私の小鳥
今回はランスとイリーナのキスシーンなどがありますが、話の流れで必要な判断なのでいれています。
ディフォリア大陸はメルシア連合王国のある大陸です。
アレックスは船の針路を総督府に変更し、艦隊と共に軍港に入港した。
海側から大砲によって外幕壁の一部が崩されているのが見え、常に感じる潮の匂いに焦げた匂いも混じっていて、焦燥によって早足になる。
門まで行くと、門の落とし戸は落とされ、普段はいない歩哨が立っている。
「私掠船団のアレックスだ。島に戻る途中……」
「お待ちしておりました! アレックス様が戻られたらすぐにお通しするよう命じられています」
海尉とイリーナを引き連れて総督邸に足を踏み入れ、アレックスは呻いた。
「これは酷いな……」
華美ではないが、上質でアレックス好みだった調度や建具はあちこち破壊され、所々に火をつけられた跡もある。
「応接も私室も破壊されていまして。予備の部屋を整えました」
邸に入った後に案内を引き継いだガイヤールの執事が普段通されたことのない客室にアレックス達を連れて行った。
「お連れ様と海尉は、こちらでひとときお待ちいただけますか? 主人は今触りがありまして……まずはアレックス様のみ、お会いいただくのが良いかと思いますので」
二人を部屋に置いて、その隣の部屋の扉を開けるとアレックスは部屋の様子にぎょっとした。
右目の上に包帯を巻き、俯いて腿の上に肘をつきソファーの隅に座るランス。
向かい側にはあちこちに殴打の跡の残るガイヤールがソファーの上で膝を抱えて座っている。
あまりの暗さに不安を覚え、アレックスは動揺をなんとか押し殺して努めて平静な声で声をかけた。
「どうした? なにかあったのか? ジーノは無事か?」
「ジーノ様は軽い怪我を負っていますが、元気です。明け方までは興奮で眠れなかったようですが、医者に薬を処方されて今はお休みになられています」
口を開かない二人に替わって執事が言った。
「なら、どうしたんだよ。二人とも。ほら、戻って来たぞ。ランス、お前の恋人も隣の部屋にいるぞ。再会を喜ばないのか?」
「……無事でよかった。でも、今はあんたに合わせる顔がない……。奴に逃げられた」
じっとりと充血した左目がちらりとアレックスを見て、再び床に戻る。
「私も……。私の愚かさから皆を危険に晒して……。命を絶ってお詫びしようかと、ここに」
息も絶え絶えに立ち上がったガイヤールがアレックスの前に額づいた。
「気心の知れたものしかいないにしても、統治領で一番偉い男の土下座は外聞が悪すぎる。このありさまの原因は分かっているが、あの子が無事なら、俺は詫びを受ける立場じゃない」
立ち上がらせ、椅子に戻そうとするとガイヤールがアレックスに縋りついた。
「それでは私の気が済まない! 頼む、私を手酷く罰してくれ」
「うわっ……。なんかお前、それ……違うだろ」
正直、処罰を求めるというより別の性癖が隠れているように聞こえる。気持ち悪いという言葉は飲み込んだものの、突き放して椅子に座らせて距離を取り、アレックスはランスに近づいて、頬を両手で挟むと顔を覗き込んだ。
「ランス。この怪我は? 大丈夫か?」
「……瞼を斬られただけだから、機能に問題はない。治れば元通り見えると医者が言っていた」
首を振って手を放そうとするランスに体重をかけるように顔を近づけて、今彼が一番喜ぶであろう言葉をかけた。
「ナザロフの一味は、今、俺の船の檻の中だ。機嫌を直して、姫様との再会を喜べ。俺に感謝しろよ」
勢いよく立ち上がったランスと額がぶつかって、アレックスは激痛を堪えた。
「石頭め……!」
「本当か? 本当に……捕まえられたのか?」
信じ切れないのだろう。呆然と尋ねるランスに頷いてやる。
「あからさまに怪しい船が総督府から奴隷島に向かう航路にいたからな。捕まえないわけがないだろう。あいつの腕を切り落としたのはお前か? 弱っていたから捕らえることが出来た」
ランスの眉尻が下がり目元が潤む。
その顔は幼い頃の養い子の半泣き顔に似ている。
はっきりと否定されたのに未練がましいとアレックスは自嘲しつつも、かつて養い子にそうしたように、髪を撫で、頬を撫でてしまった。
すると男の眦がとろりと下がって、嬉しそうに頬を手のひらに擦り寄せ、柔らかく微笑んだ。
「いつも俺を助けてくれる……やはり、あなたは……私の」
一筋涙を落とし、何かを告白しようとしたランスの声を遮ったのは、喜びに弾んだ女の声だった。
「ランス!!」
その声が聞こえた瞬間、ランスはさっと零れた涙を親指で拭った。
そして、一瞬にしてその顔は陶器人形のごとき硬さと冷たさに覆われ、蕩けんばかりだった笑みは口角を持ち上げた形ばかりのものに変わる。
「イリーナ。私の小鳥。貴女が無事に私の腕の中に戻って来たと証明してくれ」
湖の騎士もかくやと言った浮ついた科白を口に出し、芝居がかった動きで手を広げる。
そこにイリーナが飛び込んで来て、アレックスはあわてて退いた。
「ああ! 愛しい貴方! 貴方の小鳥はその優しくてたくましい腕に帰ってきました」
ランスが軽やかに腕の中に納まったイリーナを抱きしめて一回転して、そのまま唇を合わせて深く貪るようなキスをする。
「……再会が嬉しいのは分かるが、お熱いのは二人きりの時にお願いできるか? 独り身には刺激が強い」
絡まる唾液の音まで聞こえるような濃密なソレに居心地が悪くなり、からかうように止めると、イリーナはぱっとランスから身を離した。
「はしたなかったですね……! ランスに再会できたのが嬉しくて。貴方もありがとう。ランスに会えたのは貴方のおかげよ」
手を差し出すのは手の甲への口づけを許す、ということだろう。
この南溟の地においては何の意味もないが、身分の高い女性からそれを許されることはディフォリア大陸の貴族にとって誉れなのだ。
断るか儀礼的にそれをうけるか逡巡したアレックスだったが、答えを出す前にランスがイリーナの体を後ろから抱き寄せてそれを止めた。
「他の男にそんな事を許すの?」
こめかみに口づけを落とし、甘い声で問う。
そのくせ表情は冷たく、瞳だけがギラギラとした熱を持ってイリーナを睨め付けている。
イリーナからは見えていないだろう、嫉妬ともまた違うランスの表情にアレックスは戸惑い、首を傾げた。
この様子から窺い知れるランスの感情は憤怒か憎悪だ。それも自分に向けられているものではなく、彼女に向けられているものだ。
「あら、そうね。ごめんなさい。感謝はしているの。でもそれを伝える術がないわ」
「ランスにはその分、色々手伝ってもらっています。ご心配なく。お二人が再会できて良かった」
「ええ! そうなの! 嬉しいわ! 私達、運命の恋人同士なの。こんな世界の果てまで逃げてくるぐらい」
ランスとは裏腹に、イリーナは嬉しげにはしゃいでランスとの仲を喧伝する。
それは10年前、彼女が弟の妻になった時にはほとんど見られなかった様子で、あの頃と違い人間らしかった。
「イリーナ。惚気るのはそれぐらいにしてくれ。気恥ずかしいから。それより疲れているだろう。まだ総督達と仕事の話があるから、部屋に戻って待っていてくれないか?」
そっけなくそれを止めたランスは総督の執事に部屋への案内を頼む。
「でも私、早くあなたに提案したいことがあって。あのね、ノーザンバラに一緒に帰りましょう。貴方とレジーナと帰れば、皆歓迎してくれる。ナザロフの船に乗れば帰れるわ」
「……今のは聞かなかった事にする。私は貴女との駆け落ちは選んだが、それはこの、なんのしがらみもない土地で新生活を送りたかったからだ。私達は十分に王を裏切っただろう。これ以上、裏切りを重ねたくはないんだ。それに、ナザロフとは定期船を襲った海賊だろう? 奴らはすでに捕縛された。貴女も捕縛の時、同じ船に乗っていたんだろ? 気がつかなかったのか?」
「え?!」
「海賊と戦うから個室を出ないようにということは伝えたと思うが。それに誰を捕まえたかは、軍の機密だ。教えるはずがない」
アレックスの説明に、何か言いたげだったイリーナだが、それを待たずにランスは硬い声で告げる。
「いや、それよりナザロフと知り合いだったと言うなら、貴女も海賊の手先という事になるが?」
「え、その……知らなかったわ。出身が同じだから親切にしてくれて、ノーザンバラに連れて帰ってくれるって言われただけなの。でも、ノーザンバラに帰るのは考えて欲しいわ。皆喜んでくれるはずよ」
「私はここで暮らしたい。ノーザンバラが歓迎する? 殺した暗殺者の半分はノーザンバラの手の者だった。メルシアにいた時のように命を狙われ、眠れない日々に戻るのか? ここならば静かに眠れるだろうさ」
ランスは何かを含んだ言葉でイリーナの提案を一蹴した。
「……そうね。ランス、早くお仕事を終わらせてね」
スカートを持ち上げて上品に挨拶したイリーナがどこか寂しげに執事と共に部屋を出ていった。
「いいのか? 最愛の恋人に会えたんだろ」
「やめてくれ。それよりもちゃんとした牢に海賊共をぶち込むのが先だ。鍵を貸して」
嫌そうな表情を隠しもせずに出された手に牢の鍵を置くとそれを懐に入れる。
ソファーの側に剣帯と共に立てかけてあった剣を腰に巻き、ランスは剣を抜いた。
「そうだ、これ、やはり少し刃こぼれを起こしてしまった。だが、この剣がなければ命はなかった。鍛冶に頼んで直すから、もう少し借りていていいか?」
「ああ。しばらく持っていてもらっていい」
そう答えると、ほんの少し先程の微笑みが戻る。
「ありがとう。では、いってくる」
いつも通りの綺麗な姿勢で歩いて部屋を出ていくその背を追って、アレックスはため息をついた。
嫌な予感やイリーナとランスのふれあいで感じたモヤモヤとした物が腹の奥に溜まって、自分の感情の整理がつかない。
「さっき、独り身と言っていたが……その……私と……」
「おい、全く反省してないな。ああ、そうだ。あなたとはしばらく仕事以外の受け答えをしないことにします。罰を受けたいならそれでいいでしょう? リベルタ総督」
先程の土下座はなんだったのか、擦り寄ってきた男に肘鉄を加える。
ガイヤールの通常運転で、ほんの少し気を紛らわせる事の出来たアレックスはランスが先程まで座っていたソファーに体を投げ出した。
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