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第1章「海と陸の記憶」

波の音が遠く、かすかに聞こえてくる。 浦島太郎は目を閉じたまま、潮風の匂いを深く吸い込んだ。


「太郎殿、また一人で考え事ですか?」


背後から声がかけられ、太郎はゆっくりと振り返った。村の長老の娘、おつるが微笑みながら立っていた。彼女の手には、籠に入った魚の干物が幾つか見えた。


「ああ、すまない。また村の者たちを心配させてしまったな」


「そんなことありません。長老がお呼びです。評議の時間だそうです」


太郎は軽く頷き、立ち上がった。三十二歳になる彼は、この小さな漁村で村長を務めて五年になる。先代の村長だった父が亡くなった後、若くして重責を担うことになったのだ。


父の形見である紺色の陣羽織を肩にかけ、太郎はおつると共に村へと歩き始めた。潮風に吹かれながら、いつものように砂浜に残る足跡を眺める。二人分の足跡。でも、本当はもっと多くの足跡があったはずだ。


この村には古くから「地底人伝説」が言い伝えられている。


「おじいちゃん、本当に海の底に人が住んでいるの?」


「ああ、地底人たちはな、俺たちとはちょっと違った姿をしているが、心はとても優しいんじゃよ」


六歳の太郎は、祖父の膝の上で身を乗り出し、目を輝かせて聞き入った。


「昔々、地上と海底の人々は仲良く暮らしておった。互いの知恵を分かち合い、共に豊かな世界を築いていたんじゃ」


祖父の声は穏やかで、深い海のようだった。太郎は海底の世界を想像して、心を躍らせた。


「じゃあ、今はどうして会えないの?」


祖父の表情が一瞬曇る。しかし、すぐに取り繕うように微笑んだ。


「まあ、色々あってな…いつか、お前が大きくなった時に話してやろう」


その「いつか」が訪れたのは、太郎が十八になった年だった。祖父の臨終の床で、太郎は初めて真実を知ることになる。


「わしの最後の願いじゃ…太郎…聞いてくれ…」


弱々しい声で祖父は語り始めた。何世代も前、地上と海底の人々が美しい調和を保っていた黄金時代のこと。しかし、地上の一部の者たちが欲に目がくらみ、地底王国の存在を外部に漏らしてしまったこと。その情報を得た海賊たちによる襲撃。多くの罪のない地底人が犠牲になり、生き残った者たちは奴隷として連れ去られたこと。


「それから…地底人たちは地上を恐れるようになった…海から出れば殺される…という恐怖が、彼らの心に深く根付いてしまったんじゃ…」


祖父の目には涙が浮かんでいた。


「太郎…お前なら…きっと…」


その言葉を最後に、祖父は静かに息を引き取った。太郎の手の中には、祖父が握りしめていた古い玉髄の欠片が残されていた。それは、海底と地上を繋ぐ証だった。


「太郎殿?聞こえておりますか?」


おつるの声に我に返る。彼女は心配そうに太郎の顔を覗き込んでいた。


「すまない、また昔のことを考えていた」


「また海のことですか?」


おつるの声には敬意と、かすかな憧れが混じっていた。太郎が海に心を奪われていることを、村の誰もが知っていた。だからこそ、皆が彼を「変わり者の村長」と呼ぶ。でも、それでも村人たちは彼を信頼していた。太郎の正直さと、人々を思う気持ちを知っていたからだ。


村に戻ると、いつものように漁から帰ってきた人々が、今日の収穫を分け合っていた。太郎は挨拶をしながら、各家の様子を確認していく。困っている家族がいないか、病人はいないか、そして何よりも、海に関する異変はなかったか。


「村長様!今日も大漁でござる!」


中年の漁師、与三郎が大きな声で手を振った。彼の網には、色とりどりの魚が跳ねていた。太郎は微笑みながら近づき、与三郎の肩をポンと叩いた。


「おかげで村も賑わっているな」


「そうそう、それより聞いてくだされ。今日、沖に出た時にでござるな、変なものを見たのでござる」


太郎の耳が反射的に動いた。


「変なもの?」


「ああ、遠くの岩場に、光るものがあってな。太陽の光で反射してるのかと思ったが、潜ってみるとあれは…」


与三郎は周りを見回し、声を潜めた。


「人の手みたいなもんでござった。でもヒレがあって…」


太郎の心臓が早鐘を打ち始めた。それは間違いなく、地底人の特徴だった。


「誰かに話したか?」


「いや、村長様にだけでござる。変なことを言うと、また頭がおかしいって言われるからのう」


与三郎は苦笑いを浮かべた。太郎は深く頷き、彼の腕をぎゅっと握った。


「その話は、しばらく内緒にしておいてくれ」


「わかりました、村長様の仰せのままに」


与三郎は不思議そうな顔をしたが、それ以上は詮索せずに立ち去った。


太郎は胸の奥で熱いものが込み上げるのを感じた。十四年前、祖父から聞いた話。そして、祖父の最期の願い。それが今、現実になろうとしているのか。


だが同時に、恐れもあった。かつての悲劇が繰り返されるかもしれない。自分が橋渡しになれるという確信も持てない。でも、もし自分がやらなければ、誰がやるというのか。


太郎は夕暮れの海を見つめていた。沖に浮かぶ小さな島影。そこに、もしかしたら…。


「太郎様、お母上がお呼びです。夕食の支度ができたそうです」


再びおつるの声が聞こえた。太郎の母・なつは村の長老の姉であり、おつるにとっては伯母にあたる。おつるは幼い頃から太郎を慕っていたが、太郎の心がいつも海の彼方へと向かっていることを知り、その思いを胸の奥にしまい込んでいた。村では二人を結びつけようとする声もあったが、おつるは決して太郎を縛るようなことはしなかった。


「ありがとう、すぐに行く」


太郎は最後にもう一度海を見た。夕日に染まる水平線の彼方に、未知の世界が待っているような気がした。そして、いつか必ず、その世界と地上を繋ぐ架け橋になると、心に誓った。


夜、一人になった太郎は、祖父から受け継いだ古い箪笥の引き出しを開けた。そこには、青い玉髄の欠片が、小さな木箱に大切にしまわれていた。太郎はそれを掌に乗せ、月明かりに透かして見た。玉髄の中には、まるで海の底のような青い世界が広がっていた。


「海と陸の記憶…」


太郎はつぶやいた。この石は、失われた友好のシンボルだ。そして、新たな絆を結ぶための鍵になるかもしれない。


明日は早朝から、与三郎が見たという岩場に行ってみよう。太郎は静かに決意した。


窓の外から聞こえる波の音が、まるで誰かの囁きのように感じられた。

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