第二十話
「セイ?」
覗き込むようにこちらを見るアデイールの視線に、はっとなって誠吾は顔を上げた。
どうやら、自分の考えに沈みこんでしまっていたらしい。
「疲れているんじゃないのか? ここのところ、ぼーっとしていることが多い」
それは、アデイールに指摘されるまでもなく、誠吾が感じていることだ。
「いや、大丈夫。ちょっと、考え事をしていただけだ」
心配させないように、アデイールに笑いかけるが、それでも不安なのか、アデイールが誠吾を背後から抱きしめる。
それに身を任せると、上衣の合わせ目からアデイールの手が忍び込んできた。
首筋に、熱い唇が押し当てられる。
そのまま、ベッドへと雪崩れこみそうになったとき、ドアがノックされた。
はっとして、誠吾が身体を離すのと、ドアが開いて使用人たちが顔を出すのは、ほぼ同時である。
「セイ様。お食事です」
慌てて、身繕いする誠吾を見れば、ここで何が行われていたかは、周知の事実だが、あえてソレに触れる無粋な使用人はいない。
そのことに感謝しつつ、席へ着くと、誠吾の目の前に、違和感のある食卓が広がっていた。
サラダにスライスした芋、干肉を煮込んだスープまではいつも通りだが、横にあるのはどう見てもカレーに見える。
「あれ、レドウィル。これって?」
「スパイスで肉と野菜を煮込んだものだそうですよ」
いつもなら、たまごはゆでてサラダについて来るのが普通だったのが、今日の食卓では,カレーの中に、スライスして入っている。
恐るおそる誠吾は、一口すくって口に入れた。ちゃんとカレーの味がする。しかも、何処と無く家の味と云うか、母や妻の作ったものに似ている気がした。
「懐かしいな」
「セイの国の食べ物なのか?」
「ああ。美味いぞ、食ってみろ」
自分が作った訳でもないが、なんとなく自慢したい気分で、胸を張ってアデイールに勧める。
「本当だ。美味いな」
「俺の別れた妻も母親も料理は下手だったが、コレだけは美味かった」
そう云えば、大学時代に家に遊びに来たゆかりが、母親に教わっていたのを思い出した。
懐かしい風景だ。だが、それが自分が帰れないからこその感傷だと云うことも、誠吾は知っている。
「異邦人の使用人が入りまして。そんなにお喜びなら、また作らせましょう」
「異邦人?」
問い返す誠吾の脳裏に、数日前にジャスティのところで見た、少年の後姿が浮かんだ。
「セイ様と同じ色の髪と瞳です。同じ国の者でしょうか?」
「どうかな? 俺の世界では黒い髪と瞳は珍しくは無いし」
だが、このカレーが作れるのなら、まず日本人だろう。やはりと云う思いが誠吾の頭を掠める。
だが、呼び出して確認するような度胸は誠吾には無かった。
「セイ」
心の揺れを感じ取ったのか、アデイールはひどく心細げだ。誠吾は、そんなアデイールに笑い掛けたが、普段の通りに笑えたのかどうかすら、自信が無かった。
「異邦人と云うのは、結構来るものなのか?」
やはり、率直な答えがほしい時には、サディを訪ねてきてしまう。
だが、お披露目の警護の打ち合わせなどで忙しいらしいサディユースを、同じく時間の無い誠吾が捕まえることが出来たのは、カレーが食卓に上ってから、数日経った夜のことだ。
今夜、アデイールは、大臣との会議があって、帰ってくるのは遅い筈である。
「異邦人、ですか? そうですね。最近は数が増えましたね」
誠吾の突然の質問に、眉を潜めながらも、サディはそう答えを返した。
「増えた?」
「ですが、異邦人はほとんどが数日の内に居なくなるか、死んでしまうかですから」
さりげなく事実を告げるサディに、誠吾はぎくりと身をこわばらせる。
「死ぬ?」
「というより、ここに現れる時に、死に掛けた状態が多いんです。身体の丈夫な人間も、大抵はひどく精神的に衰弱しています」
誠吾は自分がここへ来た時の状況を思い出し、はっとなる。
社長は夜逃げで、後の始末でぼろぼろだった時に、息子からの絶縁宣言。何も考えたくなくて、酒に逃げ込んだあの夜。
何もかもどうでも良かった。酔っていなければ、何処かから飛び降りていたかもしれない。
周りの状況のあまりの激変に、ついそれも吹き飛んでしまっていたが。
「居なくなるというのは?」
「それも、謎です。本当にある日突然、居なくなるんですよ。数日間くらい居たかと思うと、ある朝、突然消えているんです。人によっては、トレクジェクサの人間も一緒にいなくなっていたりします」
よくある神隠しにあった人間が、別の場所へ現れたりするのは、その所為もあるのかもしれないと、誠吾は空想を逞しくしたが、歴然とした証拠がある訳では無い。
サディの話を聞けば聞くほど、あの少年がそうではないかとの疑念は消えなかった。
だが、何があったと云うのだろう。まだ、若いというより、子供に近い少年に、世の中に絶望するほどの思いがあったのだろうか? いや、まだ、少年だからこそ、そういう思いに捕らわれたのかもしれない。
やはり、二人だけで話す必要がありそうだ。
だが、誠吾は最後に交わした言葉の冷たさに、自分を保つ自信が無い。
もし、もう一度、ああいう風に云われたら、立ち直れなさそうな気がした。
頭ががんがんとして、吐き気がこみ上げる。
「セスリム!」
倒れそうになる身体を、サディの力強い腕が支えた。
「サディ。大丈夫だ」
「大丈夫な訳がないでしょう! 真っ青です」
腕から逃れようとした誠吾の身体を、サディユースはソファへと運ぶ。そうがっしりとした身体つきではないものの、立派な平均的成人男性の誠吾を、サディは軽々と抱え上げ、ゆっくりと慎重に横たえた。
「働き過ぎですよ。どうして、そんなに頑張るんですか?」
額に置かれたサディの手は冷たくて、気持ちがいい。
このまま、この手に甘えてしまいたくなった。王子には云えない。まだ、披露目さえ済んでいないのに、心配させたくなかった。
だが、披露目の前に付けなければいけない決着がある。
それをしなければ、アデイールの顔を、正面から見られない気がするのだ。
「最近入った奥向きの使用人で、異邦人が一人いる」
「いますね。貴方と同じ髪と瞳で、一瞬、貴方かと思いましたよ」
そんな筈は無い。あの子は、まだ子供で、自分はもうオヤジだ。
「似てるか?」
「黒い髪と瞳の所為もあるとは思いますが」
サディがそう云うのなら、似ているのだろう。やはり、という思いが強い。
「多分。俺の息子だ」
「セスリムの?」
「名前を聞いてくれないか? 『誠司』と名乗ったら、ここへ連れてきて欲しい」
身体を起こす。軽い貧血だったのだろう。きっと精神的なものだ。
「セージ。ですね」
背中へさっと、支える手が廻される。
今だけ、この腕に甘えることにしようと誠吾は思った。でなければ、息子と向き合えない。
そんな情け無い親父だから、あんな風に云われてしまうのだ。
誠吾はひたすら自虐的な思いに捕らわれていた。
『親父…』
サディに連れられてきたのは、間違いなく、誠司だった。
半年ほど前に会ったときより、背が高く、逞しくなった気がする。
「セスリム。間違いありませんか?」
「ああ、ありがとう。すまないが」
「お二人だけには出来ません。会話は解りませんので、存分にお話ください」
呆然とした誠司がつぶやいたのが、異国の言葉だと察したサディユースは、向かい合う誠吾と誠司に、くるりと背を向けた。
次期王のセスリムを警護する身として、それ以上の譲歩は出来ないだろう。
誠吾は、半ば安堵して、息子に手を伸ばした。
『誠司。身長、伸びたな』
中学の一年。二次成長期に差し掛かる頃だ。小学生の頃から、そう小さい方という訳ではなかったが、それでも、もう目線はほとんど自分と変わらない。
感慨深く伸ばした手は、だが、逃れるようにすっと引かれた身体に届かなかった。
『当たり前だろう。俺も、もう十五だ。親父がいなくなって、もう、二年経ってるんだぜ?』
『は? 二年?』
誠吾は一瞬、耳を疑う。自分がここへ来てから、まだ三月かそこらの筈だ。
何故、そんなことに?
『とにかく、早く帰ろうぜ。あの場所からなら、帰れるらしいし』
『帰れる、のか?』
帰る方法がある? まさか、と誠吾はサディユースの背に視線を投げ掛ける。だが、背中を向けたサディに、それは届かなかった。
『やっぱり、俺がひどいこと云ったの、気にしてんだ』
帰ると云う言葉に、逡巡を見せた誠吾の態度を、誠司はすっかり誤解したらしい。下を向いて、唇を噛み締める。
『半年前くらいかな。親父の会社の同僚だって云う人が訪ねて来たんだ。親父の会社が倒産したなんて、俺たち全然知らなかった。何で知らせてくれなかったんだよ!』
知らせるも何も、倒産したその翌朝には、ここにいたのだ。知らせようなど無かったが、それは云えなかった。
唐突に誠司が抱きついてくる。泣きじゃくりながら、話続ける誠司の言葉を、誠吾は髪をなでながら、辛抱強く聞いていた。