第19話 ふりほどけない手
やっと気持ちが落ち着いた小晴は、お手洗いの個室を出る勇気が湧いた。カラオケボックスの個室前に辿り着いて、深呼吸をひとつ。扉にかけた手は若干震える。
(大丈夫、大丈夫。平常心、平常心)
気持ちを整えて、個室の扉を開ける。
♫~。
明るくリズミカルな音が小晴の耳に届く。ちょうど歌い終わるタイミングだったみたいだ。
(なに歌ってたんだろう)
「おー、おかえり」
歌い終わった悠真が、小晴に気が付いて扉の方に顔を向ける。
「すみません、遅くなっちゃって」
「別に平気」
さっきのことがなかったかのような空気にホッとする。
「次、小晴歌う?」
「あ、じゃあ。何にしよう」
マイクを受け取り、ちょっと悩んでから曲を検索する。予約。
画面に大きく映し出された曲のタイトル。優しくて綺麗なメロディーがスピーカーを通して部屋を包む。歌詞に込められた、“今ここにいる自分”を包むような言葉が小晴は好きだった。
歌いながら、気付けば胸の奥がじんわりと温かくなる。まるで、歌詞のひとつひとつが自分に返ってくるみたいだった。歌い終わっても、悠真は何も言わなかった。
小晴が歌ってる最中もただ飲み物を飲みながら、ぼんやりと画面を見ていた。テレビ画面はササっと次の曲へと切り替わる。同時に、スピーカーから音楽が流れ始めた。悠真らしさ全開のアップテンポな曲ではなく、ゆったりとした曲が流れ始める。出だしから、悠真の甘く低い声が耳を打つ。甘く切ない、けれど切実なラブソング。
ヒーローにも魔法使いにもなれないけれど、大切にしたいと歌う曲に、なんだかドキドキして、苦しくなって、息を止めて聴いていた。
最後の一音が消えたとき、部屋に静寂が落ちる。一瞬の沈黙だったのに、確かに小晴の中に何かがしみ込んだ時間だった。
そして、言葉を発する間もなく、小石が水面に落ちたような音が波紋となって部屋全体に広がった。一発目の発せられた声に鳥肌が立った。さっきとは打って変わって、今度は勢いのあるアップテンポな曲だ。悠真の歌う曲の振れ幅の大きさに、やっぱり小晴は動揺してしまう。言葉の意味を追いかける間もなく、音の波が押し寄せる。体が音を刻みたくなるような軽快なドラムのリズムと芯に響く重低音がクセになりそうだった。悠真にぴったりなお洒落なサウンドとグルーブ感に心が痺れた。
♫~
曲の途中、一瞬静かになったところから突然落とされる音のカッコよさが、悠真の周りをキラキラと輝かせる。
こんなの反則。圧倒されないわけがない。
音が鳴り終わったあとも、小晴はなにも言えない。
難しい楽曲をこうも簡単に歌い上げるなんて、尊敬という言葉を使っても遜色ない。小晴は今日このカラオケで、自分の隣にいる男の計り知れなさを実感するだけに終わるのではないだろうか。
「はい、次小晴ね」
呆然とした状態で固まっていた小晴に、歌い上げた悠真がにやりと笑った。
「うますぎますね、悠真さん」
ぽろっと、小晴の口から言葉が漏れる。
「なに、惚れた?」
「違います、褒めたんです!」
「そこは惚れとけよ」
「歌いますっ!」
いつもの軽口。いつもの悠真。ちょっとだけ安心している自分。小晴は『夜明けと蛍』を選んで、次の曲に予約した。すぐに大きなテレビ画面に次曲が表示されて、部屋にドラムの重低音が効いたスローテンポな音楽が流れ始める。ちょっと難しかったかなあ、なんて思いながら歌い終えた。
空気に乗せられて入れてしまったけど、選曲ミスだったかも、なんて。
「悠真さんのあとはやっぱ難易度爆上がりですよ。これ」
あはは、と小晴はマイクを置いて笑った。
「小晴が一生懸命歌ってくれるだけで、俺は嬉しい」
やっぱり笑わない悠真がそこにいる。どう受け止めたらいいか分からず、小晴は真っすぐ向けられた視線から逃げるように顔を正面に戻した。氷が溶けはじめた色も味も薄くなったココアに口をつける。
(薄…)
それでも舌に残るココアの独特の甘ったるさ。
「もうすぐ時間だな」
気が付けば、カラオケもだいぶ終盤。
「小晴、ほかに歌いたい歌とかある?」
フルフルっと、首を横に振る。
「んじゃ、最後2曲くらい俺が歌って締めるか~」
デンモクを自分の前に移動させた悠真が、「何歌おうかな~」なんて言いながら曲を選び始める。
(そっか、もうそんな時間なんだ)
あっという間過ぎて、そんなに時間が経った記憶がない。1時間半が長いような短いような、感情がジェットコースターに乗せられたみたいな慌ただしい時間だった。
「じゃ。歌いまーす」
選び終えたらしい悠真がふざけた調子で、マイクを通して宣言。そのまま立ち上がって、軽くマイクを握りなおす。何気ない動作なのになぜかドキッとした。
でも雰囲気はいつも通りで、悠真はふざけているんだと小晴は笑う。終わりと分かって生まれた余裕。そんなものがまたすぐに吹っ飛んでいくなんて、予想してなかった。
♫~
最後の二曲に選んだうちの一つ目の曲。
静かで心地よいメロディーが流れ出す。マイクを握る悠真が、普段と違った顔をしているように見えた。
優しくて穏やかで――、飄々とした態度の裏側にこんなにも柔らかくてあどけない繊細なところを隠しているのかと、考えてしまった。
なんでこれにしたんだろう、と選んだ理由でもあるんじゃないかと、意味を考えそうになる。
音のひとつひとつが、まるでキラキラと輝く光の粒ようだ。言葉にならない溢れた「好き」が、重なって重ねられて――。
まるで、誰かに向けたラブレターのようだった。曲自体は何度も聞いたことがあったのに、この日この時間に聴いたこの曲を忘れることはできないだろうと、小晴はそう思った。
ラストの曲も知っている曲だった。柔らかな声で歌い上げたさっきとは違い、力強いながらも切ないメロディーが鼓膜を震わせた。どこか不器用で、でもどうしようもなく真っすぐな言葉は、器用な悠真とは噛み合っていないように思えるのに、なぜか重なって見えた。
歌い終えた悠真の背中を見ながら、小晴は自分に戸惑っていた。どうしてこんなに心が打たれてしまうのか、自分でもよくわからなかったから。
カラオケを出て、悠真と小晴の二人は通りに出る。ずっと室内にいたからか、夜風が心地よい。頬の熱も一緒に攫って行ってくれるみたいで、今の小晴には有難かった。
「結構歌ったな。小晴と二人だけでこんな時間まで一緒にいるの、なんか新鮮」
通りにはまだ人がいて、ガヤガヤした音と煌びやかな光で溢れている。隣に立つ悠真は、夜の空気に気後れしてる様子もなく、ばっちり溶け込んでいる。
「わたしもなんかソワソワしちゃいます」
「かわい」
甘ったるい目で見られて、小晴は慌てて目を逸らした。さっきの衝撃とあいまって心臓がドキドキとよく動く。駅までの道を二人でただ歩いているだけなのに、動悸が可笑しい。
「あ、かわいいといえばさ、小晴って声もかわいいね。歌ってるのみて、ちょっとドキッとしちゃったんだけど」
変わらずの軽口調子。悠真の態度は依然として同じだ。でも、前よりも上手く流しきれてない自分がいることに戸惑ってしまう。
「…、は恥ずかしいので、いいです。そういうの。悠真さんこそ歌うますぎですよ。わたしが歌うの、申し訳なくなるくらいでした」
どうにか、自分自身を普通の調子に戻すべく葛藤しながら言葉を続ける。
「なに? 小晴も俺の声でドキドキしてくれたの?」
「なっ…!またー、揶揄いすぎですよ」
小晴の顔は真っ赤だ。あはは、とわざとらしく笑ってみた。本気にしてない。揶揄われてるだけ。大丈夫。呪文のように、お守りのように、内側で何度も自分に言い聞かせる。
「むしろこの感じで揶揄ってるって思えるお前がすごい」
小晴は自分の感情に忙しくて、ぼそっと吐かれた悠真の声が聞こえなかった。
「え? なんて?」
慌てて、小晴は聞き返した。
「んー。なんでも」
ちらりと一瞬見た悠真はすぐに視線を前方に向ける。無言の時間がなんだか怖くて、小晴は必死で話題を考えた。
「あ!」
と声が出る。
「さっき悠真さんが歌ってた『愛とか恋とか』って曲。あれ、なんか悠真さんっぽくなくて、ちょっと新鮮というか…―――。あ、やっぱ今のナシで」
言っていて、ミスったと思った。
そもそも小晴がこんなに悠真を意識するハメになった事の発端がその『愛とか恋とか』だったし、悠真じゃないほかの誰かで思い浮かんだ相手が“拓也”なのも、今の状況としてとてもナンセンスな話題選びだ。
顔が赤いの青いのか、分からない状態で慌てて取り消す。口に出したが最後、絶対に取り消しなんか出来ないのは分かりつつもスルーしてくれること祈った。テンパりすぎていたとはいえ、間違った話題選びの代償は相当でかい。
「そう? てか、誰っぽいって思ったの?」
「へ?」
冷や汗がだらだらと流れる。悠真の瞳が犯人を追い詰める刑事のように鋭く光って見えて、余計小晴の動揺は顔に出た。
「もしかしてさ、拓也だったりして?」
分かりやすく息をのんでしまう。
なんで相手が拓也だとバレたのかは分からない。でも、バレてはいけなかったことは小晴にだってわかる。
「あ、その。た、拓也さんが前にLIMEで言ってたから。カラオケで歌うなら、その曲かなって」
「へ~」
事態の収束をしようとして、余計地雷を踏んでいる。絶対零度な声音に、小晴の背筋が凍った。
「小晴ってさ」
少し近づいた距離。肩が悠真の身体にあたる。
「俺と2人でいるのに、他の男の顔思い出しちゃうとか。案外余裕なの?」
「よ、余裕?」
オウム返ししか出来ない自分のどこが余裕なのか、小晴には分からない。むしろ余裕がなさすぎて、こうなっている。
「んー…。俺だけしか考えられなくしてやりたいなあーって話?」
近い距離と、有無を言わせないオーラ。瞬時に顔に熱が溜まる。でも、この熱の理由を説明なんかできない。
「なに、そんなに顔真っ赤にして……俺のこと、ちょっとは意識してくれてんの?」
ちらっとこちらを見た悠真が笑う。目はあまり笑っていないけど。
「ち、ちがいますっ! 意識とか、そういうんじゃ…っ」
小晴は慌てて否定した。
気づかれたくない。このもやもやしていて有耶無耶な気持ちを知られたら、つけ込まれそうで怖い。
「ふーん。じゃあ、そういうのは、いつから始まるんだろうな」
ぼそりと呟いた声は、ほとんど感情が乗っていなかった。少しの嘲りが入っていたくらいだろうか。小晴の脳内では、すでにけたたましいサイレンが鳴り響いている。これを回避するには、とにかく笑って誤魔化すしかない。
「じょ冗談ばっかり、よくないですよ」
引き攣りぎみな顔で、どうにか笑顔を作る努力だけはする。
「冗談? んなわけないじゃん。つか、小晴だって本当はわかってんだろ?」
言葉にされて、息が詰まる。
「知らないふりしてるだけでしょ。怖い? 俺のこと好きになりそうで」
今まで冗談で逃げられていたのは、明言されなかったから。改めてそのことに気づかされて、小晴は顔を逸らした。
心臓が痛い。バクバクと脈打つ鼓動に殺されてしまいそうだ。黙ってしまった小晴を一瞥した悠真は、小晴の空いている右手に自分の左手をそっと伸ばした。
軽く触れたお互いの手の甲。悠真の指先が確かめるように小晴に触れて、絡んで、手のひらを包む。びくっと小晴の肩が震えた。
顔は真っ赤だけど、何も言えない。抵抗も出来ない。いや、していないのかもしれない。
「なあ。今はさすがに俺のことで頭いっぱいにしてくれてる?」
悠真は小晴の顔見て満足げに笑んだ。その後の道は、ただただ無言で駅まで歩く時間だった。手から伝わる悠真の温度だけで、小晴のキャパシティはいっぱいになっていて、他のことを考える余裕なんか一ミリもない。
なぜ悠真は手を繋いだのか。
なぜ手を振りほどけないのか。
なぜドキドキしてしまっているのか。
なぜ…――。
頭の中をなぜが埋めつくしていく感覚。気が付けば、もう目の前は駅。改札前だった。
改札前で悠真は、小晴の正面に立った。小晴の顔を見て、繋いでた手を離そうとして、もう一度繋ぎ直す。
「帰したくないって、言ったらどうする?」
ビックリして、目が丸くなった。夜の明かりを吸収して、小晴の瞳の真ん中に宝石のような光が閉じ込められる。
「うそ。気をつけて帰れよ。家着いたら連絡して」
余裕たっぷりの顔で、悠真は笑う。小晴は悠真から目を離せなくて、何も言えずにただじっと見つめた。悠真も小晴の瞳を見返して、すっと瞳を細める。どこか熱を孕んでいて、危険な目をしていた。ふいに悠真の顔が近づいた。キスをされそうなほどギリギリで止められる。
「んな顔してると、まじで帰さねーぞ?」
笑っていない真剣な顔。
「っ…」
やっと我に返った。小晴の顔にまた鮮明な赤が差す。
「帰ります! 今日、ありがとうございましたっ!」
悠真の手を振りほどいて、ぺこりと頭をさげた小晴は改札のほうへ今度こそ自分の足で向かう。
耳まで真っ赤に染まった小晴の背に、悠真は「おう。気をつけろよ~」と手を振って見送った。
*
家に着く。時間はもう夜中の十二時近くだった。
自分の部屋に入り、ベッドに凭れるように床に敷いたラグの上に腰を下ろす。どっと疲れが押し寄せてきた。
『知らないふりしてるだけでしょ? 怖い? 俺のこと好きになりそうで』
悠真の言葉が、ずっと頭の中で反芻している。
わたし、好きなのかな。
悠真さんのこと…。
その時、ぶぶっとスマホが震えた。画面には、LIMEの通知。悠真からだった。
〈ちゃんと帰れた?〉
意地悪で冗談なのか本気なのか分からなくなるのに、こういうところはいつも噓がなくて優しい。
――だから惑わされるのかもしれない。繋いだ手の感触が、まだ指先に残っている。
(ううう…、かっこよすぎて好きとか好きじゃないとか冷静な判断できないってば)
ずっと現実感がない。ずっと夢の中にいるみたい。
「返さないと…」
家についたら連絡する約束だった。
一旦、悶えそうになる心を制してLIMEを開く。悠真のメッセージの下に、見覚えのない通知がもう一つ。
【片倉拓也 新着3メッセージ】
その文字に、小晴の指が止まった。




