煮込み
コロナから回復しました。ご心配をおかけしました。更新スピード落ちるかもしれませんが、ぼちぼち再開します。
時間をかけて風呂に入って気持ちを落ち着け、テーブルに海図、紙と筆記用具を広げて、なるべく事務的に割り切るべく環境を整え、ブランデーを引っ掛けて、アレックスはやっとランスを部屋に呼べた。
「得た情報を教えてくれ」
自分の唇を親指の腹で撫でながら尋ねると、ばさりとテーブルに紙の束が置かれ、ランスは踵を返した。
「そこに全部まとめてある。読めば分かるだろ。競売人の手下で捕らえたものはそれ以上傷つけてない。取引出来るかもしれないからな。それとノーザンバラの手の奴で一番詳しそうな一人は生かしてあるから不足があれば聞けばいい。今はとても従順だ。なんでも話してくれるだろうさ」
「……まとめてくれてありがとうな。その、すぐ終わるから読み終わるまでここにいてもらえるか?」
アレックスの提案にランスはにべもなかった。
「質問があれば呼んでくれ。地下をかたさないといけないから」
ドアが閉まる乾いた音が小さいがはっきりと部屋に響き、中腰で動きを止めていたアレックスは首を振って椅子に腰掛けなおし、書類に目を落とした。
地下で見た書き付けと違って、お手本の様な字できれいにまとめられた書類は、読みやすく分かりやすい。
「奴隷島……か」
独りごちた声に苦味が走る。
あそこは自分の力も及ばず、総督の権力も通じない、競売人を頂点とする第三勢力である。不可侵を暗黙の了解としてお互いに棲み分けていた。
襲撃するにしても、ナザロフに従わされているのか、積極的に協力しているかで作戦も変わる。
重くなる気を紛らわせようと酒瓶を傾けたが、グラスを満たす事なく最後の一雫がこぼれ落ちた。
チッと舌を鳴らして一口分しかなかった酒を飲み干し、アレックスは愛用のペンを再び手に取った。
白い紙に自分の記憶にある限りの館の見取り図を書きつけ、奴隷島の地図を引っ張り出して思案に暮れる。
前提として、向こうが狙っているのは自分とレジーナだろう。
私掠船団の戦力と隠し港の存在はドルフによってナザロフに知られてしまっているに違いない。総督と懇意にしていることまでは明かされているかもしれない。
が、海軍を動かすことまでは予想できないはずだ。
ランスがまとめた敵の戦力を再び確認して、自分達の動かせる駒を突き合わせ、作戦を練っていく。
自分でも知らず知らずのうちに熱中してしまったらしい。宵の口から作業を始めたはずなのに、ひと段落して時計を見ると夜半を過ぎていた。
軽く伸びをして立ち上がり、食事を取りに行くのに廊下へと出る。
平時ならば男女の欲の香る時間だが、このゴタゴタで店を閉めているせいで人の気配がない。自分がここに連れてこられてからこんな事ははじめてで、好ましく思ったことなどないのに、なければないで落ち着かなかった。
薄灯の階段を降りて厨房に行くと、トレイに食事を載せたランスとかち合った。
「お前も今から食事か?」
「……いや、あんたにと思って。あれから一度も降りてきてないって聞いたから」
押し付けるようにトレイを渡されて、横をすり抜けようとするランスをアレックスは引き止めた。
「待ってくれ。一人で食事は侘しいだろ。話したいこともある。付き合ってくれ」
「悪いが……」
足を止めてこちらを窺い見たランスの顔にはいたたまれないと書いてある。
「まだ気にしてんのか? 俺は元男娼だぞ。さんざんっぱら男の欲を受け入れてるんだ。キスなんて、挨拶みたいなじゃれあいで気にもならない。あの程度のことで避けられたくない。今後にも差し障る」
後悔を少しでも軽くしてやるためにそう言うと、ランスの顔が苦渋で歪んだ。
「前も思ったが、そうやってスレた態度で、何でもない風に装うのはよせ」
「何でもない風じゃなくて、なんでもないんだよ」
トレイを片手に抱え、開けた手を伸ばして子供に対してやるように柔らかな癖毛に触れる。それを大きな手で留めたランスが低い声で言った。
「気にしてるだろ。あれからしょっちゅう唇を触ってる」
指摘されてアレックスは目を逸らした。頬が熱を帯びているのが分かる。無意識だったが、言われてみればそうかもしれない。
「……そうだな。気になってないわけじゃない……ただそれはその……あまりにもキスが上手くて驚いたというか……」
「は?」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔で凍りついたランスに言い訳するようにアレックスは続けた。
「いや別に、欲情したとかじゃないんだ。ただもう本当に驚いて……その、余韻がまだ残っているだけで……」
どんどん言い訳がましく、口調も胡乱になっていく。自分でなにが言いたいのか分からない。こんな事はついぞなく、アレックスは自分の感情に戸惑った。
「上手いと言われても……」
当然ながら困惑した様子のランスの目をじっと見つめて、アレックスは切り替えた。
「ともかく、それだけで深い意味はないんだ。俺はお前とぎこちないままいたくない。ケインが生きていて欲しいというのは単なる俺の感傷だしな。お前が違うというなら、そういう事だと腹に収める。あの男と対峙して分かった。自分自身であいつをどうこう出来ない。お前が頼りなんだ。だからわだかまりは捨てて俺を助けてくれ」
「……命に代えても、あんたとレジーナのことは護るつもりだし、あの男達は必ず仕留めるから安心しろ」
その言葉に、真剣なまなざしに、光を喪った琥珀の瞳の幻が見えて、すっと肝が冷える。
「助けてくれと言っておいてなんだが、命に代えても、は止めてくれ」
何故?と言ったふうに首をかしげられて、アレックスは息をつめた。
「身代わりで死んだ命を、もう背負えない」
「背負う必要なんてない。命をかけるのはこっちの勝手だ」
優しく微笑まれてアレックスは眉を顰めた。それはリヒャルトが最後に浮かべたものに酷似していたから。顔立ちが似ているわけでもないのに、たまにすごく似た表情をする。こちらの命を守れれば自分のそれを捨てても満ち足りるのだとでも言いそうな顔。
「自分のせいで死なれたら、否が応でも背負うんだよ。だから、俺なんかのために死ぬな。いいな」
強く念を押して、アレックスはサロンのカウンター席に着くとランスが用意してくれた夜食を見た。
「これは?」
この辺りではあまり作られない、メルシアの山間部でよく食べられる豆と芋と燻製肉の煮込みだった。
「温かい飯の支度がなかったから俺が作ったんだ。少し冷めてしまったが。前のスープでも良かったが、物足りないかと思ってな」
「いや……充分温かいし、うまいよ。前のスープもだけど料理、上手なんだな」
それを口に運んだアレックスは俯いて答えた。
それはほんの少し塩が効きすぎていたが、自分のことを慮って作られた故郷の料理はアレックスの胃の腑も胸の裡も優しく温めた。
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