第十三話
「じゃあ、セイ。そろそろ部屋へ戻る」
「え?」
早々と腰を浮かすアデイールに、誠吾は拍子抜けしたような声を上げる。
こちらの暦は、どうやら月齢らしいし、使用人たちが早くに引きこもってしまったことから、今日が新月の夜だと思っていたのだが。
それとも、まだ大人では無いと、我慢をするつもりでいるのか。
「とっくに覚悟は決めてるんだぞ」
誠吾は、立ち去るアデイールの背中を見つめて、ため息を吐いた。
確かに、大人のキスが合格したらなどと云ってはみたが、それだって、半ば引き伸ばすための手段のようなものだ。
サディも云っていたではないか。新月の夜は『欲望の抑えられない、獣たちの夜だ』と。
誠吾は、食卓を綺麗に片付けると、予め用意された風呂を使った。中年男の身体など、綺麗にしたところでたかが知れてはいるが、それでも、やらないよりはマシだろう。
夜着に着替え、窓のかんぬきをしっかりと降ろす。
外を徘徊する獣の、低いうなり声があたりを満たしていた。
用心の為に、弓を枕元に置き、扉をぴったりと閉じた後、かんぬきを外す。
ベッドで上半身を起こし、矢をつがえた。呼吸を整え、きりきりと弓を引く。誠吾が狙いを定めたのは扉だ。
弓を放つと、鋭く空気を裂いて、扉に突き刺さる。
途端に、扉の向こうのうなり声が止んだ。
「アデイール以外の奴は、容赦しない!」
誠吾の鋭い声に、しんと扉の向こうが静まり返る。すごすごと引き上げているのだろうか。ひたひたと足音が遠ざかるのが判った。
その気配に、誠吾ほっと息を吐く。
枕元に置かれた、果実酒に手を伸ばした。冷たい液体が喉を通って行くのが気持ちいい。もしかすると、緊張しているのかもしれないと、誠吾は思った。
三十半ばの男として、それなりの経験はあるが、男としたことなど、当然ながらある訳が無い。覚悟を決めたなどと大きな事を云ってはみたものの、本当にアデイールと出来るのかは謎だ。
だからこそ、アデイールには本能のまま突っ走って欲しいくらいなのだが、あの優しい少年にそんなことを強いるのも酷だろう。
「あいつ、絶対に後悔しそうだもんな。やっぱ、俺がリードするしかないか」
色々と考えを巡らすうちに、杯だけを重ねてしまったらしく、いつしかつらつらと誠吾の意識は眠りへと誘われていた。
圧し掛かる気配と、柔らかな毛の感触に、誠吾の意識が浮上する。
誠吾は自ら、その気配の主の首に腕を巻きつけた。
だが、感触の違いに、はっとして飛び起きる。
「だ、誰だ?」
闇を透かし見ると、大きさはアデイールと変わらないが、シルエットがまったくと云っても良いほどに違った。
細身のシルエットは大型の犬に見える。銀色の大きな犬。冴えた青い瞳が誠吾をじっと見下ろしていた。
「狼? サディなのか?」
現実を認識した誠吾の動きは早かった。振り落とす気で、毛布ごと銀の狼を蹴り上げる。
枕元に置いた弓に伸ばそうとした手は、だが、サディに押さえつけられた。
圧し掛かる獣の息遣いは荒く、誠吾はぞっとする。
銀狼は、誠吾を押さえつけたまま、首筋に長い舌を這わせてきた。
必死でもがく誠吾だが、獣の力は強く、抵抗もままならない。
どうしてやろうかと、誠吾は手に触れた矢を、ぐっと握り締めた。
「ぎゃんッ!」
叫びが上がるのと同時に、誠吾を押さえつけていた躯が跳ね飛ばされる。
横合いから何かが体当たりをかましたのだと、誠吾が認識するより早く、その金色の獅子は誠吾を護るように、狼の前へと立ちふさがった。
「アデイール!」
誠吾が助けに来た男の名を呼ぶ。
金の獅子と銀の狼は、それぞれ向かい合って威嚇のうなりを上げた。
それぞれが体勢を低くして、今にも相手に飛び掛らんばかりだ。
獅子は、誠吾を背に一歩も引く様子は無い。
誠吾もじっとアデイールの背を見つめた。
これは、アデイール自身の戦いだ。誠吾が今、矢を射れば、勝敗は簡単に決するだろう。だが、それでは意味が無い。
獅子に、狼が飛び掛った。お互いに相手の首を狙っている。
爪を研ぎ、牙を剥き、相手を完膚なきまでに屈服させるために戦う獣たち。
既に、お互いの身体は傷だらけだ。
段々と攻撃に対する獅子の防御が弱まる。
誠吾の目にも、もう勝敗は明らかだった。
狼が、首筋に牙を立て、獅子が膝を付く。
それきり、どっと音を立てて、金色の獅子が倒れた。
狼が勝者の余裕で、誠吾に向かってゆっくりと歩を進める。
それに向かって、誠吾はぴたりと、狼の眉間へ弓の狙いを定めていた。
「悪いが、サディ。俺はお前らの勝ち取ったメスじゃない」
銀狼が不満げに低くうなる。
「俺が選んだのはアデイールだ。お前が何をしようが、俺の心は決まっている」
狼が、高く飛んだ。
そのわき腹ギリギリを、矢が掠める。
狼の身体が弾き飛ばされ、ベッドの脇に落ちた。
その狼に向けて、誠吾は二本目の矢を既につかえている。
「出て行け」
誠吾の声はあくまで静かだ。
サディは立ち上がると、身体を降って、ドアを器用に開いて出て行く。
その後姿を眺めていた誠吾は、すごすごと肩を落としたアデイールまでもが同じように扉を開くのを見咎め、慌てて、扉へ駆け寄った。
かんぬきを下ろし、アデイールの首を抱え込む。
「お前まで、出て行くことは無いだろう?」
誠吾は、アデイールの傷を見ようと、風呂の湯を使って、血を洗い落とした。
「それとも、情けないとか思っているのか? 第一、お前が争うこと自体がおかしいんだ。俺は『お前のセスリム』だろう?」
命に関わるような傷は無い。小さいものばかりだ。だが、効果的に付けられたのだろう。出血が多かった。
「あんの、サド野郎」
思わず日本語で呟いた誠吾を、アデイールがきょとんとした目で見つめている。大きな獣がそんな表情をするのを見ると、やはり、アデイールはアデイールだと、誠吾は改めて思った。
「アデイール。休もう」
アデイールを伴って、ベッドへ上がろうとすると、首を振って、抵抗を示す。
「アデイール。いいんだ。もういい」
首を振るアデイールに、誠吾は腕を巻きつけた。
次の新月で誠吾がアデイールの番いでは無いと、明らかになるだろうとアデイールは云った。
アデイールにとって、王になることに大きな意味は無い。
だが、いい王であろうとするこの少年の気持ちが大事だと、誠吾は心から思う。
誠吾は夜着を自分から落とした。
この少年の気持ちを護るために自分が出来ることがあるのなら、それで構わない。
浅黒いトレクジェクサの国にはいない、象牙色の肌はアデイールの目にはどう映るのだろう。
いつまでも自分の傍にこようとはしないアデイールに、覚悟を決めたはずの誠吾の決心が揺らぎ始める。
だが、それは無用の心配だった。考え込んで、うつむいてしまった誠吾に、アデイールが猛然と圧し掛かってきた。
今にも噛み付きそうな視線が、誠吾には心地いい。
いくら覚悟を決めたと云っても、どうせなら、切実な程、求められたい。それが男としてのプライドをねじ伏せる誠吾の中の一線だ。
獅子の熱が誠吾を貫いたとき、誠吾の口からは声にならない絶叫が漏れた。
「セイ。大丈夫か?」
柔らかな声に、誠吾はうっすらと目を開ける。
顔に当たる日の光は強く、今が既に朝と呼べる時刻ではないことを示していた。
「イディ、ドルゥ。アデイール」
目の前に心配そうに覗き込んでくる男の首に誠吾は腕を巻きつける。
大丈夫だ。自分自身で望んだことだ。そう云うかのように、アデイールに深く口付ける。
アデイールは、ここ一月ほどで、すっかり大人びて逞しくなった腕に誠吾を抱きしめて、その口付けに応えた。
「イディドルゥ。セイ」
名残惜しそうに唇を離したアデイールの口からも朝の挨拶が出る。いい加減に起きなければ、職務放棄になりそうだ。
アデイールは笑って、レドウィルを呼ぶと、食事の支度を云いつける。
レドウィルの笑顔にも、妙に安心したような色があり、誠吾は、自分たちの不安定さが露呈していたことを、今更ながらに思い知った。
王宮へ出仕したアデイールを見送って、誠吾はひとつ、手紙を書く。ただ、頼む相手が見つからなかった。昨日までなら、信頼できる人間として頼んでいたであろう相手も、さすがに昨夜の後では、頼みづらい。
仕方なく、手紙を懐にしまい込み、誠吾はレドウィルに留守を頼んで、見回りに出掛けることにした。
「セイ様。サディユース様は呼ばれないのですか?」
「いや、いいよ。使用人たちの様子見と、穀物庫の確認だけだから」
奥からは出ないと明言したことで、レドウィルも安心したらしい。案外あっさりと許可が出た。
本当は星術師の塔へと向かいたかったのだが、王宮の外れに位置する塔までは、誠吾の体調が持ちそうに無い。
さすがに、幾度もアデイールに貪られた躯は、正直なところ平気なフリをするのも辛かった。