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第2章「運命の出会い」

夜明け前、太郎は静かに家を出た。母のなつには「朝の漁に出る」と告げたが、本当の目的は与三郎が話していた岩場を調べることだった。小さな漁船に乗り込み、まだ薄暗い海へと漕ぎ出す。


波は穏やかで、朝焼けがゆっくりと空を染め始めていた。太郎は漁村から少し離れた岩礁を目指して船を進めた。この辺りは潮の流れが複雑で、漁師たちも滅多に近寄らない場所だった。


「確かこの辺りだったはず…」


太郎は潮の流れに身を任せながら、周囲を注意深く観察した。波間に反射する朝日が、時折まぶしく輝いている。そんな中、ふと太郎の目に奇妙な光景が飛び込んできた。


岩礁の陰から、一匹の亀が必死で泳いでいた。だが、その動きはどこか不自然だった。よく見ると、亀の甲羅に繁殖し過ぎた野生の海藻が絡みついていた。藻が増えすぎると、このように海の生き物を苦しめることがある。亀は溺れまいと懸命にもがいていたが、その動きは次第に弱まっていった。


「このままでは…」


太郎は迷わず海に飛び込んだ。冷たい海水が全身を包み込む。熟練の漁師である太郎にとって、泳ぐことは呼吸するのと同じくらい自然なことだった。数回の力強いストロークで亀に追いつき、絡まった海藻を手早く解いていく。


「大丈夫だ、もう安全だぞ」


亀を優しく抱き上げながら、太郎は囁いた。不思議なことに、亀は抵抗するどころか、まるで太郎の言葉を理解したかのように穏やかな目で彼を見つめていた。その目は、人間のように知性に満ちていた。


太郎は亀を抱えたまま船に戻り、甲羅についた傷をそっと撫でた。幸い、深い傷ではないようだ。


「しばらく休んでいくといい。無理に泳いで傷を悪くするな」


亀は太郎を見上げ、小さく首を動かした。まるで頷いているかのように。


時間が経つにつれ、太郎は言い知れぬ安らぎを感じていた。この亀には、何か特別なものを感じる。まるで…祖父が語った地底の民に通じるような、神秘的な雰囲気があった。


「空腹だろう?」


太郎は持参していた干し海藻と小魚を亀に差し出した。亀は恐る恐る首を伸ばし、太郎の手から直接餌を受け取った。その仕草には、野生の生き物とは思えない優雅さがあった。


日が高くなり、村に戻る時間が近づいてきた。太郎は亀を海に返そうとしたが、亀はなかなか手から離れようとしない。


「帰らなくてはならないんだろう? 家族が待っているかもしれないぞ」


亀は悲しそうに首を引っ込めた。太郎は葛藤した。このまま村に連れて帰るべきか。しかし、それはこの生き物のためにならないだろう。亀は自由に海を泳ぐべきだ。


「また会えるさ。必ず」


太郎はそう言って、亀を静かに海に戻した。亀は一瞬躊躇ったが、やがてゆっくりと泳ぎ出した。しばらく船の周りを回ってから、深い海へと姿を消していった。


結局その日は何も収穫はなかった。だが、不思議と心は満たされていた。夕暮れ時、村に戻った太郎を、おつるが心配そうに出迎えた。


「太郎殿、大丈夫でござったか? 長老様も心配していらっしゃいました」


「すまない、気がつけば時間が経っていた」


太郎は笑顔で答えたが、心の中では亀のことを考えていた。あの亀は無事に家に帰れたのだろうか。


その夜、満月が海を銀色に染め上げていた。太郎は眠れぬまま、浜辺を歩いていた。波の音だけが響く静寂の中、彼の心は今朝の出来事でいっぱいだった。


ふと、潮騒とは違う音が聞こえてきた。太郎は立ち止まり、耳を澄ました。かすかな足音。そして、囁くような歌声。


月明かりに照らされた浜辺の向こうに、一人の人影が見えた。長い髪が風に揺れている。その姿は、月の光に透けるようで、まるで幻のようだった。


太郎は息を呑んだ。あまりの美しさに言葉を失った。


人影は太郎に気づいていないようだった。手の中の何かを見つめている。太郎は木陰に隠れながら、その姿を見守った。


やがて、人影がゆっくりと太郎の方を向いた。


「そこにいるのは誰?」


澄んだ声が、夜の静けさを切り裂いた。太郎は動揺したが、隠れているのは失礼だと思い、木陰から出た。


「すまない。浦島太郎と申す。この村の…」


言葉が途切れた。月明かりに照らされた女性の顔を見て、太郎は息を呑んだ。


彼女の目は、深い海のように青く、肌は真珠のように白く輝いていた。しかし、最も驚いたのは、その耳の形だった。通常の人間の耳ではなく、小さなヒレのような形をしていたのだ。


女性は太郎を見て、わずかに身を引いた。その目には恐れと好奇心が混じっていた。


「あなたは…今朝の方ですね」


その言葉に、太郎は我に返った。


「今朝? あなたは…まさか…」


女性はゆっくりと頷いた。


「はい。私はあなたに助けて頂いた亀の主です。龍宮城の姫、乙姫と申します」


太郎の心臓が高鐘を打った。祖父から聞いた伝説。地底王国の民。そして、その王女。伝説は真実だったのだ。


「あの亀は…」


「小福と申します。私の大切な友です」乙姫の声は柔らかかった。「今朝、小福が戻ってこなかったので、傷を負ったあの場所を清掃していたところでした。繁殖し過ぎた海藻は危険なのです」


「地底の方だったのですか…」


乙姫は顔を曇らせた。


「地底…そう、あなた方はそう呼ぶのですね。私たちは自分たちを『海の民』と呼んでいます」


太郎は乙姫をよく見た。月明かりの下、彼女の姿は一層神秘的に映る。彼女の耳は小さなヒレのような形をしており、手の指の間にもうっすらとしたヒレが見えた。身に纏う衣装は、光を含んだような美しい布地で作られており、波打つように揺れていた。その色合いは深海の神秘的な輝きを思わせ、細かな真珠や珊瑚の装飾が施されていた。


太郎は申し訳なさそうに頭を下げた。


「無礼をお許しください。祖父から聞いた話では…」


「あなたの祖父は、私たちのことをご存知だったのですか?」


乙姫の声が急に熱を帯びた。太郎は祖父から聞いた話を、簡潔に伝えた。かつての友好関係、そして悲しい別れ。乙姫は静かに聞き入り、時折深く頷いた。


「そうでしたか…私たちの長老も似たような話をしていました。しかし、もっと恐ろしい描写で…」


乙姫の声には、深い悲しみが滲んでいた。


「あなたは違う」乙姫は静かに言った。


「私を助けてくれた。何の見返りも求めず」


「当たり前のことをしただけです」


太郎は率直に答えた。


「苦しんでいる者を見過ごすことはできません」


乙姫の目に、涙が光った。


「あなたのような方がいるとは…」


二人は月明かりの下、長い時間語り合った。乙姫は海の民の文化や生活について語り、太郎は地上の暮らしを伝えた。互いの世界の違いに驚きながらも、共通点を見出す喜びを感じていた。


「私たちの世界では、地上の人間は恐れられています。子どもたちを脅すときの『むかで』のような存在です」乙姫は苦笑した。


「こちらも似たようなものです。海の底に恐ろしい妖怪が住むと、子どもを怖がらせています」


二人は顔を見合わせ、思わず笑みがこぼれた。


「不思議ですね」乙姫はつぶやいた。


「同じように恐れあいながら、こうして話してみると…」


「そう違いはないということですね」


太郎が言葉を継いだ。


夜が更けていく中、二人の距離はだんだんと縮まっていった。それは物理的な距離だけでなく、心の距離も。


しかし、東の空がわずかに明るくなり始めると、乙姫は慌てたように立ち上がった。


「行かなければ…海の民は太陽の光を長く浴びることができないのです。私たちの肌は陽の光で乾き、力が弱まってしまいます」


太郎も立ち上がり、思わず乙姫の手を取った。その手は冷たく、少し湿っていたが、指の間のうっすらとしたヒレが太郎の手に触れ、不思議と心地よく感じられた。


「また会えますか?」


乙姫は迷うように唇を噛んだ。


「危険です…父上や長老たちが知れば…」


「では、この浜辺で。満月の夜に」


乙姫は悩んだ末、小さく頷いた。


「約束します。次の満月の夜に、ここで」


そう言って、乙姫は太郎の手から何かを渡した。それは、小さな真珠のような球だった。


「これは?」


「私たちの言葉で『月の涙』と呼ばれるものです。危険が迫ったとき、これを海に投げ入れれば、私に知らせが届きます」


太郎は大切そうに真珠を握りしめた。


「ありがとう、大事にします」


乙姫は最後に微笑み、そして波打ち際へと走り出した。彼女の美しい衣装が風に揺れ、宝石のように光を反射していた。海に飛び込む直前、彼女の姿が光に包まれ、一瞬にして美しいイルカの姿に変わった。そして太郎に向かって一礼するような動きをしてから、波間に消えていった。


太郎は驚きのあまり声にならなかった。


太郎はしばらくその場に立ち尽くしていた。手の中の真珠は、まだ乙姫の体温を残しているようだった。


朝日が昇り始め、新しい一日が始まろうとしていた。しかし、太郎の世界は一夜にして大きく変わった。心の中に、新しい感情が芽生え始めていた。


村に戻った太郎は、いつもの日常に戻った。漁に出て、村の問題を解決し、村人たちと語らう。しかし、その心はいつも海の方を向いていた。


「太郎殿、どうかされましたか?」評議の場で、長老が心配そうに尋ねた。


「いいえ、何でもありません」


太郎は取り繕ったが、おつるの視線が自分に向けられていることに気づいた。彼女の目もまた、不安と心配が入り混じっていた。


「私のせいで、皆を心配させてしまっている…」


太郎は罪悪感を覚えた。しかし、乙姫との約束を思い出すと、胸が熱くなる。これは自分だけの問題ではない。地上と海底の未来がかかっているのだ。


次の満月まで、あと十五日。太郎は首からぶら下げた真珠に触れながら、静かに日を数えていた。

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