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第4章「揺れる水面」

約束の満月の夜、太郎と瑞樹とおつるは密かに浜辺へと向かった。


「本当に来るのでしょうか」おつるは不安そうに空を見上げた。


「必ず来る」


太郎は確信を持って答えた。


「乙姫様は約束を守る人だ」


満月が海面を銀色に染め上げる中、遠くから複数の波紋が広がってきた。やがて、月明かりに照らされた人影が浮かび上がった。


乙姫だ。そして彼女の後ろには、兄の海斗と数人の若い海の民が続いていた。彼らは皆、神秘的な光を放つ衣装を纏い、指の間や耳にはわずかなヒレが見えた。


「太郎殿」


乙姫は微笑みながら挨拶した。その笑顔は月よりも明るく輝いていた。


「乙姫様」


太郎も笑顔で答え、そしておつるを紹介した。


「こちらは村の長老の姪、おつるです」


乙姫はおつるに深々と頭を下げた。


そして私の親友、瑞樹です。


「本当にお会いできるとは…言葉が出ません」


瑞樹は目を大きく見開き、硬直していた。


「お会いできて光栄です。太郎殿からお話は伺っております」


おつるは緊張した様子で頭を下げ返した。彼女の目には警戒心が浮かんでいたが、それは乙姫の優雅な物腰を前に、少しずつ和らいでいった。


乙姫は兄と仲間たちを紹介した。海斗は太郎よりも若く見えたが、その眼差しには鋭さがあった。他の海の民たちも、半信半疑ながらも好奇心に満ちた目で陸の人間を観察していた。


「本当は直前まで来るかどうか悩んでいました」


海斗が率直に言った。


「父上に見つかれば、大変なことになりますから」


「兄上」乙姫が窘めるように言った。


「いや、正直に話した方がいい」


海斗は真剣な眼差しで太郎を見た。


「我々はリスクを冒してここに来た。それだけ、あなたを信じているということだ」


太郎は深く頷いた。


「その信頼に応えたい。私たちも同じ思いでここに来た」


緊張した空気の中、最初の対話が始まった。互いの世界のこと、文化の違い、そして何より、かつての対立と今後の和解の可能性について。


おつるは最初こそ黙って聞いていたが、やがて質問を始めた。


「海の民の皆様は、どのようにして生活されているのですか?」


乙姫は嬉しそうに答えた。


「私たちは珊瑚でできた宮殿に住み、海の恵みを糧としています。音楽と舞を愛し、星の動きを研究しています」


「星を?海の底からでも?」


「ええ、特殊な水晶を通して見るのです」


会話は次第に打ち解けていった。特に、乙姫の優雅さと聡明さ、そして何より純粋な善意に、おつる、瑞樹の両名は次第に心を開いていった。


「乙姫様は本当に素晴らしい方ですね」


後に、おつるは太郎に小声で言った。


「私、最初は疑っていたのですが…」


「だろう?」太郎は誇らしげに答えた。その表情には、乙姫への深い愛情が滲んでいた。


その夜、月が沈む頃、海の民と陸の人間は再会を約束して別れた。しかし今度は、満月を待たずとも、定期的に会うことになった。最初の一歩は、成功したのだ。


それから数週間、太郎と乙姫の秘密の計画は着実に前進していった。


最初は太郎、おつる、そして瑞樹という太郎の幼馴染だけが海の民との接触を許されていた。しかし、彼らの話に興味を持つ村人が次第に増えていった。


「村長様、本当に海の底に王国があるのですか?」年老いた漁師が尋ねた。


「ええ、あります。そして彼らは決して私たちの敵ではないのです」


懐疑的な声もあったが、好奇心が勝った。特に子供たちは、海の民の話に夢中になった。


「海の民は魚に変身できるんですか?」


「イルカやマンタ、シャチなど、それぞれ違う生き物になれるんだよ」太郎は笑顔で答えた。


次の満月の夜、より多くの村人が浜辺に集まった。今度は十人ほど。そして、乙姫も以前より多くの海の民を連れてきた。


最初は緊張した空気だったが、子供たちの無邪気さが氷を溶かした。


「あ!耳がヒレになってる!」と村の少女が声を上げると、乙姫の侍女の珠美は照れながらも笑顔で答えた。


「触ってみる?」


少女は恐る恐る手を伸ばし、珠美の耳に触れた。


「冷たい!でもすべすべ!」


その光景を見て、大人たちの間にも笑顔が広がった。


三度目の満月の夜には、村の半数近くが浜辺に集まり、海の民との交流を楽しんでいた。両者は歌や踊りを披露し合い、料理を交換し、互いの文化に触れた。


特に印象的だったのは、海の民が持ってきた発光する貝殻のランタン。それは夜の浜辺を幻想的に照らし、村人たちを魅了した。


「これは美しい…」おつるは海斗から手渡されたランタンを見つめながら呟いた。


「私たちの祭りで使うものです」海斗は優しく説明した。二人の間には、以前にはなかった親密さが生まれ始めていた。


太郎と乙姫もまた、より深い絆で結ばれていった。二人きりの時間には、未来について語り合った。


「いつか、私たちが結婚できる日が来るでしょうか」ある夜、乙姫が星空の下で太郎に尋ねた。


太郎は乙姫の手を取り、強く握った。


「必ず来る。そして私たちは、海と陸の新しい道を作るんだ。両者が共に繁栄する未来を」


乙姫の目には涙が浮かんだ。


「太郎殿…」


「太郎でいい」


彼は優しく言った。


「もう他人ではないのだから」


乙姫は頬を赤らめ、小さく頷いた。


「太郎…」


二人は月明かりの下、互いの唇を重ねた。それは海と陸が一つになるという、神聖な誓いのようだった。

一ヶ月後、村では初めての公式な海の民歓迎の宴が開かれることになった。浜辺に大きなテントが張られ、村中が準備に忙しく動いていた。


「太郎殿」おつるが準備の合間に太郎を呼び止めた。


「少しお時間よろしいでしょうか」


「どうした、おつる?」


おつるは周囲を見回し、少し離れた岩場へと太郎を導いた。夕日が海に沈みかけ、空は橙色に染まっていた。


「太郎殿」


おつるは深呼吸をし、決意に満ちた眼差しで太郎を見つめた。


「私、ずっと言えずにいたことがあります」


太郎は静かに頷き、彼女の言葉を待った。


「私は…太郎殿のことを、子供の頃からずっと慕っておりました」


おつるの声は小さかったが、はっきりとしていた。


「私は恋をしておりました」


太郎は驚いて目を見開いた。


「おつる…」


「いいえ、お答えは不要です」


彼女は微笑んで手を上げた。


「私はただ、自分の気持ちに区切りをつけたくて…今まで誰にも告白したことはありませんでした。でも、勇気を出して伝えようと思ったのです」


おつるの目には涙が浮かんでいたが、その表情には決意があった。


「これからも、太郎殿を好きな気持ちは変わりません。ですが、乙姫様との姿を見て、私は心から思いました。太郎殿は彼女と共にあるべきだと」


彼女はしっかりとした声で続けた。


「私はこれからも変わらず、太郎殿の夢のために全力で協力させていただきます。ですから…どうか、私たちの関係は変わらないままでいてください」


太郎は深く頭を下げた。


「ありがとう、おつる。君の気持ち、そして今の言葉、一生忘れない」


彼は真摯な眼差しでおつるを見つめた。


「君のような心の美しい人が傍にいてくれること、それは私にとって何よりの支えだ」


おつるは涙を拭い、微笑んだ。そして少し恥ずかしそうに俯いた。


「実は…もう一つ、お話ししたいことがあるのです」


「なんだ?」


「私、海斗様が…気になっています」


彼女の頬が赤く染まった。


「でも、私たちは違う世界の者。どうすればよいのか分からず、不安で…」


太郎は優しく笑った。


「海斗か。彼はいい男だ」


「はい…」おつるは小さく頷いた。


「でも、この恋は諦めるべきでしょうか?」


「諦める必要など一つもない」太郎は力強く言った。


「確かに困難な道かもしれない。でも、それこそが私たちの目指す未来ではないか。海と陸が分け隔てなく、互いを理解し合い、時には愛し合える世界」


太郎は海を見つめながら続けた。


「私と乙姫も同じだ。違う世界に生まれた者同士。だからこそ、おつるの気持ちは尊いものだと思う」


「太郎殿…」


「自分の気持ちに正直であれ。そして、機会があれば伝えてみるといい。たとえ今すぐ実らなくても、その思いは必ず海斗に届くはずだ」


おつるの目に、新たな光が宿った。それは希望の輝きだった。


「ありがとうございます。私、勇気を出してみます」


「私、太郎殿を好きで本当に良かったです。でも新しい道へ踏み出します。」


「ああ。互いにいつまでも励まし合える仲でいよう。ありがとう、おつる」


二人は微笑み合い、準備のため村へと戻った。おつるの肩には以前より力が入っていた。自分の気持ちを言葉にすることで、彼女の心には新たな扉が開かれたのだ。


宴の当日、村中が祝祭の雰囲気に包まれていた。浜辺には大きなテントが張られ、焚き火が幾つも灯された。村人たちは最高の衣装を身にまとい、海の民を迎える準備をしていた。


「みんな、準備はいいか?」太郎は村人たちに声をかけた。


「はい!」子供たちが元気よく答えた。彼らは海の民の子供たちと遊ぶのを楽しみにしていた。


満月が昇るころ、海面が光り始めた。まるで水中から無数の灯りが上がってくるかのように。やがて、乙姫を先頭に、海の民たちが姿を現した。


今夜は特別な夜。乙姫は父である王に無断で来ているわけではなかった。長い説得の末、王は「様子を見る」という条件で、この交流を許可したのだ。


「歓迎します、海の民の皆様」太郎は深く頭を下げた。


「招いてくださり、ありがとう」乙姫も優雅に答えた。


宴は和やかに始まった。村人たちは自慢の料理を振る舞い、海の民は海の珍味や美しい工芸品を贈った。子供たちは砂浜で鬼ごっこをし、大人たちは酒を酌み交わした。


「見てください、太郎」乙姫は喜びに満ちた声で言った。


「私たちの夢が実現し始めています」


太郎は彼女の手を優しく握り、頷いた。


一方、おつるは宴の間中、海斗の姿を目で追っていた。彼は海の民の若者たちと村の若者たちの間を取り持ち、時折笑いを交えながら話をしていた。その姿は誇らしく、頼もしく見えた。


「おつる殿」


突然声をかけられ、おつるは驚いて振り返った。そこには海斗が立っていた。


「海斗様…」


「素晴らしい宴ですね。ご準備、大変だったでしょう」


「いいえ、皆で協力しましたから」おつるは少し照れながら答えた。


「よろしければ、少し浜辺を歩きませんか?」海斗が提案した。


「村の皆さんに海の民の音楽について話したところ、とても興味を持たれていました。おつる殿にもお聞かせしたいのですが」


おつるは小さく頷き、二人は人ごみから離れて、月明かりに照らされた浜辺へと歩き出した。


波の音だけが聞こえる静かな場所で、海斗は美しい珊瑚で作られた笛を取り出した。


「これは私たちの伝統的な楽器です」


彼が吹き始めると、浜辺に不思議な旋律が広がった。それは陸の音楽とは異なる、波のように揺れ動く、懐かしくも新しい音色だった。


おつるは目を閉じ、その音色に身を委ねた。終わった時、彼女は思わず拍手をした。


「素晴らしい…心が洗われるようです」


「ありがとう」海斗は笑顔で言った。


「おつる殿は感受性が豊かですね」


二人は砂浜に腰を下ろし、星空を見上げながら話を続けた。海の民の文化や日常、そして陸の暮らしについて。時間が経つのも忘れるほど、会話は尽きなかった。


やがて、おつるは勇気を出して言った。


「海斗様…私、あなたに伝えたいことがあります」


海斗は彼女を見つめた。月光に照らされた彼の瞳は、深い海のようだった。


「私は…海斗様のことを…」おつるは一度深呼吸し、直接彼の目を見た。


「好きになってしまいました」


言葉を放った瞬間、彼女の頬は熱くなった。しかし、もう後戻りはできない。


「おつる殿…」海斗の表情には驚きと戸惑いが浮かんだ。


「突然すぎて、申し訳ありません」おつるは急いで付け加えた。


「お返事は今すぐでなくても…ただ、伝えたかったのです」


海斗はしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。


「正直に言うと、今はお答えできません」彼の声は優しかった。


「ですが、おつる殿の言葉は心から嬉しく思います」


彼はおつるの手に、そっと自分の手を重ねた。


「私は地上の人々の中で、おつる殿を最も信頼しています。そして…」


彼は少し言葉を選ぶように間を置いた。


「心惹かれている、それも事実です」


おつるの心臓が高鳴った。


「ただ、私たちの置かれた状況は複雑です。私は海の王子として、多くの責任を抱えています。おつる殿の気持ちに、今すぐ応えられないのは…」


「わかっています」おつるは優しく微笑んだ。


「急かすつもりはありません。ただ、私の気持ちを知っていてほしかったのです」


海斗も微笑み返した。


「時間をください。そして、これからもこうして話す機会を…」


「はい、喜んで」


二人は再び星空を見上げた。言葉にならない何かが、静かに二人の間に芽生えていた。それは海と陸を越えた、新しい絆の始まりだった。


宴の終わり近く、太郎と乙姫は二人きりになる時間を見つけ、岬の先端に立っていた。


「太郎、見てください」乙姫は村と海を見渡しながら言った。


「私たちの夢が形になりつつあります」


太郎も満足げに頷いた。


「海と陸が共に歩む未来。これが私たちの目指す道だ」


乙姫は太郎の腕に寄り添い、静かに囁いた。


「次はさらに大きな一歩を踏み出しましょう。父上に正式に太郎をお会わせしたいのです」


「王に?」太郎は驚いた。


「はい」乙姫は真剣な眼差しで言った。「私たちの関係を公にし、いつか…結婚の許しを得たいのです」


太郎の胸が高鳴った。乙姫との結婚。それは彼にとっても最も望むことだった。


「いつでも準備はできている」太郎は彼女の手を強く握った。


「君のお父上に、私の誠意を示したい」


「ありがとう」乙姫の目に涙が光った。


「きっと理解してくださるはずです。父上も変わり始めています」


満月の光の下で、二人は未来への誓いを新たにした。海と陸の架け橋となり、新しい時代を築くという誓いを。


宴は深夜まで続き、かつてない和やかな雰囲気の中で幕を閉じた。村人たちと海の民は、互いに別れを惜しみながら、次の再会を約束した。


「また会おう!」


「次は私たちの歌を教えてあげるね!」


子供たちの声が夜空に響いた。太郎は乙姫を見送りながら、心の中で誓った。この平和を守り、さらに大きな絆を築くために、全力を尽くすと。



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