よすが
出産のあの日を機会にオディリアは完全に正気を失った。
日によって錯乱した状態のまま全てを疑い暴れたり、あるいはヴィルヘルムをエリアスに見立てて、エリアスと婚約した頃の幸せな夢に逃げ込んだ。
ケインとユリアの事を認識出来なくなるどころか、会うと赤子を失った瞬間の記憶が蘇って恐慌に陥って会うことが出来なくなった。
ヴィルヘルムと過ごすことで落ち着く事が分かり、ただでさえ余裕のなかったヴィルヘルムは仕方なく私的な部分の采配をイリーナに任せた。
私的な部分とは王族の生活面である。ヴィルヘルムは公務に明け暮れていて最低限の食事をとり気絶するように二、三時間の仮眠をとる生活だったから、そこを任せてもそれほどの影響はないと考えたのだ。
だが、イリーナ本人が采配したわけではなかったが、彼女に付き添ってきた侍女がノーザンバラの資金力を背景に内廷の使用人を抱き込み、意に沿わぬ者は切り捨てた。ヴィルヘルムが気がつかない程、静かに素早くケインとユリアの生活環境は悪くなっていた。
朝食のダイニングに現れないユリアを迎えに行くと、寝衣を着たままのユリアが困りはてたように佇んでいた。
「食事の時間だけど、どうしたの?」
「侍女が来なくて、身支度が出来ないの」
言われてみればケインのところにも侍従は来なかったが、まさかユリアの元にも来ていないとは思わなかった。
ケインは元々身支度は一人でできるから最低限しか頼んでいなかったし、現状自分がその出身から浮いた存在になってしまっていると納得していたから侍従が来なくても気にしなかった。
だが、それとユリアの元に侍女が来ないのは訳が違う。女性用のドレスは一人では着られないからだ。
「信じられないな。呼んで来る」
部屋を出て侍女を探したが、今まで仕えてくれていた侍女は見つからなかった。
「ユリア付きの侍女を探しているのだけど」
「彼女は辞めてしまいました。しばらくは専属をお付けできませんが、代わりのものが日替わりで姫様のお世話をする事になっているはずです」
「来ていない。伝達がなっていないんじゃないか?」
「侍女長に確認しておきます」
「至急、ユリアの部屋に行って着替えの手伝いをするように伝えて。あなたが来てくれてもいいんだけど」
「申し訳ありませんが、別の仕事がありますので」
すっと頭を下げて行ってしまった侍女を見送って、ケインは途方に暮れた。
とりあえずユリアの部屋に戻ったが、やはり侍女が来る気配がなくて、ケインは仕方なくユリアの衣装部屋から、着せ方の分かる服を取り出した。
「僕が手伝うから、着替えよう。お腹すいたろ?」
少しの間考え、ユリアは強張った笑みを浮かべた。
「うん」
リヒャルトの息子である自分が言ったから来てくれなかったのではないか、という考えが頭の片隅をよぎった。ヴィルヘルムとの会話で、もやついていた父への感情は整理されたが、それは自分の気持ちの問題で、他人の自分に対するあれこれが変わったわけではない。貴族からの風当たりは収まってきたが、使用人からは悪化しているように感じる。
衣装部屋で簡単な作りのドレスを苦労しながら着せつけて、ダイニングに行くと既に朝食は片付けられていた。
「食事は?」
「お食べにならないのかと思って処分しました」
言葉遣いすらぞんざいなメイドに邪魔だとでも言いたげに押されて、ケインは唇を噛み締めた。
自分に対してだけならばともかく、ユリアの食事まで片してしまうのはいただけない。
「その態度……」
「なにか? いくら王族といえど、いえ王族だからこそ、時間をお守りいただけますか? たくさん人が辞めてこちらも限界なんです」
刺々しい態度に鼻白むと、ユリアが割って入った。
「あなた達の仕事の邪魔になってしまったのね。迷惑をかけましたね」
「ユリア!」
ユリアは首を振ってケインを宥めた。悔しい気持ちはあったがユリアを慮って一歩後ろに下がる。
「とてもお腹が空いていて、なにかいただく事はできないかしら」
「昼食までお待ちください。でなければ、厨房に行って、残飯を召し上がればいいのでは?」
あまりの言い草に唖然としていると、メイドは形ばかりの礼を取って、さっさと食堂を出てしまった。
「部屋に戻ろう……ケイン」
差し出された手をぎゅっと握りしめる。不安に満ちたその手の温かさが、お互いにとってのよすがだった。
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