8.彼女の帰る場所
馬車の外に出たヴィオラは、外の様子に唖然とした。
まず、馬車を引いていた馬と操っていた御者の姿が凍っていた。足の爪先から頭の天辺まで氷に覆われ、氷像になっていた。先ほどの衝撃は馬の足が凍りつき、いきなり動かなくなったからだとすぐにわかった。
引きずり出されて消えた男は、地面に倒れていた。彼の目は驚いたているのか怯えているのか、きょろきょろと動いているが何も喋らない。いや喋れないのだ。彼もまた鼻から下の体が凍っているからだ。手足も凍っているので倒れたまま動けない。
そしてヴィオラの対面に座っていたもう一人の男は、白銀の甲冑姿の騎士に剣を突きつけられ馬車の外に出てきた。
アレクシスの手によって、一瞬にしてこの場は制圧されていた。
「アレクシスさん、どうしてここに!?」
馬車の外は氷が広がっているせいで、今は春だというのに肌寒くなっている。口を開くと吐く息が白くなっていた。
ヴィオラはアレクシスに近づくと、彼は男から目を逸らさずに、問いに答えてくれた。
「君に贈ったブローチ。身につけたら居場所がわかるように魔法をかけてあった。使用人たちから君が消えたと連絡を受けて、ブローチを頼りに追いかけてきた」
「な、なんですと!?」
思いがけない事実が明かされ素っ頓狂な声が出てしまった。
「あと遠距離でも会話ができるように、通信魔法もかけてある」
「……ってことは、今までのことは聞こえて…」
「男の声が君に呼びかけた頃に通信魔法を発動させたから、その後からの会話は聞いていた」
「最初から全部聞いてたってことじゃないですか!!」
驚愕のあまり声を上げると、気まずそうな彼の声が返ってきた。
「本当はもっと早く馬車を止めることもできたんだが、迷っていた。君は本当は戻りたいのかと思って…。だから君の答えが聞けて良かった」
男と対面しているアレクシスの顔は見えないが、安堵している声に変わっていた。
「少し前からフリューリンク伯爵が行方不明になった娘を探しているという噂が流れていた。もしやと思い君の下宿先を訪ねたら、メルツ先生の居場所を聴きに男たちがやってきたという話を大家から聞いた。だから万が一と思って、そのブローチを用意したんだ」
薔薇園でブローチをもらう前、彼は気になることがあると言っていた。それは噂のことだったようだ。
「用意して良かったよ。だが、まさか強引に連れ去ろうとするとは思っていなかった」
すっとアレクシスの声が低くなった。
両手を挙げ抵抗の意思がないことを示している男が、じっと彼を睨む。
「ヴィオラ様がアレクシス=アインホルン卿の屋敷にいると聞いたときは驚いたが…。まさか追いかけてくるとは。ヴィオラ様を屋敷に置いて何が目的だ?」
「俺はただのファンだ。メルツ先生に小説を書いて欲しいだけだ」
男は目を見開いたまま固まった。いや、剣を向けられているから動けないのは確かなのだが、それとは別に意味が飲み込めずに固まっているのだと、ヴィオラにはわかった。
(どう説明したらいいんだろう、これ?)
男に今までの経緯を説明すれば良いのか、どう説明すれば良いのかも判断が付かずヴィオラは途方に暮れる。
しかしアレクシスは説明は不要と判断したようだ。
「魔法を解いてやってもいい。その代わり伯爵の元に戻って、ヴィオラ=フリューリンクは見つからなかったと報告して欲しい」
彼は男たちと交渉を始めた。
「断れば?」
「誘拐未遂としてこのまま連行する」
「父が行方不明になった娘を連れ戻そうとしただけだ」
「だとしてもやり方が強引だったな。伯爵はまるで誘拐犯のように娘を連れ戻したと噂が広まれば、お前たちの主人の評判は落ちるぞ。逆に自分が命じたことではないとお前たちを切り捨てるかも知れないな」
それは暗に噂を流すぞと言っているも同然だった。
「我々を脅すつもりか?」
「脅す? 俺は一人のファンとしてメルツ先生の願いを聞いて欲しいと頼んでいるだけだが? お前が俺の頼みを聞いてくれないのなら騎士としての職分を果たすまでだ」
アレクシスは脅しではないと言うが、とてもお願いしている態度ではないとヴィオラはこっそりと思った。
「……わかった。ヴィオラ様は連れて行かない。見つからなかったと報告しよう」
男の言葉を受け、アレクシスは氷漬けにした魔法を解除した。
魔法を解いた後も彼は警戒を怠らず剣を構えていたが、自由になった男たちからは刃向かおうという気力が感じられなかった。彼らは氷から解放された馬車に乗り込むと、この場から立ち去っていった。
男たちの姿が見えなくなったのを確認してから、アレクシスは剣を腰の鞘に戻した。
魔法が解かれたから、凍りつくほどの寒い空気も暖かい春の風に流されて消えてしまった。
アレクシスがヴィオラの方を向く。
色々あったが、元は言えば彼に何も言わずに勝手に外に逃げてしまった自分が悪かった。
“氷の騎士”は言うことを聞かない部下を氷漬けにしたのだ。自分もまた凍らされるのだろうかと、視線が合うと思わず体がびくりと震えた。
「怪我はないか」
「は、はい」
しかしヴィオラの予想に反して、アレクシスはこちらを心配そうに見つめているだけだった。
「あ、あの、怒らないんですか? 勝手に外に出たのに…」
「君に何もなかったのならいいんだ」
アレクシスはヴィオラから離れると、少し離れた場所に佇んでいた白馬に近づいた。この馬でヴィオラを追いかけてきてくれたのだろう。仕事の邪魔もしてしまって、ヴィオラは申し訳なく思った。
アレクシスは馬の顔を撫でて、ヴィオラに尋ねる。
「俺は今から騎士団本部に戻るが君はどうする? 自分の下宿先に戻るか?」
「え…?」
「君は自分の書きたいものを見つけたんだろう? だったら、もうどこにいても書けるはずだ」
「でも屋敷で書けって言っていましたよね…?」
「あのときの君はスランプで辞めようか迷っていた。俺はそれを止めたかった。でも今の君は書くと覚悟を決めた。だったら自分が執筆しやすいところで書けばいい」
帰りたい場所に送っていくよ、とアレクシスは言う。
だったら今まで住んでいた下宿先に戻ってもいいのか、とヴィオラは迷ったが、少し考えて答えを決めた。
「アレクシスさん、私、あなたが笑ってくれる話を書きたいです」
「……俺?」
アレクシスが目を丸くした。今まで表情をあまり動かさなかった彼が、びっくりした顔をしたのでヴィオラは少し微笑んだ。
「はい。薔薇園で見たあなたの笑顔が素敵だったから、私が書く物語であなたにもう一度笑って欲しいと思ったんです。最初は自分の気持ちを否定して、逃げ出してしまいましたがやっぱり私はそうしたい」
自分の気持ちを正直に話すのは、少し恥ずかしかった。だが決意を込めて、アレクシスに話をした。
「私が幼い頃、最初に物語を書いたときも、お話を聴いてくれた男の子に楽しんで欲しくて書いていたんです。アレクシスさんのおかげで昔のことを思い出すことができました」
「!」
「この気持ちを忘れたくない。下宿先に戻ったらいつもの自分に戻って忘れてしまうかもしれない。だから、ご迷惑をお掛けしますがアレクシスさんのお屋敷で執筆に専念したいのです。新作が書けるまで、引き続きお屋敷に住まわせてもらっても良いでしょうか?」
ヴィオラは頭を下げる。しかしなかなか返事がこなくて、恐る恐る顔を上げた。
アレクシスが口元を抑えて固まっていた。
「……あ、アレクシスさん?」
「すまない。推し作家に頼られるなんて本望すぎて、感動して、言葉を失ってしまった」
「あ、はは…」
ほんのりと彼の頬が桜色に染まっているように見えた。しかしアレクシスは一瞬にして顔を引き締め、ヴィオラに向かって手を伸ばした。
「では、戻ろうか。メルツ先生」
ヴィオラは笑って、手を取った。
アレクシスはヴィオラを白馬に乗せると、彼女の後ろにまたがり、馬の手綱を握った。馬に慣れていないヴィオラに気遣ってか、馬をゆっくり歩かせていた。
「楽しみだ、メルツ先生の新作」
背後から声がした。密着しているので耳元で囁かれているような錯覚を覚え、どきりと心臓が跳ねた。
やはり、自分のおかしな状態は治っていない。
しかしヴィオラはそれについて考えるのをやめた。この感情に名前を付けたくなかったからだ。箱の中に入れ、鍵をかけ、心の奥深くに沈めることにした。
第一、彼は作家先生とファンとの関係でいたいと言ったのだ。だったら自分もそうであるべきだ。
そして新作を書くために屋敷でお世話になると決めたのだから、おかしな状態に振り回される訳にはいかない。
(そう言えば、アレクシスさん、伯爵が娘を探している噂を聴いたって言っていたけど、どうしてその娘が私だってわかったんだろう。私が伯爵令嬢だって知ってもあまり驚いてないみたいだし…)
ヴィオラがぼんやりと疑問に思ったときに、二人は屋敷に辿りついた。
最初は眠っていたから気がつけば屋敷の中にいて、そして逃げたときは余裕が無かったから見ていなかったが、外から見るアインホルン邸は大きかった。
ここで今から執筆活動をする。原稿用紙と向き合い続ける、ヴィオラの戦いが始まる。
もう逃げたりはしない、と決意を新たにしたとき、心の底に沈めた感情も疑問も、もう彼女の頭を支配することはなかった。