5.氷の騎士の笑顔
(話ってなんだろう…。まさか、進捗聴かれる!?)
一週間屋敷で暮らしていて、アレクシスとはもちろん顔を合わせてきたが、今まで執筆がどうなっているのかは聞かれたことはなかった。
だからそろそろ聴かれるのでは無いかと予想をしていたが、悪夢を思い出し、体が勝手に震えだした。
「メルツ先生、そろそろ…」
「うわー!! ごめんなさい。まだ何も書けてないです、ネタも思いついていないです! ただ飯喰らってぼーと過ごしてごめんなさい! こ、氷漬けにしないでくれると…嬉しいです!!」
「氷漬け? どうした、いきなり?」
アレクシスは怪訝な顔をした。ヴィオラは首を傾げる。
「……進捗の話ではないのですか?」
「違う」
きっぱりと否定したアレクシスは、懐から一冊の本とペンを取り出した。それはドロシーが持っていた本と同じ、ヴィオラのデビュー作の本だった。
「サインをくれないか」
「………サイン?」
「本当は会ってすぐに欲しかったんだが、屋敷で休んでもらっているのに執筆を思い出させることを頼むのはどうか…と思って言い出せなかった。でも、そろそろ君もここでの暮らしに慣れて、余裕が出てきたかもしれないと思ったんだが…。迷惑だっただろうか」
覆面作家なのも相まってサインを求められたことなどなかったから面食らっていると、アレクシスがどこか顔色をうかがうように言った。
「いえ、そんなことはありません! 書かせていただきますね!」
ヴィオラは慌てて本とペンを受け取る。
表紙にサインを書き込んでみるが、慣れていないせいで文字がぎこちない。
これでいいのだろうかと思いつつも返すと、アレクシスはじっと表紙を見つめていた。
「……ありがとう、家宝にする」
表情はいつもと変わらないが、どこか雰囲気が柔らかくなった気がする。喜んでくれたようだ。
(“氷の騎士”様も冗談言うんだなあ…)
ヴィオラが内心ほっこりしていると、彼が真剣なトーンで呟いていた。
「虫食い防止の魔法を施した後、金庫に保管しなければな…」
(もしかして冗談じゃない!?)
「どうした、メルツ先生。……ああ、これは“保管用”。“普段読む用”と“布教用”は別に確保してあるから安心してくれ」
「三冊も持っているんですか!?」
「当然だ」
何に対して安心しろというのだろうか。そして何が当然なのか。ヴィオラは戸惑ってしまった。とりあえず息を吐いて、落ち着こうとした。
「……本当に私の本を読んで下さっていたんですね。ちょっと驚いてしまいました」
最初はアレクシスが本当に自分の本を読んでいるファンなのか疑問視していたが、ここまで来たら“氷の騎士”が自分の作品を読んでくれているのは現実なのだと認めざるを得なかった。
「心外だな。読んでなければファンではないし、ファンではないのならアレは贈らない」
アレクシスの視線の先には、青薔薇が植えてあった。薔薇園は色とりどりの薔薇が咲き誇っているが、青薔薇が咲いている一画は特に幻想的に見えた。
「いつも贈ってくれた青い薔薇は、ここで育てているものだったんですね。綺麗…」
ヴィオラは青薔薇に近づいた。甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「いただいた青薔薇は花瓶に入れて飾っていたんです。そばに置くとなんだか応援してもらっているみたいで、執筆の励みになっていました。贈ってくれてありがとうございます」
「推し作家を応援することは、ファンとして当然のことだ。君は気にしなくていい」
彼はいつものように素っ気なく言ったが、ややあってぽつりぽつりと呟いた。
「……でも喜んでくれて良かった。何を贈ったらいいかわからなくて、父が母に贈った青薔薇を思い出して、女の子だったら花が好きかなと思ったんだ。だから気に入ってくれて嬉しいよ」
(……ん?)
「どうした、メルツ先生?」
「……い、いえ、何でもないです」
何かが引っかかったが、それが何なのかヴィオラは思い至らなかった。
しかし今のアレクシスは、いつもと違い雰囲気が柔らかい。機嫌が良いのだろうか。“氷の騎士”としての固い雰囲気ではなく、年相応の青年のように見える。
ヴィオラは思い切って、かねてからの疑問を尋ねてみることにした。
「……アレクシスさんは、どうして私の作品が好きなのですか?」
「ん?」
「私の作品のどういったところが好きなのかな…と不思議に思っていまして…。教えてもらえると嬉しいです」
「そうだな…」
彼は腕を組んで口を閉じた。いつもきっぱりと答えていたアレクシスだったが、悩んでいるようだった。
そのまま時間が流れ、もしかして好きなところがないのだろうか…とヴィオラが怖くなったとき、彼は口を開いた。
「君のデビュー作に出会ったのは、俺が王立騎士団の副団長に就任したばかりの頃だ。そのときの俺は選ばれた期待に応えようとしていたが部下がついてこなくてな。副団長の重責に押しつぶされそうだった。そのとき君の本を読んで、救われた」
「救われた?」
「ああ。君のデビュー作の勇者が頑張っている姿を読んで、俺も頑張ろうと思えたんだ。うん、君の物語で元気をもらえた…というのかな。……すまない。説明しようとすると難しいな。気持ちを言葉にするのは苦手なんだ」
少し驚いた。いつも無表情で淡々としているから、彼には自信が無いことなどないのかと思っていた。しかし氷の仮面の下では彼も自分と同じように、人間らしい悩みがあったのだ。
「……あれ、もしかして、メッセージカードが毎年同じ一文なのは…」
ふと思いたってヴィオラが聞くと、ぎくりと彼の肩が震えた気がした。
「……うん。応援していると伝えたいけど、言葉が出てこなくて…。かといって、言いたいことを書くと長くなるから、長文贈られても気持ち悪いだろうと思って悩んだ結果がアレだ」
アレクシスがバツが悪そうな顔をしたので、思わず笑ってしまった。
「一文でも嬉しいですよ。好きなことを説明するのは難しいですよね。好きなものは好きですから。私も気持ちはわかります」
ヴィオラは昔、母が自分に物語を語り聞かせてくれるのが好きだった。幼い頃はどうして好きなのか理由なんて考えもしなかったが、今にして思うと、語ってくれる物語が面白いかどうかは関係なく、母が自分を想ってそばにいてくれることが好きだったんだろう。
「……でも、そうだな、言葉にするとすれば、初めて君の物語を聞いたとき世界が色付いた感覚がした。辛いときも苦しいときも君の物語を思い出せば、勇気が出た。いつでもそばにいてくれる感覚がした。……君の物語のそんなところが、俺は好きだ」
アレクシスは口もとを和らげた。目尻が下がり、声も柔らかい。
(笑った…)
“氷の騎士”と呼ばれるほどの冷たい印象はかき消え、春の暖かさが感じられる穏やかな顔をしていた。童話に出てくる王子様のような青年が目の前に現れたようだった。
「君が書いた話はどれも好きだが、特に好きなのが最初の本だな。文章は荒削りだが、君の個性が出ていた。……そうだ、メルツ先生。これを」
見とれているヴィオラに彼が差し出したものは、菫色の宝石がはめ込まれたブローチだった。日の光を反射してキラキラと輝いているように見える。
「うわあ、綺麗…。これ、どうしたんですか…って、わあ!」
アレクシスはヴィオラに一歩近づき、いきなり顔を近づけてきた。こちらをまっすぐに見つめてくる蒼い瞳は宝石よりも輝いて、ヴィオラは息が止まりそうになった。
「仕事からの帰りに露店で売っているものを見つけた。君の瞳と同じ色だったから思わず買ってしまった。……うん、予想通り、似合うな」
見ると、ブラウスの襟にブローチがつけられている。
「よかったら身につけてくれると嬉しい。サインの礼だと思ってくれ」
突然のことにヴィオラは口をパクパクとさせてはいたが、何も言えなかった。
心臓がうるさいほどに鳴り響いていた。頭がぼーっとして耳まで熱くなっているとわかる。顔が赤くなっているのを見られるのが恥ずかしくて、ヴィオラは俯いた。
「メルツ先生はもしかして寝不足か? 目元に隈が出ている。もしかして夜も執筆のことを考えているのか?」
「……え? そ、そうですね。いつまでもお世話になっているわけにはいかないですし、早く書けるようにならないと」
やっと心臓が落ち着いて言葉を出せるようになった。“氷の騎士”が怖くて夢見が悪いとはさすがに言えなかった。
「……そうか。でもあまり執筆のことを考えずに休んで欲しい。焦りは禁物だ」
「でもアレクシスさんは、私に早く書いて欲しいのでは…?」
彼が強引に屋敷に留め置いているのは、ヴィオラにスランプを治して物語を書いて欲しいからのはずだ。
青薔薇を毎年贈り、自分の本を三冊も確保し、使用人たちにも布教しているという熱意を持っているのなら、早く読みたいはずだろう。
「そうだな、本音を言えば俺は君の新しい物語を読みたい。……でも執筆に根を詰めて自分を追い詰めて欲しくない。君が書きたいと思ったら書けばいいんだよ。俺はいつまでも待てるから」
そして彼は言った。
「マーサに頼んで気分を落ち着かせるハーブティーを夕食後に用意させよう。よく眠れるはずだ」
そろそろ戻ろうか、と促され二人は薔薇園を後にした。
(強引だったり、ちょっとズレていたりするけど、私のこと思ってくれているんだよね…)
ヴィオラはアレクシスの横顔をちらりと盗み見た。先ほど見せてくれた笑顔は消え、元の表情に戻っている。今まで見てきた“氷の騎士”の顔と変わらないが、もう怖いとは思えなかった。
(……もし、私が新作を書いたら、アレクシスさんは笑ってくれるかな…)
ふと思い浮かんだ思考にヴィオラは足を止めた。
「どうした、メルツ先生。足が痛むのか」
アレクシスも立ち止って心配してくれたが、挫いた足が痛くて足を止めたわけじゃないので、ヴィオラは慌てて否定して歩くのを再開した。
(あれ、今、私、何考えてた? アレクシスさんにまた笑って欲しいって思ったの…?)
その日の夜、夕食後マーサがアレクシスが頼んだハーブティーを用意してくれたおかげで、寝付きは早かった。
自分のことを『役立たず』と追い詰めるアレクシスは夢に現れなかった。
代わりに、優しく微笑むアレクシスを夢に見てしまった。