第23話 俺だけ見てろ
「息しづら。死ぬかと思った」
怜央がぶはあと、倒れこむように椅子の背もたれに寄り掛かった。天井を仰ぎ見る姿は疲労困憊といった様子だ。
「はるちゃん大丈夫かな〜」
怜央から見て真向いに座る陽介が、心配そうに呟く。
「そう思うんなら、今からでも追いかけて来いって」
「出来るわけないじゃん。たっくん珍しくマジギレしてたもん」
怜央の無理難題を陽介は、呆れた顔で一刀両断する。その顔は「分かってるくせに」と言外に伝えているが、怜央は素知らぬふりをした。
「ま、こはのことだし。たぶん無事に帰ってくるでしょ」
朱音はついさっき買ってきた飲むものに手を伸ばしながら、楽観にもそう言った。
「急な自信。根拠でもあるわけ?」
怜央は少々胡乱気な目で朱音を見た。紙パックにストローを刺していた朱音は、まるで「わかってないな~」と言いたげに軽く眉を上げる。
「だって、こはって普通に見えてちょっと変だもん」
「あ、それわかる」
間もあけず、陽介が朱音の発言に頷いた。
「うわ、心理組こわ〜」
なぜか今の短い言葉だけで通じ合っている二人に、怜央は若干引いた表情を浮かべる。
「バカ玲央。そういうんじゃないって」
心理学部あるあるの弄りに、朱音の眼光が鋭く光る。それからスパっと表情を切り替えて、朱音は言葉足らずな状態に補足するように続けて口を開いた。
「なんて言うかさ、とにかくあの子変なの。たまにズバッと核心的なこと言うのに、自分のことになるとよくわかってないこと多すぎるって言うか」
斜め下を見ながら朱音は、チューっと紙パックのジュースを飲んだ。
「はるちゃんって、人の顔よく見てるよね。空気読むのも抜群にうまいし」
相槌を打った陽介は、袋の中から取り出したお菓子をちょうどテーブルの上に広げているところだ。
「あー、よく気付くよな。小晴って」
やっと怜央が、朱音と陽介の意見に頷いた。ちなみにコンビニで怜央が選んだ甘いチョコレートも、陽介によってテーブルの上に並べられている。若干元気がない小晴にと思って選んだけれど、このままだと小晴が食べる前になくなる気がした。
「そ~。良いところなんだけどね。なんかそのせいで、最初から自分のことパーツの一部みたいに思ってそうっていうか。はなから注目されるとか、誰かの特別になれるって考えがなさそうなんだよね。こはって」
「はるちゃん自身はそんな風に言わないけどね」
陽介は、表情の中に微かに困った色を滲ませて笑った。
「たしかに小晴って、自分の意見言ってそうで、あんま言ってないんだよな。なんつーか、潤滑油コメント的な?」
「なにそれ。ワードセンスえぐ」
怜央の斜め上の造語に朱音がふはっと吹き出す。
「いや、俺いまのは結構真面目に言ったけど!」
「尚更やばいって」
朱音は、心外と顔にでかでかと書いた怜央をケラケラと笑った。
「でも、まあ。だからなのかなあって思ったりもするよ。なんでも「たまたま」とか「揶揄ってるだけ」って発想になるの。ま、本当のところは本人しかわかんないことだけど」
「まあね。結局のところ僕らがあーだこーだ言ったところで本当はわかんないからね」
「うん。で、小晴の人間性については、おさらい出来ちゃったけどさ。それが無事に帰ってくる根拠とどう結びつくわけ?」
テーブルに広げられたお菓子を摘まみながら、怜央が話を戻した。一瞬しんみりと落ち着いた空気がぴしゃりと消える。
「根拠っていうか。こはって、壁がものすっごい分厚いじゃん。しかも意外と頑固だし、自分で決めた線以上は誰であっても越えさせないと思うんだよね。だから、まあ、平気かなって」
「ふーん?」
朱音の説明に対して納得してはいなさそうな曖昧な返事で怜央は返す。
「拓也さんも悠真さんもあの感じ、なんか割とマジな方のガチじゃん? あれはこはのOK出なかったらなんだかんだ、無理な気がしちゃったんだよね〜。ま、直観ってやつ?」
と、怜央の反応は特に気にしていない様子で朱音が笑った。根拠という根拠はない、と断言されているような、そんな清々しさを放っている。
「ああ〜…。確かに」
でも、怜央には刺さったらしかった。
「拓也も悠真も人との距離の測り方くっそ上手いからな。だから妙に焦ってんのかもな」
どこか腑に落ちたような顔をした怜央は、謎解きでもしたような顔つきだ。
「お! よ! 名探偵!」
朱音は、すかざす合いの手をいれた。入れざるを得なかったと言ってもいい。
「茶化すな。つうか、お前は? 大丈夫なの?」
「え、私? なにが?」
突然、朱音自身の話題に転換され、朱音は目を丸くした。
「上手く言えないけど、ほら。女子特有の嫉妬的な?」
「玲央、ほんと言い方」
陽介が割とまじな方の目で怜央を睨んだ。
「あ、わり」
慌てて自分の失言に対して謝る。
「あっはは。超失礼。でも大丈夫。てかそんなこと気にしてたんだ。いや、まあ。そうか。そうね、確かにフツー気になるか」
途中から一人で納得したように、朱音は呟いた。それから怜央たちの心配を吹き飛ばすような顔で、あっけらかんと言ってのける。
「ぶっちゃけ、あるっちゃあるけどないっちゃない。私、彼氏いるし」
「は!? 聞いてない!」
驚いたのは、怜央と陽介だ。朱音の彼氏いる宣言に、目を丸くする。
「いや、言ってないし。そりゃ同じ女の立場から言わせれもらえば、あんなの一回は経験してみたいくらいおもしろ設定組み込まれちゃってるけどさ。でも、あれよ? これって、こはだからまだ成り立ってるだけじゃん? もし私だったら、早い段階で噂回って、うちのサークル地獄になってると思うわ」
「あー…」
リアルに想像できて、擁護ができない。
「ちょ。そこは嘘でも否定するところだから!」
朱音は黙った二人にすかざずツッコミを入れた。
「あ、ごめん」
「ごめん」
「よし」
二人の素直な謝罪からの朱音の許しというコントのような綺麗な流れが決まった。
「はたから見たらさ、チヤホヤされて羨ましいってなる気持ちもよくわかるんだけど。んーでも。実際、今わたしらいなかったら流石に地獄絵図でしょ。だから今のところ大丈夫かな〜、心配ご無用ってやつ?」
けろりとした朱音の顔は、一瞬の強がりも嫉妬も滲んではいなかった。むしろ地獄に落ちるか否かの綱渡り状態の小晴を心配しているようだ。
「うん。わかった。お前はとりあえず、小晴のいざこざ落ち着くまで絶対彼氏と別れんな」
「いや、元から別れるつもりないわ!」
最初のどんより空気はどこへやら、いつの間にか3人のテーブルをいつも通りのわちゃわちゃした空気が包んでいた。
「てかその彼氏、ちゃんと朱音の良さわかってんの?」
「え~。わかってくれてる…と思いたいけど、時々不安になることはあるよね〜」
「その言い方だとわかってなさそうに聞こえるからやめなって。彼氏かわいそうだよ」
「あーはいはい、はいお説教タ〜イム」
お菓子を囲んだ小さなパーティーは、朱音の彼氏という新情報で大いに盛り上がりを見せた、そんな午後だった。
*
「悠真に歌ってもらったの? 俺が教えた曲」
誰もいない空き教室の長机に並んで座る二つの影。教室の奥側に座る小晴は、拓也に見つめられながら、瞳の奥を揺らした。
「小晴ちゃんが歌ってほしいってお願いしたの?」
「ち、違います! たまたま、偶然で」
「そうなんだ。たまたまね」
信じてもらえていないことは、空気で分かった。
「どうだった? 悠真とのデート。楽しかったんでしょ」
拓也の言葉が小晴の罪悪感をざらり撫でる。
「俺とのデートとどっちが楽しかった?」
嫌な聞き方。息が詰まる。怖い。けど、自分が原因なのだから、こんな感情はおかしい。
「悠真にどこまで許したの?」
「っ…」
びくりと小晴の肩が揺れた。
「キスでもさせた? それとも…――」
「してない、してないです! 本当に、なんにもないです!」
拓也の口から続きの言葉を聞きたくなくて、小晴は慌てて否定した。
「へ~…。でも小晴ちゃん、俺とのデートのとき誕生日前日だったのになんにも言ってくれてなかったよね。悠真には教えたんでしょ?」
「そ、れは。その、私の誕生日なんてどうでもいいかなって思って…、悠真さんには出かけた日に聞かれたので、流れで…」
「どうでもいいなんて思うわけないじゃん。俺の気持ち、伝わってないの?」
机に置いていたスマホがブーブーっと揺れた。長い振動。きっと電話だ。出るかどうか、着信相手だけでも確認しようかと小晴の視線が泳ぐ。
「今は俺だけ見ててよ」
迷った視線を引き戻された。心臓は、どくんと跳ねて顔に熱が溜まる。さっきとは全く異なる理由で、息が詰まって呼吸ができない。傍らで小晴のスマホは鳴り続けているのに、もう小晴は電話に出るという選択肢をとれなかった。着信を知らせるブザー音以外、一切の物音がない無言の空間。目を逸らすことを許されない時間は、実際どれくらいだったのだろうか。
鳴り続いていた電話が静かになった。
「ねえ」
拓也の手が小晴へ伸びる。指先が頬に触れて、するりと輪郭をなぞった。その優しい手つきのまま、拓也の指が小晴の下唇をたどる。
「キス、していい?」
突然のお願いに肩が揺れた。でも、熱の帯びた瞳から目を逸らせない。まるで魔法にかけられているかのように、時間が止まった。微動だにしない小晴に、拓也はゆるりと口角を上げて微かに笑う。
「黙ってたら本当にするけど、…――いいの?」
その言い方がズルくて、心臓がぎゅうっと掴まれてしまう。拓也の顔が近づく。抵抗も出来ない小晴は、反射的に両目をぎゅっと瞑った。近距離で止まる気配。いつされてしまうんだろうと胸が張り裂けそうになっていた。
けれど、いつまで経っても予想していた瞬間は訪れることはなかった。
「やっぱやめとくわ」
すんなりと離れた距離に、恐る恐る閉じた目を開く。明るくなった視界の先には、困った顔で笑う拓也がいた。
「小晴ちゃんが俺だけ見てくれたときにする」
その顔は、どこか戸惑っているような、切ないような、色んな感情をごちゃまぜにしたような困った顔だった。小晴は、どんな顔でその顔を見つめたらいいか分からなくて、少し眉を八の字に下げた。
「してほしそうな顔しちゃダメでしょ。ちゃんとその時になったら、ヤダって言ってもするから、俺だけ見てて」
普段の温厚で優しげな風体の中に時々見え隠れする意地悪な拓也が、今日はよりハッキリと見えて小晴の体温が一気に上昇する。目の奥で火花が散るような錯覚がした。頭が沸騰して、視界の端がじわっと白んでいく。
冷水が頭上から落ちてきたのは、そんなタイミングだった。
「俺だけ見てろって、どーいう意味ですかー?」
口元に軽薄な笑みを浮かべた、目だけ全く笑ってない悠真が、教室の入り口にもたれかかる。
上がった体温が、急速冷凍のように一気に下がるのを感じた。




