第5章「引き裂かれた絆」
宴の翌朝、太郎は早くから起き出して村を巡回していた。これは彼の日課だった。村人一人ひとりの顔を見て、困りごとを聞くことで、村全体の様子を把握するのだ。
「おはようございます、清兵衛殿」
太郎は畑仕事をしていた老人に声をかけた。清兵衛はいつもなら元気よく手を振り返すのだが、今日はどこか力なく頷くだけだった。
「どうかされましたか?」
「いや…ちょっと疲れが溜まっとるだけじゃ」老人は弱々しく笑った。
「昨夜の宴が盛り上がりすぎたのかもしれんな」
太郎は少し気になったが、それ以上は追求せず、巡回を続けた。しかし、次に訪れた家でも、普段は活発な子供たちが床に伏せていた。
「少し熱があるようで…」母親が心配そうに言った。
「宴で遅くまで起きていたからでしょうか」
三軒目、四軒目と回るうちに、太郎の胸に不安が広がっていった。村のあちこちで、体調を崩している者がいるのだ。
「気のせいかもしれないが…」
太郎は眉をひそめながら、長老の家へと向かった。今日は定例の村の評議会が開かれる日だ。
評議会には、いつもなら十五人の長老や有力者が集まるはずだったが、この日は三人が体調不良で欠席していた。
「変じゃな」長老が首をかしげた。
「皆、昨夜の宴で疲れたというが…」
「もしや食べ物に何か?」別の長老が不安そうに言った。
「いや、そうであればもっと別の症状が出るはずだ」医師の泰三が否定した。
「様子を見ましょう。明日には回復しているかもしれません」
評議会は通常通り進められたが、太郎の心には嫌な予感がこびりついていた。宴の余韻も手伝って、村人たちの気分は高揚していたはずなのに、どこか陰りがあるように感じられた。
評議会の後、太郎はおつるを見つけた。
「おつる、村の様子がおかしいと思わないか?」
おつるも心配そうに頷いた。
「はい、何人かが体調を崩しているようです。ただの疲れならいいのですが…」
「念のため、泰三に頼んで、明日までに村全体の健康状態を確認してもらおう」
二人は不安を抱えながらも、それ以上の動揺は見せなかった。まだ、単なる疲労や軽い風邪の可能性もあったからだ。
しかし、翌日の状況は一変していた。
「太郎殿!」泰三が息を切らせて太郎の家に飛び込んできた。
「大変です!」
「どうした?」
「村の十軒以上で、高熱を訴える者が出ています。皆、同じような症状です」
太郎は急いで外に出た。村の通りは普段より静かで、開いている店も少なかった。
「どのような症状だ?」
「高熱、激しい咳、そして…」泰三は声を潜めた。
「皮膚に青い斑点が現れている者もいます」
太郎の心臓が早鐘を打った。
「青い斑点?」
「はい。このような症状は見たことがありません」
太郎はすぐに長老の家に向かい、緊急会議を開くよう指示した。数時間後、村の中心広場に健康な村人たちが集まった。皆の顔には不安の色が濃く表れていた。
「村長様、これは一体…」
「疫病でございますか?」
心配の声が次々と上がる。太郎は落ち着いた態度を装いながら、村人たちに向き合った。
「皆さん、冷静になってください。現在、医師の泰三が症状の調査を進めています。まずは病人の看護と、健康な人々の予防が最優先です」
太郎は具体的な指示を出した。病人は一カ所に集め、看病する人は限定すること。井戸水は必ず煮沸してから使用すること。食料は加熱調理すること。そして何より、パニックにならないこと。
「私たちは困難を乗り越えてきた村です。今回も必ず…」
太郎の言葉が途切れた。広場の端に立っていた若い女性が突然よろめき、その場に崩れ落ちたのだ。
「助けて!」
周囲が慌てて駆け寄る。泰三が女性を診察し、表情が曇った。
「同じ症状です。すぐに病人の収容所へ」
この光景を目の当たりにして、村人たちの不安は一気に高まった。
「これは呪いだ!」
「海の者どもの仕業に違いない!」
一人の村人が叫んだ。それまで冷静を保とうとしていた村人たちの間に、動揺の波が広がっていく。
「冷静に!」太郎は声を張り上げた。
「今は協力して病気と闘うときです。原因を決めつけるのは…」
「村長様」中年の漁師、権三郎が一歩前に出た。
「あの宴の後に病気が広がったのは偶然ですか?海の民が何かをしたのではないですか?」
太郎は毅然とした態度を崩さなかった。
「証拠もなく人を疑うことはできない。私は乙姫様と海の民を信頼している」
「村長様は海の女に心を奪われている!」誰かが叫んだ。
「私たちよりも海の民を優先しているのか!」
太郎の表情が険しくなった。
「その言葉は撤回してもらおう。私は常に村のために…」
「では証明してください!」権三郎が声を張り上げた。
「まずは海の民との交流を一時中断し、村の安全を第一に考えるべきではないですか?」
村人たちからも同意の声が上がる。太郎は深く息を吸い、難しい決断を下した。
「わかった。しばらくの間、海の民との接触は控えよう。ただし、これは彼らを疑っているからではない。ただ病気の原因を特定し、拡大を防ぐためだ」
この宣言に、村人たちからは安堵と不満が混ざった反応があった。太郎は集会を終え、おつると共に自分の家に戻った。
「太郎殿、本当にこれでよかったのでしょうか?」おつるが心配そうに尋ねた。
「今は村人たちの不安を鎮めることが先決だ」太郎は疲れた表情で答えた。
「乙姫様には説明しなければならない。次の満月の夜に…」
疫病は日に日に広がりを見せ、村全体に恐怖が蔓延していった。数日後、最初の死者が出た。宮崎家の老夫婦が、わずか数日の闘病の末、相次いで息を引き取ったのだ。
宮崎家の長男、勘助は悲しみと怒りに打ちのめされていた。
「村長様!」彼は太郎の家を訪れ、声を震わせた。
「私の両親は海の民のせいで死んだのです!復讐させてください!」
「勘助、冷静に」太郎は悲しみに暮れる男を諭そうとした。
「まだ海の民が原因だという証拠はない」
「証拠?」勘助は嗤った。
「海の者どもと交流を始めてから病が流行し、父と母が死んだ。それが証拠ではないのですか?」
太郎は深く息を吸った。
「勘助、君の悲しみはわかる。だが、感情に任せて行動すれば、事態は更に悪化するだけだ」
「ならば、村長様自ら海の民を連れてきてください」勘助は厳しい口調で言った。
「彼らに説明を求め、治療の方法を聞き出すのです」
太郎は難しい顔をした。確かに海の民に会い、事情を説明する必要があった。しかし、今の村の状況では、海の民が現れれば暴動が起きかねない。
「頼む、少し時間をくれ。私が海の民に会い、状況を説明する。だが、その前に村人たちを落ち着かせなければならない」
「三日です」勘助は冷ややかに言った。
「三日経っても何の進展もなければ、私たちは自分たちで海の民を探し出します」
勘助が去った後、太郎はおつるに打ち明けた。
「今夜、海辺へ行き、乙姫様を呼ぶ。だが、誰にも知られてはならない」
「わかりました。気をつけてください」おつるは心配そうに言った。
夜、太郎は誰にも気づかれないよう、こっそりと浜辺へ向かった。月は半月で、十分な明かりはなかったが、太郎は「月の涙」を海に向かって掲げ、乙姫を呼んだ。
「乙姫様、どうか来てください…」
長い沈黙の後、小さな波紋が広がり始めた。やがて、一人の人影が海面に現れた。しかし、それは乙姫ではなく、海斗だった。
「太郎」彼の声は警戒心に満ちていた。「姉上に代わって来た」
「海斗…乙姫様は?」
「無事だ。だが、状況は複雑になっている」
海斗は太郎に近づき、小声で説明を始めた。
「実はあの宴の後、我々の世界で奇妙な病が広がっている。青い斑点を伴う熱病だ」
太郎は驚いた。
「陸でも全く同じ症状の病が…」
「そうか」海斗は思案深げに頷いた。
「姉上もそれを疑っていた。これは偶然ではないかもしれない」
「海の民が原因だという者もいるが…」
「我々も同じことで混乱している」海斗が言った。
「一部の者たちは、地上の者たちが毒を流したのではないかと疑っている」
「一刻も早く互いの誤解を解かなくてはならない」
「乙姫様に会わせてほしい」太郎は切実に頼んだ。
「直接話をしなければ」
海斗は迷った様子だったが、やがて頷いた。
「よかろう。だが短時間だ。父上や長老たちには内緒だ」
海斗は海に戻り、しばらくして乙姫と共に現れた。
「太郎!」乙姫は太郎に駆け寄った。
二人は強く抱き合った。久しぶりの再会に、言葉では表せない感情が込み上げてきた。
「心配していたのよ」乙姫は太郎の顔を見つめた。
「村の様子を見守っていたら、多くの人が病に倒れているようで…」
「ああ、その話をしに来たんだ」太郎は状況を説明した。村での病の広がり、村人たちの不安と恐怖、そして最初の死者の出現と勘助の怒り。
乙姫は悲しい表情で聞いていた。
「私たちの世界でも同じ病が広がっているの」彼女は静かに言った。
「青い斑点を伴う熱病。ただ、私たちは生命力が強いので重症化することは少なく、ほとんどが数日で回復しているわ」
「原因はわかっているのか?」
「まだ。でも、私たちの医師たちが懸命に調査している。海の特定の場所で採取される藻がある程度の効果を示すことがわかったわ」
太郎の目が輝いた。
「その藻を分けてもらえないだろうか?村では既に死者も出始めていて…」
乙姫は頷いた。
「もちろん。明日、このあたりの海岸に届けさせるわ。目印を残しておくから」
「ありがとう、乙姫」
「太郎、今は海の民と地上の人間が会うべきではないわ」乙姫は真剣な表情で言った。
「両方の世界で疑心暗鬼が広がっている。会えば喧嘩になり、より大きな騒動になるわ」
太郎も頷いた。
「わかっている。だが、村人たちは説明を求めている。特に、家族を失った者たちは…」
「伝えて」乙姫は太郎の手を握った。
「私たちは敵ではないと。同じ病に苦しみ、共に解決策を探していると」
太郎は乙姫の手を強く握り返した。
「必ず伝える。そして、このことが過ぎ去ったら、再び共に歩もう」
会話を続けていると、海斗が急に緊張した様子で二人に近づいてきた。
「誰か来る。姉上、もう戻らなければ」
乙姫は太郎の手を強く握った。
「明日、藻を届けるわ。そして…太郎、気をつけて。私たちの関係を良く思わない者は、両方の世界にいるの」
太郎も彼女の手を握り返した。
「必ず乗り越えよう。共に」
乙姫は最後に太郎の頬に軽くキスをし、海斗と共に海中へと消えていった。太郎はしばらくその場に立ち尽くし、やがて村へと戻った。
翌日、太郎は約束通り、海岸の岩場で乙姫からの贈り物を見つけた。緑がかった青い藻が、小さな袋に入れられていた。
太郎は急いで泰三のもとへ向かい、この藻について説明した。
「不思議な藻ですね…」泰三は興味深そうに観察した。
「確かに医療効果がありそうです。すぐに試してみましょう」
二人は病人たちに藻の煎じ薬を与え始めた。効果は緩やかだったが、確かに症状を和らげる働きがあるようだった。
勘助のもとを訪れた太郎は、乙姫との会話を伝えた。海の民の世界でも同じ病が広がっていること、彼らも原因を調査中であること、そして今は直接の接触は危険だということを。
「信じられるものか」勘助の目は怒りに燃えていた。
「逃げるのか!母と父の死の責任を、誰も取らず説明もしないというのか!」
「勘助、これは誰かの責任ではないかもしれない。自然の災いかもしれないのだ」
「村長の言うことも、藻の効果も認めよう」勘助は冷ややかに言った。
「だが、それで両親が戻ってくるわけではない。」
「そして私は海の民を信じない。直接会って真実を突き止めるまで何も信じない」
太郎は重い足取りで村に戻った。村人たちの間では、藻の効果について議論が分かれていた。多くの者は症状の改善を実感し、感謝の意を示していた。しかし、一部の者たちは依然として海の民を疑い、藻さえも毒ではないかと警戒していた。
その夜遅く、太郎が眠りについた頃、村の外れで異変が起きていた。勘助を中心とした数人の若者たちが、海辺に向かっていたのだ。
「太郎殿!」翌朝、おつるが息を切らして太郎の家に飛び込んできた。
「大変です!勘助たちが…」
太郎はおつるに促され、村の広場へと急いだ。そこには、勘助たち五人の若者と、一人の海の民が捕らえられていた。海の民の若者は縄で縛られ、顔には打撲の跡があった。
「何をしたのだ!」太郎は怒りに震える声で問いただした。
「海の民を捕まえました」勘助は得意げに言った。
「これで真実を聞き出せます」
周囲には多くの村人が集まり、様々な声が飛び交っていた。
「放せ!今すぐに!」太郎は命令した。
「できません」勘助は冷静に答えた。
「彼らが病の原因なのか、確かめねばなりません」
「一体何をしたのか?」太郎は海の民の若者の傷を見て尋ねた。
「少し痛い目に遭わせただけです」勘助は平然と言った。
「しかし、奴は何も喋りません」
太郎は海の民の若者に近づいた。
「申し訳ない。すぐに解放して…」
「できません!」勘助が太郎の前に立ちはだかった。
「この者を医者に解剖して貰えば、答えが見つかるのではないか?」
「ありもしない話でそんなことはできない!」
その時、海が大きく揺れ始めた。村人たちが驚いて振り返ると、沖合いから巨大な波が迫ってきていた。
「海の王だ!」誰かが叫んだ。
確かに、波の上には威厳ある姿の海の王が立っていた。その表情は怒りに満ちていた。
「人間どもよ」王の声は雷のように響いた。
「我が民を解放せよ!」
村人たちはパニックになり、逃げ惑い始めた。太郎は必死に状況を収拾しようとした。
「皆、落ち着いて!」
「我が民を解放しろ」王は勘助に向かって言った。
しかし、勘助は首を横に振った。
「今すぐ解放しなければ、村は津波で飲み込まれるぞ」
太郎は海の王に向かって叫んだ。
「お待ちください!これは誤解です!すぐに解放します!」
しかし、王の怒りは既に頂点に達していた。
「人間どもよ、我が民に手を出した報いを受けよ!」
巨大な波が村に向かって押し寄せてきた。
「逃げろ!」
村人たちは高台へと逃げ始めた。しかし、津波により、さらなる怒りに駆られた勘助は、捕らえた海の民の若者を掴み離そうとしない。
「彼を解放すれば、我々も助かる!」太郎は叫んだ。
しかし、勘助は既に刃を海の民の首筋に当てていた。
「一歩でも近づけば、殺す!」
混乱の中、おつるが勘助の背後に回り込み、突然彼を押し倒した。太郎はその隙に海の民の若者を解放した。
「逃げろ!」
海の民の若者は一瞬太郎を見つめ、頷くと海へと飛び込んだ。
波は依然として村に迫っていた。太郎は海に向かって走り出した。
「海の王!お願いします!村には罪のない人々もいます!」
乙姫の姿も見えた。彼女は父に必死に訴えかけていた。
「父上!お願いします!太郎は私たちの味方です!」
海の王はしばらく黙っていたが、やがて腕を下げた。波はゆっくりと収まり始めた。
「人間よ」王は太郎を見つめた。
「我が娘が言うには、お前は違うらしいな」
「私は海の民と地上の人間が共に生きられる世界を願っています」太郎は真摯に答えた。
「ならば、何故我が民は捕らえられた?」
「それは…一部の者たちの仕業です。皆がそう考えているわけではありません」
海の王は深いため息をついた。
「今回は引き上げよう。だが、再びこのようなことがあれば…容赦はせぬ」
王は海中へと消えていった。乙姫だけが水面に残り、遠くから太郎に手を振った。太郎も手を振り返した。
村に戻ると、太郎を待っていたのは、怒り狂った村人たちだった。
「村長は海の怪物の味方をした!」勘助が叫んだ。
「私たちを裏切ったのだ!」
「違う!」太郎は毅然と言った。
「私は村を守ったのだ。あの波から皆を」
村人たちの間で意見が分かれ始めた。一部は太郎に感謝し、一部は彼を非難した。
「皆さん」太郎は村人たちに向かって言った。
「今日の出来事は悲しいことです。しかし、これ以上の対立は避けねばなりません。海の民も私たちも、同じ病に苦しんでいる。共に解決策を探す方が賢明ではないでしょうか」
長老が前に出て、頷いた。
「村長の言う通りじゃ。憎しみ合っても何も生まれん。まずは病との闘いに集中しよう」
勘助は憤慨していたが、多くの村人たちは長老の言葉に同意した。太郎は少しだけ安堵した。最悪の事態は避けられたようだ。
しかし、勘助とその仲間たちの目には、まだ怒りの炎が消えていなかった。
「海の民が病の原因かどうか、調べなかったこと。後悔することになるぞ、村長」
勘助は去り際に呟いた。
太郎はその言葉を風の音として流した。今は村全体の平穏を取り戻すことが先決だった。
数日が経ち、村の状況は少しずつ改善していった。乙姫から提供された藻の効果で、多くの病人が回復の兆しを見せ始めた。海の王との衝突以来、海の民と村人の間に直接の接触はなかったが、太郎は密かに乙姫と連絡を取り合い、互いの世界の状況を共有していた。
両者の間には、まだ不信感はあったものの、少なくとも表立った衝突は避けられていた。太郎はそれを一歩前進と考えていた。
しかし、平穏は長くは続かなかった。
ある朝、遠くから叫び声が聞こえてきた。太郎が村の入り口に駆けつけると、一人の漁師が血まみれで倒れていた。
「海賊だ…」漁師は息も絶え絶えに言った。
「黒い帆の…船が…」
太郎は急いで高台に登り、海を見た。確かに、水平線上に黒い帆を掲げた数隻の船が見えた。
「村に戻れ!」太郎は見張りの若者に命じた。
「女性と子供を避難させろ!男たちに武器を持たせろ!」
村は一気に緊張に包まれた。太郎は村人たちを集め、防衛の指示を出した。しかし、多くの者はまだ病気の影響で弱っており、戦える者は限られていた。
「なぜ海賊が?」長老が太郎に尋ねた。
「わかりません」太郎は答えたが、心の中では嫌な予感がしていた。
この状況を乙姫に知らせなければと思った太郎は、おつるを呼んだ。
「おつる、『月の涙』を使って乙姫様に知らせてくれ。海賊が来ていると」
「わかりました」おつるは頷き、海辺へと走った。
太郎は村の防衛体制を整えながら、彼女の帰りを待った。しかし、おつるが戻ってきたとき、彼女の表情は暗かった。
「太郎殿、海の民からの反応がありません」
太郎の心に不安が走った。乙姫たちは無事なのか?
「今はそれどころではない」太郎は深く息を吸った。
「まずは目の前の敵に対処しよう」
村人たちは武器を手に、浜辺に集まった。太郎も先頭に立ち、村を守る覚悟を決めた。
黒い帆の船団が近づき、海岸に停泊した。船から降りてきた男たちは、粗野な服装をし、剣や弓を手にしていた。
先頭を行く大柄な男が、太郎たちに向かって叫んだ。
「村長はどこだ?」
太郎は一歩前に出た。
「私が村長だ。何の用だ?」
大男は高笑いをした。
「用とは言わんよ。ただちょっとした取引だ」
「取引?」
「ああ」大男はニヤリと笑った。
「我々は海の民の居場所を知りたい。教えてくれれば、お前たちの村は無事にしておいてやる」
「なんだと?」
太郎は表情を変えなかった。
「海の民?何の話だ。そんな夢物語、何も知らぬ」
「嘘をつくな!」大男は怒りの声を上げた。
「我々は確かな情報を得ている。この村と海の民が交流していると」
太郎の目が細くなった。
「誰から聞いた?」
大男は笑みを浮かべた。
「それはお前に関係ない。さあ、海の民の居場所を教えろ」
「教える理由はない」
「そうか…」大男は残念そうな顔をした。
「では、力ずくでいくか」
彼が手を上げると、海賊たちが一斉に動き出した。
突然、人混みから一人の男が前に出た。それは勘助だった。
「待て!」彼は海賊の首領に向かって叫んだ。
「私が教えよう」
「何をする!」太郎は勘助を止めようとした。
しかし、勘助は太郎を無視して続けた。
「だが、その前に約束をしてほしい。我々の村に手は出さないと」
「もちろんだ」大男は笑った。
「言った通り、これは取引だ」
勘助は首領に近づき、何かを耳打ちした。首領の表情が喜色満面になる。
「なるほど、あそこか…」
太郎は勘助を睨みつけた。
「貴様、何をした!」
勘助は冷ややかな目で太郎を見返した。
「村を救ったのだ。海の民のためにこの村が犠牲になることなど、許せるはずがない」
「それだけではあるまい」太郎は鋭く尋ねた。
「お前が海賊を呼んだのか?」
勘助は小さく頷いた。
「あの汚い疫病の根源を根絶やしにしてほしいと頼んだのだ。父と母の仇を取るために」
「なんてバカなことを!」太郎は怒りに震えた。
「海の民は疫病の原因ではない!彼らも同じ病に苦しんでいるのだぞ!」
「黙れ!」勘助は太郎を睨みつけた。
「あんな怪物どもを信じるのか?どう考えてもそれしかないだろうが!やはり村長、お前は狂っている、もう話にならん!」
大男は部下たちに命令を下し始めた。一部は村に残り、一部は海へと戻っていった。彼らは勘助から得た情報をもとに、海の民を襲うつもりだった。
太郎は絶望的な気持ちで海を見つめた。乙姫たちに警告を送ることもできず、彼らは無防備のまま海賊に襲われることになる。
「待て!」太郎は海賊の首領に向かって叫んだ。
「海の民を襲えば、取り返しのつかないことになる!」
「黙れ」首領は冷たく言った。
「我々の仕事に口を出すな」
その時、村の端から叫び声が聞こえた。
「村長様!村が燃えています!」
太郎が振り返ると、村の数カ所から黒煙が立ち上っていた。海賊たちの一部が、村を襲撃し始めたのだ。
「貴様!約束したではないか!」勘助が首領に詰め寄った。
首領は高笑いをした。
「約束?海の民の情報をこれ以上言いふらされては、我々の取り分が減る。だから証拠を消すだけだ」
勘助は愕然とした表情で立ち尽くした。
村人たちは急いで村の消火活動に向かった。しかし、海賊たちは彼らを阻み、襲いかかってきた。混乱の中、多くの村人が傷つき、家々は燃え上がっていった。
その時、海面が大きく揺れ始めた。海賊たちの船も、突然の波に揺さぶられていた。
「何だ?」大男は海を見た。
水面から次々と人影が現れ始めた。それは海の民たちだった。そして、その先頭には海の王の姿があった。
「陸の者どもよ」王の声は怒りに満ちていた。
「もう警告では済まないと伝えたはずだ」
大男は驚いた様子だったが、すぐに笑った。
「ほう、探す手間が省けたわ。地底の財宝、頂くぜ!」
「父上!」乙姫の姿も見えた。彼女は海斗と共に、王の後ろに立っていた。
「乙姫!ここに来てはいけない!」太郎は叫んだ。
「捕らえろ!」大男が海賊たちに命令を下した。
「宝のありかを吐かせろ!」
海賊たちが一斉に攻め寄せようとした瞬間、海の王が腕を上げた。突然、大波が起き、海賊たちの船は激しく揺さぶられた。
「陸の者どもよ、我らを甘く見るな!」
波が大きくなるにつれ、村の浜辺にまで影響が出始めた。太郎たちが立つ岸辺にも波が打ち寄せ、足元が不安定になる。
「すべて海の民のせいだ!」勘助が叫んだ。
「奴らが病気を流行らせ、今度は津波で我々を殺そうとしている!やつらはこの地上を奪いたかったのだ!」
「違う!」太郎は必死に否定した。
「違うと言っているだろうが!」
しかし、恐怖に駆られた村人たちの耳には、もはや太郎の言葉は届かなかった。一部の村人たちは、村を守るために海の民に向かって矢を放ち始めた。
「やめろ!」太郎は阻止しようとしたが、既に遅かった。
矢は海の民たちに向かって飛んでいった。海の民たちも武器を手に取り、臨戦体制となる。
「人間どもめ!」王の怒りが爆発した。
「戦いを望むというのか!」
海と陸の緊張が最高潮に達しようとしていた。そんな中、太郎はおつると共に海辺へと走り出した。
「乙姫様!」太郎は叫んだ。
「これは誤解です!戦いはやめてください!」
「太郎殿、それ以上進むと危険です!」おつるが太郎の腕を引っ張った。
しかし、太郎は振り切って海へと入っていった。波と潮風の中、必死に乙姫の名を呼び続ける。
その時、海賊の船から一発の砲撃が放たれた。大きな音とともに、弾丸が海と陸の間に落ちた。爆発の衝撃で、太郎は海中に投げ出された。
「太郎殿!」おつるの悲鳴が聞こえた。
海中に沈みかけた太郎の前に、一つの影が現れた。それは乙姫だった。彼女は太郎の体を支え、水面近くまで引き上げた。
「太郎!大丈夫?」
「乙姫…」太郎は弱々しく呟いた。
「戦いを止めなくては…」
「わかっているわ」乙姫の声には悲しみが滲んでいた。
「でも…もう…手遅れかもしれない」
水面に顔を出した太郎は、絶望的な光景を目の当たりにした。海賊と村人、海の民が入り混じり、混沌とした戦いが始まっていた。
村は燃え、海は荒れ、人々の叫び声が響き渡る。まさに地獄絵図だった。
「どうすれば…」太郎は絶望を感じていた。
「まずはあなたを安全な場所へ」乙姫は太郎を岸へと運び始めた。
岸に辿り着いた二人を、おつるが迎えた。
「太郎殿!」
「おつる、すまない…」
突然、海の方から悲鳴が聞こえた。振り返ると、海斗が海賊たちに囲まれ、苦戦している姿が見えた。
「兄上!」乙姫が叫んだ。
海斗は必死に海賊たちと戦っていたが、数が多すぎた。ついに、一人の海賊が銛を構え、海斗に向かって投げた。銛は海斗の肩を貫いた。海斗は痛みに顔をゆがめながらも、水中へと逃れようとした。
その時、海面が大きく揺れ、巨大な影が現れた。海の王だった。彼は怒りに満ちた姿で、海賊たちを一気に吹き飛ばした。
「我が息子に手を出すとは…許さん!」
王の力で大きな波が起こり、海賊の船は転覆し始めた。しかし、その怒りの波は、村の岸辺にも押し寄せてきた。
「村が…」太郎は恐怖に目を見開いた。
海の王の力は凄まじく、大波は村を飲み込もうとしていた。村人たちは必死に逃げ惑い、中には波にさらわれる者もいた。
「父上、やめて!」乙姫は叫んだ。
「村の人々まで巻き込んでしまう!」
しかし、海の王は怒りに我を忘れ、さらに大きな波を起こし続けた。
「全て交流のせいだ」勘助が太郎に向かって怒鳴った。
「お前が海の民と交流しなければ、こんなことにはならなかった!」
「今はそんなことを言っている場合ではない!」太郎は叫び返した。
「皆を高台に避難させるぞ!」
村人たちの間でも意見が分かれ始めた。一部は太郎に従い、避難に協力しようとしたが、一部は太郎を責め立て、海の民への憎しみをあらわにした。
「海の怪物どもと通じた村長を許さない!」
「太郎は村の裏切り者だ!」
怒号が飛び交う中、海賊の集団が短剣を抜いた。
「まずは村長。お前の命を頂く」
海賊は太郎に向かって突進してきた。
「太郎殿!」おつるが警告の声を上げた。
太郎は身構えたが、その時、乙姫が二人の間に飛び込んできた。
「やめて!!」
その時…。
短剣が乙姫の体を貫いた。
「乙姫!」太郎の悲鳴が響いた。
乙姫はよろめき、太郎の腕の中に倒れこんだ。
太郎は乙姫を抱きかかえた。彼女の胸から血が流れ出ていた。
「乙姫…しっかりしろ!」
乙姫は弱々しく微笑んだ。
「太郎…大丈夫…私は…」
「喋るな!今すぐ手当てを…」
しかし、乙姫の傷は深く、血が止まらなかった。
海賊はなおも太郎を狙い、向かってくる。
が、海の民が駆けつけなんとか応戦する。
「父上…」乙姫は海の王を呼んだ。
王は混乱の中、娘の声に気づき、岸に近づいてきた。彼の表情が一変した。
「乙姫!」
「父上…お願いです…もう戦いはやめて…」乙姫は弱々しく言った。
王の怒りは一瞬で消え、深い悲しみに変わった。
「乙姫…」
太郎は涙をこらえながら乙姫を支え続けた。
「乙姫、しっかりしろ。助けを呼ぶから…」
「太郎…」乙姫は太郎の顔を見つめた。
「私の思いを…受け取って…」
彼女は震える手で、懐から小さな箱を取り出した。
「これを…使えば…」
「何だ?」
「玉手箱…私たちの…宝…」
乙姫の声が弱まっていく。
「どうか、この宝で夢を叶えて欲しい…どうか…最後まで諦めないで」
「太郎…あなたと…出会えて…幸せだった…」
「乙姫!そんなことを言うな!しっかりしろ!」
しかし、乙姫の目は徐々に閉じていった。
「海と陸の…架け橋に…なりたかった…」
それが彼女の最後の言葉だった。乙姫の体から力が抜け、太郎の腕の中で静かになった。
「乙姫…」太郎は彼女の名を呼んだが、もう答えはなかった。
海の王は娘の亡骸を見つめ、大声をあげて泣いた。彼の周りの海が、まるで嘆きのように揺れた。
「我が愛しき娘よ…」
海斗も、肩の傷を押さえながら近づいてきた。
「姉上…」彼の目には涙が溢れていた。
周囲では、一時的に戦いが止んでいた。村人も海賊も海の民も、乙姫の死に言葉を失っていた。
太郎は乙姫の体を優しく抱きしめ、涙を流した。彼女から受け取った玉手箱を握りしめ、込み上げる感情と戦っていた。
「乙姫様…」おつるも涙を流した。
海の王は悲しみから立ち直り、太郎を見つめた。
「人間よ」彼の声は悲しみに満ちていた。
「お前は…我が娘を愛していたのか?」
太郎は涙を拭いながら、しっかりと答えた。
「はい。私の全てを捧げてもいいほどに」
王はしばらく黙っていたが、やがて決断したように頷いた。
「ならば…乙姫の最期の願いを叶えよう」
王は手を差し伸べた。
「その箱を開けよ」
太郎は乙姫から受け取った玉手箱を見つめた。それは小さな木箱で、不思議な模様が刻まれていた。
「これが…玉手箱?」
「それは我が一族に伝わる宝だ」王は説明した。
「時を超える力を持つという…」
太郎は箱を開いた。中から不思議な煙が立ち上り、彼の体を包み込んだ。
「我々も初めて見る。この先は何が起こるか、誰にも分からない」
「行け、人間よ。我が娘の思いと共に…」
太郎は白い煙に包まれ、そのまま意識を失った。




