第二十三話
「アデイール!」
金の獅子に体当たりをかまされて、ディオルの身体が吹っ飛ぶ。
獅子は、誠吾を護る様に、山犬に対峙した。
金の獅子が咆哮を上げる。
森全体を震わすような響きの咆哮だ。
誠吾が、再び、弓を手に立ち上がる。
獅子に反撃しようと、唸り声を上げた山犬の首筋に、銀の狼が牙を立てた。
声も無く、山犬が倒れる。
「サディユース!」
『アデイー、ル? サ、ディユー、ス? 何? ここは何なんだよ?』
誠吾が呼んだ名に、誠司はパニック寸前だった。それは王子と、この間父親を護っていた男の名ではないのか?
『誠司。大丈夫だ』
「ほら、アデイール。俺の息子だよ。誠司と云うんだ」
それぞれに、それぞれの国の言葉で話しかけ、誠吾はアデイールの首に腕を廻す。
アデイールも大人しく、誠吾にされるままだった。
誠司の腕を取って、アデイールのたてがみを撫でさせる。ふわりとしたたてがみはさらさらと指の間を通って行く。
『新月の夜に一族は獣になる。それは神聖な夜だ。誰も犯してはいけない。解かるな? 誠司』
撫でても逆らわない獅子に、誠司は安心したようだった。言葉無くうなずく。
「サディ。そっちに倒れている奴。足を射たから、立ち上がれないと思う」
銀狼はうなずくと、ざっと森を掻き分けて走り出す。おそらく、何人か連れてくるつもりだろう。ジャスティたちに先を越されさえしなければ、今夜は何も出来ない筈だ。
ほっとした途端に、力が抜ける。今にも座りこみそうな身体に、するっとアデイールが金色の身体を摺り寄せる。
ふわりとした毛並みが気持ちいい。誠吾はアデイールの背を撫でた。
と、アデイールは、誠吾の足の間に身体を潜り込ませると、自分の背に誠吾を乗せてしまった。体長が二メートル近い、大きな獅子だ。誠吾が乗っても不安になるような不安定さは無かったが、それでも、そう軽い訳でも無い。
「いいよ、アデイール。重いだろう?」
そう云って背から降りようとする、誠吾を無視して、アデイールは森へと歩を進めた。
その場に立ち竦むようになっていた誠司を振り向き、付いてくる様に促す。
獅子の背にまたがったまま、隣を息子が歩いているのが、どうにも気になって、誠吾は再びおりようとアデイールに声を掛けた。
「アデイール、いいよ。やっぱり」
すると、隣から誠司に制される。
「いいよ、親父。疲れてるだろ。王子もなんか親父乗せていたいみたいだし」
アデイールが誠司の指摘にふんと鼻を鳴らした。さっきまで、突然の出来事に甘えたような口調だった誠司は、すっかりと元の可愛くない話し方に戻っている。
それを、少しだけ寂しいと思う自分は、思ったより子離れが出来ていないのかもしれないと、誠吾は思った。
城へ戻る途中、数匹の狼を率いたサディとすれ違う。誠司は、サディだと解かってはいるものの、やはり少し緊張して身体を強張らせていた。
見かねて、アデイールが誠司の頬をぺろりと舐める。
「ひ…ッ、」
一瞬、身体を直立させた誠司は、だが、すぐに立ち直ってアデイールの頭を叩いた。
子供っぽいそれが可笑しくて、誠吾が声を立てて笑う。
その誠吾を見る、アデイールの瞳は優しい色を湛えていた。
誠司を城の使用人部屋へと送り届ける。今日は無理だが、明日からは誠司にも部屋が必要だろう。
「親父。ごめん。俺の所為で危ない目に合って」
しゅんとした誠司の頭を、誠吾は抱え込んだ。
「お前が気に病む必要はない。奴らはいつか手を出そうともくろんでいたんだ。俺の方こそ、巻き込んでしまった。すまん」
「ううん、俺が馬鹿だったから騙されたんだ」
「ちゃんと、王子とサディが護ってくれただろう。俺こそ、お前を囮にしたのと同じだ」
どう言い聞かせても、誠司は頭を垂れたままだ。
「今日は、もう寝る。お休み、親父」
唐突な感のあるおやすみを述べて、誠司はぱたんと扉を閉じた。男には、自分の力の及ばなさに涙する夜もあるのは判っているが、まだ、それは誠司には早すぎるような気がする。
だが、そこまで考えて、誠吾ははっとするのだ。
自分がいない間に、あの子はもう二年の月日を過ごしている。いつまでも、子供だと思っていてはいけないのかもしれない。
「この間まで、ランドセル背負ってたと思ったのにな」
誠吾は呟いて、使用人部屋を後にした。
使用人部屋の区画を出ると、アデイールが待っていた。
身体をすり寄せてくるアデイールに、誠吾は今日が新月の夜だと云うのを、まざまざと意識する。
誠吾は屈みこむと、アデイールの首に腕を巻きつけ、そっと唇に口付けした。
それに応えるように、アデイールが誠吾の唇をぺろりと舐める。ついでとばかりに、首筋にも舌が這った。
「これ以上は、ここでは駄目だ。部屋へ帰ろう」
若い獅子の悪戯を制して、誠吾は階段を上っていく。戦いで疲れた身体だが、身体の奥にくすぶる高揚を冷ますのは、お互いにもっと高揚するひと時が必要だった。
◆◆◆
「本当のディオルは俺だ」
出会った当時から、何処と無く卑屈な感じのする男だったジャスティの居候は、口を開くなり、そう訴えた。
誠吾と誠司が森で襲われた翌日。
そこにいたのは、アデイールとサディユースをはじめとする近衛隊の数人、それにストラスである。誠司と誠吾の異邦人二人は、証人としてその場に立ち会うことを許された。
引き出されたのは夕べ捕らえた山犬だ。誠吾の弓で足を射られた男は、単にジャスティの家に身を寄せた、若い一族の一人だった。
「か、狩をするから付き合えと云われたんで。俺はまさか、セスリムを襲うなんて…」
考えてもみなかったと男が頭を下げる。
「セスリムの息子だと名乗ってるガキがいるから、そいつを…」
誠吾の眉がぴくりと動いた。さっきまでは矢で射たことに多少の罪悪感を抱いていたが、男の告白に、その気持ちも、きれいさっぱりと消え去る。
誰がおまえらなんかに大事な息子をおもちゃにさせるか。
「こいつ等…」
押し殺したような声をサディは上げた。初めてやったことではなさそうだ。今までも、何人かをそうやって狩っていたのだろう。
「なんて、不敬な!」
王子の前に、罪人を引き据えた近衛兵が、腹に据えかねたのか、どかりと背中を蹴る。
そちらの裏づけも後でとらねばと思いつつ、アデイールはディオルに向き直った。
「お前がホンモノだと云う証拠は?」
「そんなもの、あいつらが残すわけないだろう」
「では、お前の主張は信用出来んな」
ディオルの主張が本当なら、ここでディオルを拘束していることは、王子と云えども簡単では無い。ディオルが本当に、一族の次期長であるジャスティの息子だと云うのならば、それを拘束する権限は、王にしかないのである。
捕らえられたと云う話は、もう既にジャスティの耳にも入っている筈だ。
「あの男の顔を見ただろう? だが、奴には生まれた時から番いがいた。俺にはいなかったからな」
要するに、ジャスティは番いがいないと知って、息子を入れ替えたのだ。確かにあの息子は、ジャスティにまったくと云って良い程、似てはいなかった。だからと云って、それが真実であると証明することには成り得ない。
「俺にだって、番いさえいれば! そこの男を番いにすれば、次期王の座も俺のものだ!」
「は?」
「それは、どういう意味だ?」
誠吾はぽかんと口を開けた。いきり立ったのはアデイールだ。低くなった声にも殺気が篭もっている。
「次期王の番いだ? 上手くやったもんだな、王子。今じゃ、次期王は王子しかいないって誰もが認めている。この間まで、半端モノだったお前が!」
確かに云われた通り、誠吾が王子の番いとなる前は、王の最有力候補はディオルだったのだ。
「俺だって、そいつを番いにすれば、俺を今まで軽んじていた連中を見返してやる! 俺が王になるんだ!」
「聞きたいことは済んだ! 見苦しい! さっさと連れて行け!」
血走った目で、王になると喚き散らす男は、兵士たちに引き立てられ、出て行く寸前まで呪詛の言葉を吐き散らしていた。
「確かにドラテアは『次代の王の番い』と俺を呼んだが…」
「ドラテアが云うのは、セイが俺の番いになれば、俺が次代の王になると云う意味だろう。ところが、欲に凝り固まった連中には、そう聞こえるらしいな」
深いため息を吐いた誠吾の肩を、アデイールがそっと抱きしめる。誠吾に対して使われた『次代の王の番い』と云う言葉が、独り歩きした結果、『王の異邦人を得た人間は、次代の王になれる』となったらしい。
「俺なんぞ、只の異邦人なのに」
「大丈夫だ、セイ。俺が護る」
自分自身が狙われると云う一般人の誠吾にはありえなかった事態に、さすがの誠吾の神経も焼ききれる寸前だ。
それをアデイールのすっかり逞しくなった腕が支える。
安心させるように唇を寄せるアデイールに、誠吾は腕を突っ張った。さすがに人前だと思い出したからだ。
「誰もいない。セイと俺だけだ」
アデイールの言葉に、慌てて周囲を見回すと、いつの間にか、謁見用の部屋には、誰一人としていない。
アデイールの唇が、落ち着かせるように、頬と額に触れてくるが、それを拒む理由は誠吾には無かった。
ディオルに下された処分は、僧院での預かりと云う軽いものだ。
ディオルのやったことを考えれば、異様に軽い処分だが、新月の夜の罪は問わないという原則を考えれば、あまり重いものにも出来ない。
それに、狩られた女性のことを考えれば、あまり大げさにして、表沙汰になっては困る。
それと、誠司の面倒を一時期でも見てくれたということもあった。
故に、表向きの罪状は、王子のセスリムを、謀をもって傷つけようとしたことのみである。実質は、僧院の奥の塔に閉じ込められ、誰と会うのも許されず、三度の食事だけを運ばれるだけだ。もちろん、着る物や食べるものに不自由は無いが、終身刑と同じである。