サジタリウス未来商会と「記憶を紡ぐペン」
休日の午後、図書館の静けさに包まれながら、篠原佳樹は机に向かってノートを広げていた。
佳樹は32歳、出版社で働く編集者だ。
最近、担当する作家の原稿が一向に進まず、執筆のヒントを探すために資料を集めていた。
だが、ページをめくる手は止まり、視線は窓の外に投げ出されていた。
「他人の物語を作る手伝いばかりして、自分の人生はどうなんだろうな……」
かつては小説家を目指していた自分。
しかし、生活のために選んだ編集者という仕事に追われるうちに、いつの間にか自分の夢を忘れていた。
「自分の人生が物語になるなら、どんな話になるんだろう……」
ふと、視界の端に奇妙な光景が飛び込んできた。
図書館の奥に、古びた小さな机がぽつんと置かれ、その上に「未来商会」と書かれた看板が掲げられていた。
佳樹は半信半疑でその机に近づいた。
そこには、白髪混じりの髪と長い顎ひげを持つ初老の男が座っていた。
男は穏やかに微笑み、佳樹を見上げた。
「いらっしゃいませ、篠原佳樹さん」
「俺の名前をどうして知っているんですか?」
「ここを訪れる方のことは、すべて分かっています。そして、あなたが抱えている悩みもね」
佳樹は一瞬戸惑いながらも、好奇心に駆られて男――ドクトル・サジタリウスの前に腰を下ろした。
「俺の悩みって何なんですか?」
「それは、『自分の物語』をどう紡ぐべきか、ということでしょう」
サジタリウスは懐から一本のペンを取り出した。
それは、金属製のシンプルなデザインだが、ペン軸には無数の細かい模様が刻まれていた。
「これは『記憶を紡ぐペン』です」
「記憶を紡ぐ?」
「ええ。このペンを使えば、あなたがこれまで経験してきた記憶が物語として描かれます。忘れてしまった小さな出来事も、このペンが引き出してくれるでしょう」
佳樹は目を見張った。
「それで、自分の人生を物語にできるってことですか?」
「そうです。ただし、書き上がった物語をどう受け取るかは、あなた次第です」
佳樹は少し迷ったが、このペンを試してみることにした。
自宅に戻った佳樹は、机にノートを広げ、ペンを握りしめた。
ペン先を紙に当てると、まるで導かれるように自然と文字が綴られ始めた。
最初に浮かび上がったのは、小学校時代の記憶だった。
夏休みに友達と虫捕りに夢中になり、日が暮れるまで遊んだ日々。
「こんなこと、もう忘れてたな……」
次に出てきたのは、中学時代の記憶だった。
初めて好きになった相手に勇気を出して告白したが、振られてしまった瞬間。
そして、高校時代、大学時代――
ペンは、佳樹がこれまでの人生で出会った人々、経験した出来事を次々と紡ぎ出していった。
ペンが動きを止めた時、ノートには自分の人生の断片がびっしりと綴られていた。
佳樹はページをめくりながら、自分の人生の「物語」を読み返した。
「俺って、こんなにもいろんな人に支えられて生きてきたんだな……」
これまでの自分は、自分の人生がつまらないものだと思い込んでいた。
だが、ペンが紡いだ物語の中には、ささやかだが確かな喜びや感動が確かにあった。
数日後、佳樹は再びサジタリウスの机を訪れた。
「ドクトル・サジタリウス、このペンのおかげで、自分の人生を見直すことができました。でも、これを書いたところで、何が変わるんでしょうか?」
サジタリウスは静かに微笑み、答えた。
「物語を書くことは、過去を振り返るだけではありません。それをどう未来に繋げるかが大切なのです」
「未来に……?」
「あなたがこれからどんな物語を紡ぎたいのか。それを考える手助けになるでしょう」
佳樹はしばらく考え込み、ゆっくりと頷いた。
それ以来、佳樹は日々の生活の中で、自分の物語を紡ぎ続けた。
些細な出来事も、どこかに価値があると感じられるようになった。
職場では、担当する作家に新たな視点を提案し、互いに作品を高め合うことができた。
ある日、佳樹はふと呟いた。
「過去の物語もいいけど、やっぱりこれからの物語をどう書くかが大事だよな」
サジタリウスは静かな図書館の片隅で、新たな客を迎える準備をしながら、どこか満足げに微笑んでいた。
【完】




