第二話
アデイールがいなくなったが、使用人たちは立ち去ろうとはしない。毛糸玉のようなものを手に、風呂桶の横に控えているのを見れば、誠吾を洗うつもりであるのは明らかだ。
誠吾は首を振って、拒絶を示し、出て行って欲しいと、扉を指して、頭を下げる。だが、使用人たちは、戸惑いを示すだけだ。
幾度も手を合わせて、頭を下げると、一人の男が、女性たちを扉の外へと出してくれたものの、自分は横へ控えたままである。
恭しい仕草で湯船を示され、ひざまずかれると、それ以上拒否することは、誠吾には出来なかった。女性を外へ出したのが、おそらく最大限の譲歩だろう。これを拒否するのは、使用人たちの仕事を邪魔することだ。
宮仕えの悲しさは、サラリーマン生活十数年の誠吾には、身に染み付いている。
ため息を吐くと、誠吾は服を脱いで、湯船に浸かった。マッサージを施すように、毛糸玉が筋肉を解していく。
抵抗はあったが、大人しく身を任せた。気恥ずかしいものはあるが、接待を受けているつもりになれば、耐えられないほどでは無い。
身体中を洗われて、やっと終わったかと、ほっとしたところで湯船を出た。すぐに柔らかな布で包まれて、隅々まで拭き上げられる。
差し出された服は、使用人が着ているものと形は似ているが、光沢が違った。おそらく、客用の上等な品だろうと検討が付く。
上衣をはおり、ズボンを身に着けると、やっと使用人が出て行った。
どっと疲れが押し寄せる。
「はぁ……」
天蓋付きのベッドに身体を投げ出し、ようやくほっと息をつく事が出来た。
「こりゃ、早く言葉を覚えないとヤバイな」
こんなのが毎日続いたら、身が持たない。確実な意思の疎通を図るには、やはり言葉を交わすしか無いのだ。
森で目覚めてから、気を抜くことの無かった誠吾の意識は、そのまま眠りへと引き込まれていった。
◆◆◆
重く圧し掛かる感覚に、誠吾の意識が浮上する。
日本では有り得ない天井の意匠に
「夢じゃ無かったんだ」
と思わず呟いた。
出来れば、目が覚めたら、全てが夢で、自分は公園で寝ているか、もしくは酔っ払いとして、警察の留置場にでも放り込まれている方が、誠吾としてはありがたかったのだが、そうは問屋が卸さないらしい。
天蓋付きのベッドに寝転んでいる誠吾を、アデイールの金色の瞳が覗き込んでいた。
「アデイール?」
外は既に暗い。窓はぴったりと閉じられているが、月明かりだろうか、薄い明かりが漏れていた。
「What?」
単語を口にする時は、誠吾は日本語では無く、英語を口にするようにしていた。語感が似ているものがあれば、通じるかもしれないからだ。
だが、誠吾の問い掛けは、当然の事ながら、通じなかった。
アデイールは、真剣な眼差しで、誠吾を見下ろしている。
金色の瞳が、ゆっくりと誠吾に接近してきた。
「アデイール?」
生理的な危険を感じて、誠吾は身じろいだが、両手首をアデイールの腕に押さえつけられ、ソレさえもままならない。
アデイールの唇が誠吾のそれと重なる。
首を振って、誠吾が唇を外すと、アデイールは、両手首を一まとめにして、誠吾の顎を掴み、深く唇を重ね合わせた。
キスされていることは認識したものの、どうしてアデイールが自分なんかとキスしているかが判らない。それに、誠吾をもっと不安にしていたのは、アデイールのソレが硬度をましてきているのが、互いの下衣越しにもはっきりとしていたからだった。
誠吾はパニックを起こしそうになる。寄りによって、何故、こんな平凡な三十男に欲情するのか。アデイールなら、いくらでも似合いの若い相手がいそうなものだ。
「STOP! 止めろ!」
誠吾は、離された唇から、必死で制止の声を上げる。アデイールは確かに可愛いが、そういう相手としては考えられない。
「アデイール!」
怒鳴り声を上げると、アデイールの躯がびくりと震えた。泣きそうな顔で、誠吾を見上げてくる。だが、ここで甘い顔は禁物だと、誠吾は表情を引き締めた。
「アデイール! NO!」
誠吾が首を横に振ると、アデイールは腕を離す。誠吾はほっとため息を吐いて、アデイールの躯の下から這い出した。
そして、問い掛けるような仕草で、アデイールの顔を覗き込む。
アデイールは、ただひたすら首を横に振って、誠吾を抱きしめてきた。その必死な様子に、誠吾は何かおかしいと感じる。
小さな子供にするように、背中をぽんと軽く叩いて、抱きしめている腕を引き剥がした。
もう一度、アデイールの顔を覗き込むと、アデイールは刀の形を手で作り、誠吾の胸に刺すような仕草を見せる。
何を云いたいのか判らず、誠吾が首を捻ると、アデイールは何度もその仕草を繰り返してみせた。
アデイールが自分と誠吾を指差し、腰を押し付けてくる。だが、それには先ほどの様な性的な色は無かった。むしろ切羽詰ったような感じさえ受ける。
「お前に抱かれなければ、俺が殺されるっていうのか?」
まさかとは思ったが、そうとしか考えられなかった。要は、自分はその相手として、連れて来られたと云うことなのだろう。
「冗談止せよ……」
唖然とした誠吾の手を、アデイールが掴んできた。そのまま、片方の手を自分の胸に当て、大きくうなずいて見せる。まかせろと云う風に。
アデイールの眼差しは真剣なものだ。ここは任せるべきなのだろう。だが、それでアデイールに危険が及ぶようなことにはならないのだろうか?
誠吾はしばらく考え込んだが、ここで異邦人の自分の考えなど、役には立たないだろうと再認識することにしかならなかった。
アデイールがじっと自分を見ている。誠吾は、握られたままの手を掲げて、手の甲でアデイールの胸を叩いた。
「任せた」
ニヤリと笑って見せると、アデイールの顔が、ぱぁっと輝く。誠吾に信頼されたことが嬉しいらしい。
何度もうなずくと、すっと真剣な顔になった。
誠吾の首筋と自分の唇を指し示す。アデイールの云いたいことは、今度は一度で誠吾に伝わった。
「証拠がいるって?」
まぁ、そうだろう。一晩一緒に寝て、何も無かったで済ませる訳には行かない。状況証拠は残さなければ。
渋々、うなずくと、アデイールの息が誠吾の首筋に掛かった。首筋を強く吸い上げられ、むず痒い痛みが走る。明日には鬱血の跡が残るはずだ。
誠吾は首筋を撫でさするようにして、複雑な表情を浮かべる。
当たり前だ。何が楽しくて、三十過ぎた男の自分が、こんな子供にキスマークなど付けられなければ行けないのだろう。
安心したらしい、アデイールは、当然のように誠吾の背に腕を廻し、そのまま眠りに付いてしまった。今更起こして、体勢を変えるのも、大人気ない気がして、誠吾は抱き枕のように抱えられたまま、眠りに付く。
いろいろなことがあり過ぎた一日は、誠吾の精神と身体に、かなり響いていたようだ。最初は抵抗を覚えた体勢にも関わらず、さほどの時間を必要とせず、誠吾の意識は眠りに引き込まれていった。
まぶしい日の光を感じて、誠吾は飛び起きる。
「まずい、遅刻だ!」
日が高い時間に起き上がるなんて、誠吾のサラリーマン生活では有り得なかったことだ。がばりと身を起こし、ベッドサイドの目覚ましを探るつもりで手を伸ばす。
だが、そこには何も存在せず、誠吾はあやうくベッドから落ちそうになった。
「え? あれ?」
一瞬、自分が何処にいるのか認識できず、目を見開いたまま、周囲を見回す。
土のむき出しの壁、天蓋つきのベッド、木製の窓、壁に飾られた剣。
「そうか……」
誠吾は、自分の身に起こった、信じ難い事実を改めて突きつけられ、ため息を吐いた。
誰かに連れてこられたのか、それとも誠吾自身が飛ばされたのか、一体何時の、何処にあるのか、まったく判らない国に、自分は今いるのだ。
「まずは、言葉だな」
昨日のアデイールの説明では、何がどうなっているのか、まったく不明もいいところである。
とにかく、何かの儀式なのか、それとも慣習のようなものなのかさえ判らないのでは、対応の仕様も無い。
窓を大きく開け、朝の光と冷めた空気を取り入れた。大きく伸びをして、軽く腕を廻す。
見下ろすと、広場の様子が見えた。
剣の稽古の最中らしく、剣を打ち合わせる男たちがいる。ここでの主な武器は剣のようだ。
「剣道の授業は選択してないんだよな」
剣道の授業があったのは、高校だけだが、選択授業だったため、誠吾は柔道を選択している。当然、フェンシングなどにも縁が無い。
帰れる当てがある訳では無いのだ。初心者だろうが、覚えなければならないのだろう。
視線を感じたのだろうか、一人の男が振り向いた。
それは、昨日、森から誠吾を担いできた、嫌味な銀髪野郎だ。
刺すような眼光で、誠吾をじっと見据えている。そんな目で見られる覚えは無い。むっとして窓から離れようとしたが、誠吾は思い直して、すっと息を吸い込んだ。
「おはよう!」
怒鳴りつけるように、朝の挨拶を叫ぶ。
広場で剣を使っていた男たち、全員が音のしそうな勢いで、振り返った。
銀髪野郎は、目を丸くして、誠吾を見上げている。
誠吾は、すかっとした気分で、部屋へ引っ込もうとしたが、その背に、大声で言葉が投げつけられる。
何だろうと振り返ると、銀髪野郎が「イディドル―」と繰り返した。
その顔は、昨日とはうって変わって、さわやかに微笑んでいる。
一体、何のことだろうと首を捻って、部屋へ引っ込むと、扉を叩く音が響き、昨日と同じメンバーが、朝食らしい膳を運んできた。
「イディドルゥ。セスリム・セイ」
うやうやしく頭を下げて、誠吾に挨拶したのは、昨日、誠吾の入浴時に女たちを外へと出してくれた男だ。
「イディ、ドル、ゥ」
たどたどしく、誠吾が口にすると、男はにっこりと微笑み、手振りで朝食を勧める。
通じたことで、先程銀髪野郎が口にしたのが、朝の挨拶だったのだと誠吾は気付いた。嫌味で思いっきり日本語で叫んだのだが、何か悪いことをしたような気になって落ち着かない。そう云えば、腹を空かしていた自分に菓子を分けてくれたのも、あの男だった。
「そんなに嫌な奴じゃないのかも、な」
明日はちゃんと挨拶を返してやろうと、考えながら、誠吾は朝食を口に運んでいた。