3.書かないと出られない屋敷
ズキズキと頭が訴える痛みでヴィオラは目を覚ました。
完璧に二日酔いだ。まだふかふかの枕に頭を埋めていたいと思うほど、体を動かすのは億劫だった。
(……ん? ふかふか?)
自分がいつも使っている安物枕とは違う感触に、ヴィオラは跳ね起きた。
驚いた。自分は今まで天蓋付きのベッドに眠っていたのだった。もちろん、自室のベッドではない。
ベッドを取り囲むように薄いレースのカーテンが広がっている。手を伸ばしてカーテンを開くと、知らない部屋の景色が飛び込んできた。
自分が暮らしている下宿部屋よりも広々とした空間だった。細かな装飾が施された品の良い調度品が室内には置かれ、部屋の中は差し込んだ日の光できらきらと輝いているように見える。清掃が行き届いているのだろう。
「ここ、どこ?」
現実が理解できずに、ヴィオラはベッドの上で固まっていた。頬をつねってみる。痛い。ということは夢じゃない。
ゲルダに呼ばれて、贈られた青薔薇を受け取りに行って、その後お酒を飲んで朦朧としながら家に帰ろうとしたことは覚えている。そこでヴィオラはハッとした。
もらった青薔薇は花瓶に飾られて、ベッドの横の窓辺に置かれていた。無くしていなかったことに胸をなで下ろす。
ベッドから足を降ろし立ち上がろうとしたとき、痛みが走ってベッドに座り直してしまった。見ると右足の足首に真っ白な包帯が巻かれている。
そう言えば家路に向かっていた途中、酔っ払ったせいで盛大に転んでしまっていた。誰かが手当をしてくれたのだろうか。
そのとき、コンコンとノックの音が聞こえた。失礼します、とドアを開けて入ってきたのはメイド姿の老婆だった。
「よかった、目を覚まされたのですね」
彼女は体を起こしているヴィオラに気づくと、にっこりと微笑んだ。しわが刻まれた顔はどこか人が良さそうに見えて、ヴィオラはほっとしたのと同時に彼女に問いかけた。
「あ、あの、ここはどこですか? 私、どうしてここにいるんですか?」
「落ち着いて下さい。すぐに当主代理を呼んできますわ。説明はあのお方がして下さいますので」
「当主代理?」
少々お待ちを、と言ってメイドは立ち去っていった。
しばらくしてから、またノックの音がした。はい、とヴィオラが返事をすると、失礼すると今度は男性の声がしてドアが開かれた。
入ってきた人物は、息を呑むほど美しい青年だった。
さらさらと流れる銀髪、湖面のような蒼の瞳。その端正な顔立ちには見覚えがあった。ゲルダがヴィオラに見せてくれた新聞記事に写っていた“氷の騎士”だ。
「アレクシス=アインホルン…様!?」
青年の形の良い眉がピクリと動いた。
ヴィオラは失礼に当たると思い、毛布をはね除けて慌てて立ち上がろうとしたが、彼が止めた。
「そのままでいい。楽にしてくれ。しかし、シュネー=メルツ先生に名前を覚えてもらっていたとは光栄だな」
ヴィオラは一瞬、自分の耳を疑った。
「ななな、なんでアレクシス様が、私がシュネー=メルツだって知ってるんですか…!?」
血の気がさっと引くのを感じた。
筆名を使っているのは、実家にバレたくないからだ。それゆえシュネー=メルツとして顔出しをしたり年齢や性別などの個人情報も公表していない。彼女がシュネー=メルツだと知っているのは、ゲルダを含め仕事関係の一部の人だけだ。
だから自分の姿を見て、シュネー=メルツだとわかるわけはないのだが。
「君が、俺が贈った青薔薇を持っていたからだ」
さらなる衝撃がヴィオラを襲った。
「アレクシス様が青薔薇の君…!?」
「青薔薇の君…? すまないが、その話は後でしよう。君は昨晩、路上に座り込んでいて俺が話しかけたら意識を失った。怪我をしているようだったから屋敷に運んで手当をしたのだが、痛むか?」
老メイドが持ってきた椅子に座り、アレクシスが説明をしてくれた。聴き終わる頃にはぼんやりとした記憶がはっきりとして、ヴィオラは顔から火が出るんじゃないかと思うほど恥ずかしくなった。
確かに酔っ払って転び、騎士に話しかけられたことは憶えている。まさかその騎士が“氷の騎士”だったなんて。そして“氷の騎士”に酔っ払いの怪我の手当までしてもらったなんて、ヴィオラは昨日の自分を呪いたくなった。
「……す、すみません。昨日は酒を飲んでいて酔い潰れたみたいです。ご迷惑をおかけしてすみませんでした。ありがとうございます、アレクシス様」
「礼はいらない。あと様もいらない。シュネー=メルツ先生。俺は君とは一人の読者と作家先生の関係でいたい」
「……いえ、でも王立騎士団の副団長様に対して失礼な物言いは…」
「いらない」
できません、と言おうとしたが、ぎろりと睨まれて口を閉じてしまった。
「……あ、アレクシス……さん」
有無を言わさぬ圧を感じてヴィオラが言い直すと、彼は頷いた。
(やっぱり、ちょっと怖い…)
ここにやってきてから彼の表情は少しも変わっていない。
吊り上がった眉に、口元は引き締められていて口角がぴくりとも上がらない。見惚れるほどの顔立ちをしているが、まるで氷の仮面をかぶっているかのようだった。
声音も淡々としており感情が読めない。だから読者と言われても、にわかには信じられなかった。
疑っているわけではない。贈り主であるから、青薔薇の花束を持っていたからヴィオラがシュネー=メルツだとわかったのも、話としては筋が通る。
しかし、どうして“氷の騎士”が売れない作家である自分を熱心に応援してくれているのか、わからない。
生まれながらにたくさんのものを持った、遠い世界の住人が、何故自分なんかを?
「メルツ先生」
「は、はい!」
特別声を張り上げているわけではないのに、彼の声が部屋に響いた。自然と背筋が伸びる。
「一つ聴きたいことがあるがいいだろうか。答えにくかったら答えてくれなくても構わない」
「何でしょうか…?」
彼の真剣な顔に、ヴィオラは昨晩の事情を詳しく聞かれるのだろうかと身構えた。
「新作はいつでるんだ?」
そのときヴィオラの背中に冷たい汗が流れた。
「新作…ですか?」
「ああ。実は新しいメルツ先生の話を読みたくて待っているんだ。しかし前作が刊行されてから、中々書店で見かけないから気になって。できれば、いつ出るのかだけでも教えてくれたら嬉しいのだが……無理だろうか」
ヴィオラはつばを飲み込む。口の中は緊張でカラカラになっていた。
その場しのぎの適当な嘘をつくことも考えた。が、真っ白になった頭では思いつかない。
しかし嘘をつくよりも、読者には誠実でいたかった。
ヴィオラは覚悟を決めた。自分の作品を待ってくれている読者を、失望させる覚悟を。
「……ごめんなさい。新作は出る予定はありません」
「何かあったのか?」
「……いえ、私がスランプになって書けなくなっただけです。だから、今は何も書いていません」
自分の実情を話すのは恥ずかしいが、正直に答えることが応援してくれた彼に対する誠意だと思った。
「ご迷惑をおかけしましたが、お会いできてよかった。毎年、青薔薇を贈ってくれてありがとうございます。……辞める前にお礼を言えてよかった」
「……辞める?」
「もう書くのをやめようかと思っているんです。いえ、やめるも何も、書けなくなったので、やめるしかないのですけど…」
ヴィオラは口の端を持ち上げて、笑みを作った。
「応援してくれてありがたかったです。励みになりました。でも小説を出しても、あまり売れなかったし私に才能なんて無かったです。スランプになったのだって、きっと才能不足だからです。だからもう潮時だと思うんです」
へらへらと笑いながらヴィオラは語った。
これは仕方がないことなのだ、と目の前のアレクシスに対して言う。空気を重くしたくないから、軽く笑いながら。自分は気にしていないと言うように。
アレクシスが何も言わないなか、ヴィオラは言い訳を重ねていくが、話ながらなんだか自分に言い聞かせているようだと思った。
「シュネー=メルツ先生を侮辱するな」
しばらくして、今まで口を挟まなかったアレクシスが声を上げた。
「例え本人でも俺の推し作家の暴言は許せない」
「……はい?」
蒼い瞳がすっと細まる。彼が纏っている雰囲気が一変してヴィオラは鳥肌が立った。
指先が震えだした。部屋の空気が一気に冷たくなったように感じた。
「いいか? シュネー=メルツ先生は神作家。先生が書く物語は読者を現実の辛さや苦しみから解放し、人々を癒やし命を救う。俺も救われた者の一人だ。人を救う文章を書けるなど誰にでもできることではない。天賦の才だ」
「……へ?」
「売れていないということは、まだ世間がメルツ先生の才能に気づいていないというだけだ。これから売れるしかないから、むしろ伸びしろしかない」
(……もしかして、褒められてる?)
淡々とした口調、鋭くなった目つきや一気に張り詰めた空気に怯えたが、話している内容からすると励まされているのだろうか。
(いや、でも、だいぶ変なこと言われてない? 屁理屈じゃない?)
「だから辞める必要なんて無い」
「いえ、でもスランプなので…」
「だったら、治せばいいだけだ」
言われて、はいそうですかと簡単に治るならとっくに治っている…とは言えなかった。
「スランプになった原因は?」
「わ、わからないです」
「だとしたら可能性を一つ一つ潰していこう。不規則な生活をしているのなら正す。環境が原因なら変える。疲れているなら休め。収入面が不安なら支援する。……うん、ここで暮らせばいい」
「……へ?」
ヴィオラは自分の耳を疑った。
今、彼が淡々とアドバイスを述べていく中で、聞き逃せないものが無かったか?
「この屋敷で暮らしてくれるなら、俺と使用人たちの手で君の生活面を支えられる。環境を変えるのにもちょうどいい。衣食住の支援も容易だ。……どうだろう?」
我ながら良い提案だと言うように、彼はこちらを見た。しかしヴィオラは首をぶんぶんと横に振る。
「……む、無理ですよ! そんなお世話になんかなれません!」
「気にしなくてもいい。君がスランプを治して書けるようになれば、俺はメルツ先生の新作を読めるようになる。両者ともに得でしかないだろう?」
(何言ってるの!? この人!?)
やはりアレクシスの顔はぴくりとも動いていなくて、何を考えているのか読めず、ヴィオラはますます彼が怖くなった。
「あ~、そろそろバイトの時間なので帰らないと!」
ヴィオラはちらりと時計を見ると、わざとらしく言って立ち上がった。
足が痛むが構っている暇はなかった。このままここにいたら、アレクシスに言い負かされて、突飛な提案を受け入れることになりそうだった。
「お礼は後日改めて伺います! し、失礼しますね!」
足早に部屋の扉に近づき、ドアノブに手をかける。アレクシスが何かを言う前にさっさと出てしまおうと思った。
しかしドアノブに触れた途端、ヴィオラは反射的に手を離した。
冷たい。
見ると、ドアノブは氷に覆われていた。ドアノブだけではない、扉自体が氷に覆われている。
さらに驚いたことに、ヴィオラの吐く息が白くなっていた。アレクシスに睨まれて、彼の威圧感で空気が冷たい気がしていたが、錯覚でも何でもなく、部屋の気温そのものが冷たくなっていたのだ。
(な、何これ! もしかして魔法!?)
振り返ると、アレクシスが真後ろに立っていた。彼の長身で窓から差し込む陽射しが隠れ、こちらを見下ろす蒼い瞳だけが輝いていた。
喉から小さな悲鳴が漏れそうになった。
「スランプかどうかは関係ない。俺は君の意志を聞きたい。君はもう書きたくないのか、まだ書きたいのか。どっちだ」
扉を固定している氷が範囲を拡大しようと床や天井にまで伸びてきた。ヴィオラの足下まで凍りつき、そのまま足まで凍りつくのかとヴィオラは総毛立つ。
「答えろ。どっちだ」
「……か、書きたい、です。私は書きたいです!」
睨まれ、追い込まれ、気がつくとヴィオラは叫んでいた。
自分で自分の答えに驚く。色々と言い訳を述べて、自分で自分の気持ちを隠そうとしたがヴィオラの気持ちは、まだ小説を書いていたかったのだ。
「なら決まりだな」
彼の一言で足下の氷が溶けた。扉の氷も溶け、床に水溜まりが広がる。
「だったらここでスランプを治せ。……いや、違うな。ここで物語を書け。シュネー=メルツ先生」
ヴィオラは思い出す。
史上最年少で王立騎士団副団長になったアレクシス=アインホルンは、彼の命令を聴かない部下たちを氷漬けにし、粛正することでまとめ上げたのだ。
ゲルダが言うには、彼の性格は冷酷で苛烈。人より本を優先する読書家。
だとしたら、自分に拒否権はない。
断れば、氷の像になってしまう。
「……はひ」
足に力が入らなくなって、ヴィオラはへなへなとその場に座り込んだ。
「どうした? 足が痛むのか?」
アレクシスは心配をしていたが、訂正する勇気はなかった。