第二十二話
『俺は帰る。アンタはいつまでもここにいればいい』
吐き捨てるように云われて、やはり多少、落ち込んだ。
何とか誠司の部屋を訪ねた誠吾の顔を見るなりの台詞だ。
『帰ると云っても…』
『アンタには帰る気なんか無いんだろう? だけど、俺はちゃんと向こうで母さんも父さんも待ってる』
『その、本当なのか? 帰ることが出来ると云うのは』
誠司は帰ると云ってはばからないが、新月の夜に出歩ける筈も無い。ディオルがそう吹き込んだらしいが、ディオルも一族ならば、新月の夜の恐ろしさは承知の上だろう。
『なんだよ。心でも動いたのか? それとも、アンタの周りの人間たちは帰れるって教えなかったのかよ?』
『ああ、知らなかった。星術師たちもそんなことは教えてくれなかった。本当に?』
もしも、そんな方法があるのならば、アデイールは最初の新月の夜に自分を帰していた筈だ。あの頃のアデイールは、まだ、誠吾と結ばれてはいなかった。
『疑うのか? ディオルは俺を親身になって助けてくれたんだ。奴は嘘なんか吐かない。俺たちが来たあの森に、新月の夜に行けば帰れるんだ。俺は次の新月で帰る!』
すっかり信用の無いらしい父親に、それ以上云うことは無かった。とりあえず、新月までは誠司もここを出て行くことは無いのだ。
『お前、新月の夜を体験したことはあるか?』
『あるわけ無いだろう。あったら、とっくに帰ってる!』
誠司が拒絶しながらも、質問の答えを帰してくれたことに、ほっとする。あの異様さは目の当たりにしなければ、解からないだろう。
『そうか、ありがとう』
『親父?』
礼を述べる誠吾を、誠司は怪訝そうな目で眺めていたが、立ち上がる誠吾を追うようなことはしなかった。
ドアを開けた誠吾は、そこに、見覚えのある使用人が顔を出しているのを目にして、思わず笑ってしまった。セスリムが一使用人の部屋を訪ねてくるなど、何事だろうと思われたのだろう。しかも、誠司はさっきから怒鳴ってばかりいた。好奇心を刺激されるのも無理は無い。
急いで顔を引っ込めた中で、唯一、一人の少年だけが近寄ってきた。
「あの、セスリム。セージが何かしたんでしょうか? あいつ、怒りっぽいけど、嫌な奴じゃ無いんです」
「ああ、そういうのでは無いよ。同じ国から来た異邦人なんだ。話をしてみたかっただけだ。久しぶりに故郷の言葉で話せた、嬉しかったよ」
自分の息子は、こんな世界でもちゃんと心配してくれる友人を作っている。それが誇らしいくらいだ。惜しむらくは、多分、自分の息子であると云うことは云えないだろうと云うこと。
「彼のこと、よろしく頼む」
「はいっ! セスリム!」
元気一杯に返事をしてくれる少年を、ほほえましく思いながら、誠吾は後ろ髪引かれる思いで、使用人部屋を後にした。
『親父?』
そっと使用人部屋を抜け出した誠司を、城の入り口で待っていたのは、皮の上着を羽織った誠吾だった。
『お前を一人で行かせる訳にはいかない』
まっすぐに誠司を見る視線に、誠司は涙が出そうだった。やはり、父親は自分と行くことにしてくれたのだと。
窓はしっかりと閉じられ、城の明かりは広場さえ照らすことはない。通路を出てしまえば、お互いの顔さえ判別できるかどうかという明るさだ。
だが、そこここに何者かがうごめく気配がある。
誠司はそれに警戒しつつ、歩き出そうとして、足が凍りついた。
何かが唸っている。暗闇の中から、光る瞳だけが誠司を見ていた。
『と、うさん…』
今にも飛び掛ってきそうな気配に、情け無いが、誠司の口からは父を呼ぶ声が漏れる。
だが、その凍りついた足元をすり抜けるように、空気を裂いたものが、唸り声の主の足元に突き刺さった。
「俺の息子に手を出す奴は容赦しない!」
誠吾は隙無く弓を構えている。
いや、正確に云えば、弓もどきだ。誠司も幼い頃に、父親の田舎へ連れられていったときに作ってもらったことがある。
暗闇にうごめく気配は、その誠吾の威嚇に、すごすごと遠のいて行った。
『父さん、あれは一体?』
『道ながら説明してやる。行くぞ』
誠吾が大股で歩き出すのに、つられるようにして、誠司も後をついて歩き出す。
『お前、新月の夜には外へ出るなと使用人たちから聞かなかったか?』
『聞いた。でも、俺、帰りたかったし、何で外へ出ちゃいけないのか説明してくれなかったから』
『体験しないと、解からないからな。あれは新月の夜にだけうろつくんだ。ディオルが知らない訳は無い』
『新月の夜だけ?』
『時間が無い。急ぐぞ』
疑問は誠司の中で渦巻いていた。ディオルは知っていた? ならば、新月の夜に身を守る術を持たない自分が出歩けば、どうなるか解かっていた? 自分に一体何の恨みがある? 誠司はここにはひと月前に現れた、只の異邦人だ。唯一、他の連中と違うことは……。
城下を抜け、吊橋を渡る。
その合間にも、あの気配はあちこちにあった。それを、威嚇し、声を張り上げて誠吾は誠司を守る。
森に入ると、不思議と気配は消えた。
無言で森を歩く。星明りだけではなんとも頼りないが、転びそうになる誠司を、誠吾が支える。
森に入って、二時間近く過ぎた頃だろうか。
最初に誠吾が寝ていた、あの場所に辿り付いた。
『ここで間違いないか?』
『うん、父さんもここに?』
途端に、がさりと木が揺れ、数頭の獣が顔を覗かせる。星明りに目の慣れた誠司は、今度こそ悲鳴を上げていた。
誠司の悲鳴に、誠吾が振り返り様に、背中に息子を庇う。
そこにいたのは、山犬の群れだ。今にも飛び掛らんばかりの数頭が、目をぎらぎらとさせて、二人を見ていた。
そのうちの一頭の瞳には見覚えがある。ジャスティと同じ、緑の瞳。そういえば、ジャスティの親戚たちは、一様に緑がかった瞳をしていた。
「お前が、ディオルか」
誠吾が問い掛けるが、獣たちに応える言葉は無い。だが、野生にしては統制のとれた動きと、その割にはボスの威厳の無さそうな指揮を取っている一頭を見やり、誠吾は確信を抱いていた。
野生の動物の世界は非常にシンプルなのだ。強いオスがボスで、それに全ての群れが従う。
ボスが弱くなれば、誰かが取って代わる。力以外の要素に従うのは、人間の特徴だ。
一族の獣たちが、二人を囲む。
誠吾は弓をつがえ、きりきりと引き絞った。
『と、父さん? どういうこと? あれって、ディオルだって云うこと??』
『月の光の加護の無い夜には、一族は理性の無い獣に戻る――――星術師たちはそう云っていたがな』
放たれた弓が、飛び掛った一頭のギリギリを掠め、山犬が吹き飛ばされる。
掛かってくる、山犬たちに向け、誠吾は脇腹を掠めるように矢を放った。
さすがに大怪我をさせるわけにはいかない。今は理性の無い状態かもしれないが、朝になれば話し合いの余地もある筈だ。
取りあえず、追い払うしかない。
幾度も弓をつがえては、放つ。
だが、山犬の群れは、数を頼みに幾度も襲い掛かって来た。
最後の奴を倒した時には、最初に倒した奴が、回復して襲ってくるのだ。キリがない。
弓も残り少なくなってきた。
誠司はすっかり怯えて、おろおろとするばかりだ。
これ以上は、引き伸ばせそうに無い。
誠吾は、覚悟を決めて、幾度目かの矢を放った。
「ぎゃんッ!」
山犬が、声を上げて、どさりと倒れる。ばたりと倒れた一頭はすぐに動かなくなった。
倒れた場所の草が赤く染まる。
山犬の数頭は、明らかに腰が引けていた。
誠吾が弓を向けると、じりじりと引き下がる。
誠吾は、ディオルに矢を向けた。
きりきりと弓を引く。
矢が放たれようとした瞬間、誠吾の腕に誠司がしがみついた。
狙いの反れた矢は、山犬たちの足元へ突き刺さる。
それが、既に一人が倒され、元より腰の引けていた連中の、最後の合図になった。山犬たちは散りじりになって、逃げ去って行く。
『父さん、止めてよ。ディオルは俺のことを助けてくれたんだ』
『解かってる、もうしないさ。みんな逃げて行ったよ』
誠吾は、しがみつく息子の髪を、やさしく撫でた。
そうして、まっすぐにその向こうにいるディオルに、視線を送る。
ディオルは今だ、ぎらぎらした目で、誠吾を見据えていた。
その視線には覚えがあった。欲望も顕わな獣のソレ。
ディオルが高く飛ぶ。
誠吾は、誠司を安全圏へと突き飛ばした。
降ってきたディオルの身体は、誠吾では受け止めきれなかった。ディオルの身体は、易々と誠吾を組み敷く。
獣の生臭い息が、首筋に掛かった。
「父さん? ディオル?」
誠司は一瞬のうちに、何が起こったのか解からず、顔を上げた場所にあった光景に戦慄した。
誠司の目には、ディオルはいつ父親の喉に牙を立ててもおかしくない、獣にしか見えない。
ディオルに圧し掛かられている誠吾は、睨むようにディオルを見ている。
「誠司。俺が何をされても、そこを動くな」
だが、誠吾の口からは漏れたのは、ディオルに対する罵倒ではなく、誠司を諭すような言葉だけだ。
こいつらは、ホンモノの獣では無い。
食われる心配は少なくとも無いのだ。だが、誠司が妙な動きをすれば、類は誠司に及ぶだろう。やるなら、一撃で相手を倒さなければ意味が無い。
誠吾は考えながら、手にした矢を握り締めた。
首筋を獣のざらりとした舌が這う。
押し付けられる腰の動きに、明らかな興奮を見て取った誠吾は、少なくとも、殺される心配は無さそうだ、と考える。
だが、嫌悪でぞわりと肌があわ立った。
ひたすら、大人しくしているのは誠司の為だ。少なくとも二人が共に逃げられなければ、意味は無い。いや、息子をこんな野郎の餌食にするくらいなら、自分がなった方がマシだ。
ぎりぎりで致命傷を与えるつもりで、矢を背にそっと隠す。
その誠吾の目前を、金色の光が横切った。