6.逃げる
翌日、朝食後、ヴィオラはテーブルの上に原稿用紙を広げるとペンを手に取った。
アレクシスからはあまり執筆のことを考えずに休めと言われたが、そうはいかない。書かなければ、屋敷からいつまで経っても出られないのだから。
ペンはいつものように動かない。今までは自分の書きたいものがわからかったから動かなかったが、今回は違う。原稿用紙に向き合うと、動悸が速くなり顔が火照り、ヴィオラはペンを放り出しテーブルに突っ伏した。
「ダメだ。またアレクシスさんのこと考えちゃっている…!」
ヴィオラの頭の中に浮かんでいるのは執筆のことではなく、アレクシスの笑顔だった。
薔薇園で見た彼の笑顔が脳裏に浮かび、ヴィオラはネタを考えるどころではなくなっていた。
ヴィオラはおかしくなっていた。
ふとしたときに彼の笑顔を思い出してしまっているのだ。
夕食を食べているときも、お風呂を借りたときも、ベッドに入ってからも。
意識して思い出そうとしていないのに、まるで彼の笑顔が瞼の裏に焼き付いてしまったみたいだ。
そして思い浮かべてしまった後は、ヴィオラは先ほどのようにおかしくなる。心臓の動きがおかしくなり、そのせいか顔が熱くなり頭がぼーとしてしまう。
途中ハッと我に返り、彼のことを考えていた自分が恥ずかしくなり、考えないようにしようと思うが気がつけば考えている…という行動を繰り返している。
(アレクシスさんが笑ってくれる話ってどんな話だろう…。ってこれじゃあ、私、アレクシスさんに笑って欲しくて新作を書きたいみたいじゃない…!)
ヴィオラは一回頬を叩いて冷静になろうとしたが、ダメだった。
これではスランプで書けない以前の問題である。
応援してもらって自分の作品を好きだと言ってくれて、期待に応えたいのに、今の自分はまるで書くことすら考えられない。
しかも、こんな状態の自分がアレクシスと会ったらどうなるんだろう。昨日は早くに屋敷に戻ってきたから、今朝、彼はすでに仕事に行っていなかった。だから何も起きなかったのだが顔を合わせてしまえばもっとおかしくなりそうだ。
ヴィオラは自分が怖かった。
テーブルに突っ伏したまま、ヴィオラは悩み、そして結論をつけた。
「逃げよう」
屋敷から逃げ出すのは無理だと思っていたが、意外とうまくいった。
一週間屋敷で過ごしていたから、使用人たちがいつ部屋にやってくるか、誰がどこで何をしているのか大体わかってきたからだろう。屋敷を自由に動き回ることを許されているから内心ビクビクしながらも堂々と歩き、時に使用人たちの目から隠れながら移動して、気がつけばあっさりと屋敷から出られていた。
そして、ヴィオラは誰もいない街道を歩いていた。
衝動的に屋敷を出てきて何の計画もしていないので、行く当てもなく、そのまま歩くしかなかった。
屋敷の窓から見えた湖が、近くにあった。湖は王都に隣接しているフェア湖だろう。大体の場所がわかるのは安心だが、歩いて王都にある下宿先まで帰るのは、一体どれほどかかるだろうか。
使用人が様子を見に部屋を訪れる時間はまだなので、ヴィオラがいなくなっていると気づかれるのはまだ時間がある。
世話になった礼は手紙を書き、部屋のテーブルに置いてきた。不義理な気がしたが、このまま屋敷にいるとアレクシスのことばかり考えて、自分がおかしくなってしまうから仕方が無かった…とヴィオラは自分で自分に言い聞かせた。
歩いていると、視界の端でキラリと何かが光って、ヴィオラはブラウスの襟につけたブローチを思い出した。
(しまった…。外してくるのを忘れてた…)
屋敷に戻ろうかと迷ったが、そのまま進むことにした。
(だって屋敷に戻ったら、私、アレクシスさんに笑って欲しくて新作を書きたくなっちゃうよ。不純すぎるよ! 早くスランプを治さないといけないのに。もっと真面目に小説について考えないといけないのに…)
ずきんと足が痛んだ。足を挫いて一週間ほど経ち、もう痛みを感じなくなったから包帯は取ってもらったのに、今更痛みがぶり返してきた。
(でも、それっていけないこと?)
頭の中でもう一人の自分が反論した。
(昔だって、物語を聞いてくれた男の子に笑って欲しくて書いていたでしょう? その頃は楽しく書いていたじゃない?)
幼い頃はスランプなど関係なかった。ただ自分と目の前の男の子が楽しければよかったのだ。
だから昔のように、アレクシスに笑って欲しくて書いてもいいじゃないともう一人の自分は言う。
(でも今は違うでしょ)
ヴィオラは内なる声を否定した。
(書いた文章にダメ出しされるかもしれない。読んでもらってもつまらないとがっかりされるかもしれないし、そもそも読んでもらえないかもしれない。……だから真面目に、真剣に考えないといけないんだよ)
痛みを感じながら歩いていたが、足を動かすのが辛くなってきた。
(でもそうやって、段々と書けなくなっていったんでしょ。真面目に考えるって何? ただ怖くなっているだけじゃない)
段々と頭の中の声がうるさくなってきた。全て自分が自分に問いかける声なのだが、考えないようにしても消えてくれなかった。
声を振り払うように足を進めていたが、痛みは何かを主張するように強くなり、ヴィオラは限界を感じて足を止めた。
(そうだよ)
ヴィオラは認めた。
いや、初めから薄々わかっていたのだ。でも目を背け、考えないようにしてきた。だけど今になってようやく認めることができた。
(私は、自分の書いたものを失望されるのが、怖くなったんだ)
父は、貴族なら生まれついて持っている魔力を持たずに生まれたヴィオラに失望した。
役立たずと見なされてずっと実家では居場所が無かった。家族の顔色を伺い、息を殺して生きていた。そのときの息苦しさをヴィオラは知っている。
家を追い出された後は、ヴィオラはシュネー=メルツという小説家として居場所を得た。
だからシュネー=メルツを育ててくれたゲルダを、本を読んでくれた読者を、そして応援してくれている人の期待を裏切りたくなかった。居場所を失いたくなかったのだ。
しかしヴィオラが期待に応えたいと意気込むほど、思い悩み、目の前の書いているものが本当に面白いのかどうかわからなくなってしまった。
(本当はわかっていた。私は、書いているものが皆に楽しんでもらえるかどうか信じられなくなった。だから段々書けなくなって、スランプになったんだ)
すとんと腑に落ちると、体が軽くなったような気がした。
少し前の自分なら原因を認めたところで、じゃあどうすればいいのかわからず、結局元に戻っていただろう。でも今は違う。
自分の物語を好きだと言ってくれる人がそばにいてくれたから。
(もう一度、信じてみよう。だってアレクシスさんは言っていたもの。私の最初の話が一番好きだって。あれは私が書きたいものを書いた話だ。もう一度、自分の書きたいものを信じて、書いてみよう)
そのときだった。
「ヴィオラ=フリューリンク様、ですね」
思考を遮るかのように知らない男の声が背後から聞こえてきた…と思ったら、手首を握られていた。
足を止めて考え事をしていたから、いつから男がいたのかわからない。
しかしそれ以上に不可解だったのは、男がどうして自分の名前を知っているのかということだった。それも屋敷を出てから名乗っていない、フリューリンクの名前を。
「どちら様ですか…?」
後ろを振り返ろうとしたら、馬の蹄の音とガラガラと車輪が回る音が段々と大きく聞こえてきて、ヴィオラの隣に馬車が停まった。
「我々と共に来ていただけますか?」
手首を強く握られ、ヴィオラは自分に拒否権がないことを悟った。