愛を知らぬ人※閲覧注意
一方的な暴力のシーンがあります。
復讐回です。ご留意の上閲覧をお願いします。
悲鳴が部屋に響きわたる。
顔に温かいものがかかったが痛みはない。
悲鳴は自分があげたものではない。
そう認識して、アレックスが恐る恐る目を開くと、そこにはナイフを握りしめた手が転がっていて、ぎょっとした。
イリーナの方に視線を戻すと手首を押さえてしゃがみ込み、顔を苦痛に歪めている。
先ほどまで染みひとつなかった淡色の愛らしいドレスは血まみれだ。
「あーあ、予定が狂ってしまった」
扉を閉めて鍵をかけ、残念そうに肩をすくめた黒髪の青年の手には、リヒャルトの剣があった。
「いたい……痛い! 痛い! どうして、わたしの手…! ねえ! どうしてよ! ランス」
ランスは泣き喚くイリーナの腕をきつく縛って止血し、冷たく言い放った。
「どうして? 人の物を盗んで、あまつさえそれで俺の大切な人を刺し殺そうとする悪い手は、切り落とされて当然だろう。ほら、それにあの悪党とお揃いだ。切った位置は少し違うけど、うれしいだろ?」
にこりとしたランスに、痛みをこらえて涙を流しながらイリーナは叫ぶように尋ねる。
「うれしいわけ、ないでしょ! なんで! 私のこと、愛してるんでしょう?! どうしてこんなひどいことをするの!?」
ランスの顔が、その言葉を待っていたかのように昏い悦びに歪んだ。
イリーナの胸ぐらを掴んで、顔を近づけ、唇がふれるか触れないかのところで、こらえきれなかったかのように嘲り笑いの声を上げた。
「ふふっ……ははっ……愛している? 俺が、あんたを? ありえない」
「え……?」
イリーナの顔から表情が抜け落ちた。何を言っているかは分かるが、理解はできないといった顔だ。
それこそが求める反応だとでも言いたげに、ランスは侮蔑と共に言葉を繋ぐ。
「一度でも『愛している』と言ったことはあるか? ないだろう?」
「うそ……そんな嘘はやめて! 貴方は私のことを愛してくれていた!」
「いいや? 一度も。一瞬も。一毫たりとも」
イリーナの心を痛めつけるかのように、何度も重ねてそれを告げる。
「信じない、信じないわ! あんなに熱っぽい目で私のことを見てくれていたのに!」
「ふはっ、愛情と憎悪の区別もつかないのか。憎みこそすれ、愛した事など一度もないよ。かわいそうなイリーナ。生まれてこのかた、誰からも愛された事がないから、そんなことも気づけなかったんだ。俺の愛を信じて、依存して、何もかも捨ててこんな世界の果てまで付いてきて、そして一人で死ぬなんて。本当に愚かで可愛くてかわいそうだ」
「ひどい! 貴方に憎まれるような事をした覚えはないわ! 身を盾に庇ったこと? それは貴方がそうしたんでしょ!」
アレックスが止める間もなくイリーナの頬が鳴って唇の端から血が滴った。
「盛りのついた猫でももう少しは静かだ。見当違いの事をぎゃあぎゃあ喚くな」
「あ……」
暴力に震えるイリーナの頬をランスは手の甲と指先ですりすりと撫でる。
切れた口の端を触られて痛いはずなのに、恐怖で呻き声すら出せないようだ。
ランスを止めなくてはと思うが、ラトゥーチェフロレンスの地下で見た以上の殺気と威圧感、それに身を蝕む痺れ薬も影響し、アレックスの足も竦んで動かなくなっていた。
「そう、静かにできて良い子。言いたいことはたっぷりある。だが、義父上の手当が先だ。それまでそこで息を殺して座ってろ」
優しげな言葉とは裏腹にイリーナの肩を乱暴に押したランスは、大股で壁にもたれたアレックスに近づき、その前に跪いてシャツの裾をめくった。
「毒を吸い出すから」
「ランス、いや、ケイン……だな?」
前に否と答えた問いだ。だが、ランスはそれに答えずに傷口を吸った。感覚が鈍っているのに、その唇の湿った熱さに身体の奥底がぞわりと蠢いて、アレックスは唇を噛み締める。
ランスは吸い出した毒混じりの血をハンカチに吐き出すことを数度繰り返し、酒棚にあった強い蒸留酒を傷にかけた。
「これですぐに抜けるはずだ」
「ケイン! ちゃんと答えろ!」
うやむやにしたくなかったアレックスの強い問いに反応を示したのはランスではなくイリーナだった。
「ケイ……ン??」
ランス、いや、ケインはイリーナの声にぐるりと振り向き、にたりと嗤う。
そこには幼い頃の面影など何一つなかった。その姿は、復讐に囚われその成就に狂喜する獣のようだ。
「秘密の庭でもらった苺の味が忘れられなくて、他の苺は食べられなくなったんだ。臓腑の焼ける、実に刺激的な味だった」
「ケインなはず、ないわ、だって、あの子は……」
「ヴィルを殺そうとして返り討ちに遭って、死体を犬に食わせたはずだから? あれほどあからさまに疎まれ憎まれていたヴィルの言葉を信じるなんておめでたいな」
ゆるく膨らみをつけて結われたイリーナの前髪を引っ張って引きずり、壁に叩きつける。激情に駆られた風ではなかったが、そこには深い憎しみが燻っている。
「いた……ぃ。やめ……」
「俺は、ユリアは、もっと苦しかった。この程度で笑わせるな!」
「ケイン! やめろ!」
目の前で繰り広げられる暴力行為を看過することは出来ず、アレックスはケインの足首を掴んで止めた。踏みつけられると思ったが、ケインはイリーナの髪から手を離した。
「やめろ? この女のせいで何もかも滅茶苦茶になったのに庇うのか?」
「一方的に強い方が弱い方を嬲っていれば、止めるだろう!」
「ユリアを虐げさせた上に毒を盛った。それだけじゃない。貴方の実の息子だって死んで、そのせいで義母上は心を病んだ末に亡くなった」
「むすこ?」
妻の消息以上に実の息子という言葉にアレックスは耳を留めた。
「ああ、そうか。知るはずがない。貴方はその時、ナザロフに売られて男娼に堕とされていたもんな? 教えてやるよ。ちょうどいい。イリーナ、お前もだ」
イリーナの腹につま先をめりこませ、ケインはうっそりと微笑んだ。
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