちゃんのこと泣かせたいの?」
問いかけられた静かな言葉に誰も、すぐには答えられなかった。陽介の怒りだけだった声が、どこか沈痛な色を持つ。ぽつりと漏れた言葉は、きっと陽介の言いたいことの全てだった。そんな陽介の様子を黙って見ていた怜央は、いつかした陽介との会話を思い出していた。
『はるちゃんのこと泣かせたら、たぶん僕は、悠真くんもたっくんも許せないと思う』
少し苦しそうに、あの日の陽介は笑っていた。
(そっか。小晴、泣いたのか…)
陽介に連れられて教室を出ていった小晴を思い出す。陽介がここまで怒る理由も、怜央が似ていると言ったとき似ていないと怒ったくせにあの女と小晴を重ねてしまっている理由も、全て合点がいって、怜央は少しだけ呼吸を取り戻せた。
(だけどさあ、本質ぐさっと行くじゃん。いつものオブラートどっかいってんじゃん)
こういう時の容赦のない陽介の背中に、怜央は若干呆れた視線を投げる。長い沈黙のあと、悠真の舌打ちが場に響いた。拓也は何も言わないが、恐ろしく怖い顔をしている。
「小晴、泣いたのかよ」
陽介は悠真の問いかけに肯定も否定もしない。ただ二人をまっすぐ見つめている。拓也が、「はあ」と溜息を吐いた。気まずそうに視線を一度泳がせて、陽介と怜央を見る。
「悪い。変な役回りさせて」
潔く下げられた頭。
「俺も悪かった。さっきは、助かった」
悠真からもぶっきらぼうながら、謝罪と感謝の言葉が零れた。
「ほんとだよ!」
玲央の破裂しそうなほど盛大なツッコミが入る。空気が、少し戻った。陽介の表情からも少しだけ強張りが取れて、怜央はホッと安堵した。
「小晴ちゃんは、大丈夫?」
「朱音ちゃんに任せた」
拓也の言葉に、陽介が短く答える。陽介の答えに、悠真と拓也がそれぞれ肩から力が抜けたようにその場で脱力した。「違うってわかってたはずなんだけどなあ。比べてたのか、俺」と、呟いてまたため息を吐く拓也と「あんな昔の話、よく覚えてんな。お前ら」と、苦虫を噛み潰した顔をする悠真。二人のあまりに無責任な言い方に、陽介と玲央の顔が歪んだ。
「そりゃ覚えてるでしょ。忘れるわけないよ。ほんとに最悪だったからね、あの時」
「よく覚えてんなって、あれが最初で最後の女で揉めた事件じゃん。まあ、最後じゃなくなってるけど」
蔑んだ目で二人を見る陽介と、皮肉たっぷりで言い返す怜央に悠真と拓也は顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。
「揉めてねえけどな、本当はあれ」
「そうそう。噂はそうなってたけど」
二人の顔は、まるで嫌なことでも思い出したかのようだった。驚いたのは、陽介と怜央だ。「え?」と、二人の声が重なる。
「あれは、そもそも。こいつが俺が引き当てたパックマンチョコのレアシールを無くしたのがキッカケつうか」
「は? お前が俺の教科書勝手に借りパクしたからだろ?」
「んなこと言ったら」と二人が突然、陽介たちの前で小競り合いを始める。
「え。ちょっと待って待って。そのどうでも良い喧嘩はまじどうでもいいんだけど。え、なに。あれあの人原因じゃないわけ?」
そこに待ったをかけたのは怜央だった。ここにきて、衝撃の事実が明かされようとしている。
「ないないない」
拓也はものすごく嫌そうな顔で、三度も否定の言葉を口にする。
「あるわけねえよ。あんな性悪女。俺たちのこと噂で悪者に仕立て上げやがって」
悠真も同様、思い出したくもないと言わんばかりの表情だ。
「あいつは、俺らの間で取り合われてるモテモテな自分に酔ってただけな。まじで思い出すだけで鳥肌」
三度も否定したのに、さらに拓也が否定を重ねるあたり、当時も相当嫌だったのがわかる。
「まあ、勘違いするわな。あのタイミングだし」
「説明しなかったのは、悪かったよ。そこまで引きずってるとか、知らなかった」
悠真と拓也は、少しだけ申し訳なさそうな顔で陽介と怜央を見た。
「っ、なんだ。バカじゃん僕。え、はず。え、ふたりとも嫌い!」
さっきまでの沈痛な面持ちはどこへ行ったのか、テンパる陽介の耳が仄かに赤い。そんな陽介を横目に見ながら、怜央は冷静な顔つきに戻って「だからって、陽が傷ついたことには変わらないじゃん」と言った。
しょうもない喧嘩、しょうもない噂、説明不足による誤解。そうだったとしても、あの頃の陽介は二人の噂を、女の嘘を知って傷ついた。誤解だったとしてもなにも知らない巻き込まれた第三者が傷ついた事実は変わらない。当時のあれは、人の善性を心底信じていた陽介にとっては、痛すぎる記憶だ。
「ま。誤解が解けたならよかったでよくね? 何言われても小晴のことは別に諦めるつもりもないし」
再び落ちた沈黙を、調子を取り戻した悠真が破る。そんな悠真を拓也が横目で軽く睨んだ。
「悪いけど。俺も引かない」
こちらもこちらで、一時休戦していた小晴争奪戦を再開したらしい。
(知ってたー)
ある意味反省をしない。いや、反省をした上で開き直る二人に、玲央は心内だけでツッコミを入れる。目は一瞬遠くを見つめた。陽介も何も言えずに苦笑いを浮かべている。
「ただ。明日からはちゃんと考えるよ」
「ああ、もうヘマはしないから安心しろ」
どこから湧いてくる自信なのか、無駄に安心させようとしてくる顔に腹が立つ。
「はいはい。もう好きにしてください。僕はもう口出ししません!」
陽介も同じ気持ちになったのか、呼び出した側のくせにすでに言い方が投げやりだ。
(ほんとお前らって、女の趣味、微妙に被ってるよなあ。ほんと微妙に)
二人は、一個上の拓也と悠真の同級生だったあの女を「性悪女」と言い放ったけれど、外見とか雰囲気が二人の好みだったことは知っているし、陽介にとって密かに憧れていた相手だったことも――。それだけは、怜央だけが知っている。
ざわりとテラスに風が吹き、全員の髪を撫でるように去っていく。緩やかな沈黙が、夏の夕暮れにちょうど良かった。すでに空は、青色を飲み込み一面を朱色に染めていた。




