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福岡市にはなぜ藩主の銅像がない?

作者: 三野原明音

 福岡には藩主の銅像がない。

 この問題は、ながらく、歴史好きの博多っ子の頭を悩ませてきた。


 たしかに、著名な観光地には駅前などに藩主の立像や雄々しい甲冑姿の馬上像が置かれていることが多い。

 博多もそうに違いない、と期待して駅の広場を訪ねる旅行者も少なくない。が、実際に行ってみると、そこにあるのは、初代藩主・長政公の家臣・母里太兵衛が福島正則から名槍日本号を呑みとった場面を再現した黒田武士像と、戦前に一世を風靡したという博多芸妓の舞姿像の二体だけだ。


 たしかに、いずれも名作である。太兵衛の泰然自若とした姿と、一時はこの地に千人もいた、という博多芸者の嫋やかさが見事に活写されている。が、しかし、やはり一抹の割り切れなさも残る。 

 NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」の熱心な視聴者だった方ならば、特に違和感を覚えるのではないか。


 なぜ福岡には藩主像がないのだろう。いや、それでは逆に、藩主像を町の象徴としている都市は、いったいどれくらいあるのだろうか。気になって調べてみた。


 幕末の日本の藩の数は約三百ほどあったそうだ。そして、その中でも福岡は石高で第七位にランクインしている。押しも押されぬ大藩だ。そこで、福岡以上に大きい藩をまずピックアップしてみる。


 六位以上で徳川御三家と呼ばれる親藩をのぞけば、福岡より大きい藩は四つある。それは、一位加賀藩(金沢)、二位薩摩藩(鹿児島)、三位伊達藩(仙台)、四位肥後藩(熊本)だ。


 この四つに絞って、藩主の立像はあるのか。

 それが、確かにあるのだ。加賀藩は前田利家公、薩摩藩は島津公、伊達藩は伊達政宗公、肥後藩は加藤清正公、といった具合だ。


 これだけ見れば、ますます福岡の状況が特異に見えてくる。

 原因はどこにあるのか? そのひとつに、私は、治世の長さがあるかもしれない、とふと考えた。


 ご承知のように、島津家、伊達家は、鎌倉時代からの守護大名として地域を支えてきた一族だ。ゆえに、人々が地元の英雄として担ぎ上げたい気持ちもよく分かる。

 一方、福岡藩祖の黒田孝髙公(官兵衛)については、備前、現在の岡山県から来た他国出身者である。ちなみに、福岡という名は、孝高公の故郷から付けられた。


 理由はこれに違いない、と一時私は確信しかけた。

 が、よくよく考えると、二位の前田利家公と四位の加藤清正公、いずれも尾張から出ており、孝高公同様、他郷出身者であったのに銅像はある。どうやらこれは決定打ではなさそうだ。


 では、江戸末期における福岡藩の立ち位置が影響しているのではないか? これは藩主の銅像不在を裏付ける、割とポピュラーな説とされてきた。


 当時の福岡藩の状況を振り返ると、開明的な思想の持ち主であった藩主・長溥公が「尊王佐幕」の理念を掲げ、平和的な公武合体に近い落とし所を模索していた。

 ゆえに、藩内では思想的に勤王派が主流となりつつある中でも、守旧派の意見は尊重され、互いの派閥が微妙なバランスの下に成り立っていたのである。

 このような時代背景もあって、長溥公は常々勤王派の性急な提言や行動にも寛容の精神で臨んできたものの、一八六五年、一部の過激派によるクーデター紛いの発言、自らが目をかけていた有力な藩士らの暗殺などが相次ぎ、ついに勤王関係者百四十人の逮捕を決断。

 結果、家老、藩士以下、有意な人材に次々と切腹、斬首、流罪が言い渡された。

 これがいわゆる乙丑の獄だ。


 この事件で勤王派が一掃されたことにより、藩内では佐幕派が息を吹き返すものの、のちに戊辰戦争の借金返済を贋札偽造で乗り切ったことが新政府に露見し、今度は佐幕派関係者が藩主を護るために切腹。

 まさに藩一大事の際に人いずこにもおらず、の状況となったのである。


 これら一連の流れから、勤王派への苛烈な粛清が維新の時流に乗れなかったそもそもの原因、として、福岡藩の執政責任を問う向きも多い。

 たしかに藩の重鎮や中央政府に渡り合えるほどの人材が維新後も生き残っていれば、既に適切な時期に藩主の銅像を建てる、という機運も早々に盛り上げっていたことだろう。

 銅像不在説の大きな要因としては、やはり乙丑の獄を一つの契機と見なす説が有力といえる。


 さて、以上、これらの藩主像不在の考察を踏まえ、私の意見は、と問われれば、個人的にはぜひ銅像はあってほしい。が、今、一部で言われているように、像を観光の目玉にしよう、という意見を聞くと、それだけで良いのか、と問う自分もいる。

 たしかに、福岡ほどの街の規模であれば、行政や市民がその気になれば新設も十分可能だろう。しかし、その建立の柱となる精神が、地域振興だけであってはならないとも思う。

 まずは約三百年の間、ここ福岡を命がけで治世した黒田家に対する感謝の念。そこにどれだけ我々がフォーカスすることができるのか。

 始まりはすべて、そこからのような気がしている。


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