スープ
お世話回
あの日から五日、ありとあらゆる雑務を片付けて、ランスはアレックスの部屋のドアをそっと開けた。
「デイジー、アレックスの様子はどうだ?」
「熱は落ち着いてきたよ。何回か起きてるけどちょっと話が通じなくて……」
「後は俺が代わるから」
「あら、でも他にやること」
「全部! 終わらせてきた! なんなら言われそうなことも先回りしてやってきたから、もう文句は言わせない」
デイジーを遮り、食い気味にランスは答えた。
「熱心ね。そんなにこの子に惚れてんの?」
「そういうんじゃない。どうして皆、色恋沙汰とかたぶらかされるとかそういう風に取るんだ」
「そりゃあ、こういう場所にいるとどうしてもね。あの子に惚れて目の色変えて通う男どもを沢山見てるんだ」
「……俺は違う」
情欲ではなく、思慕なのだと主張したかったが、それを言ってしまえば自分と彼の関係から話さないといけない。それは口には出せなくて、ランスはただデイジーの言葉を否定するに留めた。
「そういう事にしといたげる。ウィスもあんたには気を許してるみたいだし」
「気を許してる? 彼は皆に気安いだろ」
「表面上はね」
デイジーは立ち上がって背中を伸ばした。
「じゃ、後はよろしく。アタシは少し寝てくるよ」
そのことを詳しく聞く前に、揺れる指先を最後に軽やかにドアが閉まって、ランスはアレックスと二人きりで部屋に残された。
額に乗った濡れた布を取って洗面器に落として沈めると、手で体温を確認する。平熱より少し高いぐらいでランスは安堵した。
洗面器の生ぬるい水に手を入れて布を持ち上げて軽く絞り、もう一度額の上に置いてやるとアレックスの目がぼんやりと開いた。
「ら、ん……?」
掠れた声で名前を呼ばれてランスは声を上げた。
「アレックス」
縋りつきそうになるのを寸前で止め、なるべく平坦な調子で話しかける。
「何か飲むか? 腹は空いてないか?」
「……み、ず」
「触るぞ。嫌なら言ってくれ」
頷いたのを確認して、身を起こさせて背中にいくつか枕を入れてやり、水の入った吸い口をかさついた唇に差し入れた。
「ゆっくり飲んで」
喉が上下して、吸い口の中身が減っていく。ほぼ空になったのを確認して、ランスはそれを手元に差し戻した。
「もう少し飲むか?」
「……いらない」
くったりと枕に体を預けたアレックスを見つめて、ランスは腰の剣を外してその手に持たせる。
「ほら、借りていた剣、返すよ」
「だ……めだ!! これで、守ると!! 約束したろ! 返すなんて!」
悲痛な声を振り絞り、体を震わせてその剣をこちらに押しつけてくるアレックスに、ランスは彼がまだ片足しかこちらに戻ってきていないと察した。
残りは過去にいるのだろう。だから、視線を合わせて、まだほんのりと熱っぽい手に自分の手を重ねて、ゆっくりと気持ちを込めて言葉をかける。
「アレックス、違う。俺があんたに頼まれたのは、これを預かることだ。あの男は逃げ帰った。だからこれを返している。追い返したら返す約束だったろ」
「え……あ? ああ……ランス、そうだったな」
大切な誰かを抱きしめるように剣を抱え込んで、すらりとした指先は剣の柄を確かめるように撫でた。
「預かってくれてありがとう」
荒くれに混ざるために作られているであろう常の彼よりも声も口調も柔らかい。そこに懐かしい響きを感じ取って、ランスは俯いて首を振った。
「たいしたことはしていない。ああ、剣の手入れはしておいた。毎日してやった方がいいと思って」
顔を上げて前に彼がやったようにウィンクを飛ばすと薄く笑う気配があった。
「何日潰れてた?」
「五日。だが、安心してくれ。レジーナ様は総督邸に匿ってもらっているし、雑用は全部片付けてある。海軍の支度も手を回した。店は臨時休業にしてある。客には詫び状を出しておいてもらった。懸念事項は戻って来ているはずのピンキーとドルフが戻ってきていないことぐらいだな」
「それは……頼りになる……なあ、俺はぶざまだったな」
「そんなことは思わないが、心配はしていたよ。俺だけじゃなくて、皆」
「情けないな。俺は…あれしきのことも耐えられなかった」
自嘲し、唇を噛み締めるアレックスは痛ましい。
「あれしきじゃない。自分を貶めた仇に再会すればまともじゃいられない。恐怖に沈むにしても怒りに支配されるにしてもな」
実感を込めて言ったランスにアレックスは首を振って、力尽きたかの様に枕に顔を埋めた。
「……風呂の支度をする。ひげもあたったほうがいいな。それと何か軽い食事を用意する。準備出来るまでもう少し休んでいるといい」
返事のないアレックスを置いて浴室に行き、着替えの支度を置いて風呂の蛇口を開くと、部屋を出て厨房に行く。
いつもは食事をすぐに提供出来る様に作り置きがあるが、今日は客もいないためにそれもない。
ランスは塩漬けの肉と野菜と芋を小さめに切ると水に入れて煮込み、塩や胡椒などの調味料で味をつける。行軍中によく作られる簡素なスープだが、良い材料を使っているせいか、戦場で作ったものよりもはるかに美味しく出来た。
それにカットしたフルーツとパンとアレックスが前に食べていた糖蜜菓子を添えてトレイに載せると階段を登り、部屋に戻った。
「アレックス。食事だ」
「……腹は空いてない」
顔を横に伏せたまま言ったアレックスを一瞥してランスはテーブルに食事を置いた。
「なら風呂だな」
そろそろ湯も出来ただろう。ランスはアレックスの返答を待たずに彼を抱き上げる。
「おい!」
「五日も寝てたんだ。足が萎えているはずだ」
「放っておいてくれ」
「いいから。世話を焼きたいんだ。任せてくれ。いやなことがあったら教えて」
強引に進めてしまえば、気力がないのだろう。抵抗する事もなくアレックスは身体を委ねてくる。
「座れる?」
風呂場に着いて、化粧台の椅子にアレックスを座らせて湯温を確認して、ランスはアレックスの背後に立った。
「脱がせて風呂に入れる。俺に委ねて。嫌だったら止めて。やめるから」
アレックスの視線がじとりとランスの顔を這った。かつて新緑と木漏れ日の様だと思ったその瞳は、今は汚水の混じった沼のように濁り、一寸の輝きも見えない。
「……ああ」
低い肯定にランスはアレックスを支えて立たせるとローブに手を掛けて床に落とし、抱き上げて浴槽ににそっと入れ、自分も服を脱いで下着だけになって浴槽に足を入れて後ろに立った。
布で額から髪にかけてを濡らしてベタついた髪を丁寧に洗って濯ぎ、ぱらぱらと生えはじめた髭を綺麗に剃ってやる。
バスタブで足を伸ばし顎を上に向けて、目を閉じてされるがままになっている彼はひどく幽く、いとけない。
やつれた手足と背中を擦って、後ろから抱き込むような体勢で体の前を洗っても、さらには身体の中心に手がかかっても、みじろぎもしない。
王宮では身支度や入浴の世話をされていたから恥じらいがそもそも薄いのは知っているが、これはおそらくそういった原因ではなく、気力が足りていないのだ。
「出来たぞ。立って」
体を支えて立たせるとリネン地のバスローブを着せて風呂から出し、髪や手足の水分をしっかりと拭って、用意しておいた下着とストンとしたシャツとサッシュベルトで留めるタイプの緩いズボンをアレックスに着せつけた。
「次は食事だ。食欲がなくても少しくらいは食べてもらうぞ。よく食べて、良く寝て、体を作らないと」
幼かった時にうんざりするほど聞いた言葉だが、これは正しい教えだったと平坦でない人生経験で納得している。
「……!!」
顔を跳ね上げたアレックスの表情がほんの少し常の状態に戻っていた。
「ほら、歩けないだろ」
「歩ける」
抱き上げようとしたら軽くかわされて、アレックスはランスが思ったよりもまともな足取りで部屋に戻って食事の載ったテーブルの前に座った。
「これは……」
トレイに落とされたアレックスの視線がランスの作ったスープに注がれ、震える手がスプーンを取ってそれを上品に掬って整った唇の中へと運んでいく。
他の物には手をつけず、味わうように何度もスープだけを口に運ぶ。少なめによそったせいもあり、すぐに皿が空になった。
「そんなに気に入ってくれたのか?」
「ああ……これはお前が?」
彼が気に入ってくれたというだけで、心が浮き立つ。幼い時のようにランスは小さく胸を張った。
「そうだ。腕のいいここの料理人の作じゃなくて、俺が作ったやつだ。会心の出来だったかな」
「……よく似たスープを船で飲んだんだ。料理人が船酔いで寝込んでしまって、作ってもらったんだ」
「それはあの剣の持ち主に?」
「よく分かったな」
意外そうに眉を上げて、アレックスはこちらに視線を送ってくる。
「……これは行軍中に作るスープだ。騎士や傭兵と縁のなさそうなあんたが食べる機会は、あの剣の持ち主が作ったぐらいしか考えられない」
正確には赤狼団、いや、フィリーベルグ辺境伯の騎士団で作られていた。簡単に作れて味も良く食べやすいから行軍中だけでなく、病人の看護の時も大抵このスープだ。ランスも子供の頃から食べていて、初陣の時に作り方を習った。
「……もう少し食べたい」
「分かった。持ってくる。フルーツやパンはどうだ?」
「必要ない。これがいい」
キッパリと言ったアレックスにランスは頷いて、鍋ごとスープを部屋に運んだ。
「こんなには食えないぞ」
苦笑するアレックスはいつもの調子が戻ってきたようだ。必死に自分を守るかのような、少し稚くも感じた口調が消えて、年齢相応の落ち着いたものに戻っている。
「そんなの分かってる。食べられるだけ食べて」
ランスは心からの微笑みを浮かべてアレックスにスープを勧めた。
嬉しげにそれを口にしたアレックスは皿を空にするとトレイをランスの方に少し押した。
「ありがとう。満腹だ」
「そんなもので足りるのか?」
「食べた方だよ。ほとんど食べてないんだ。食べ過ぎなぐらいだ」
立ち上がり体を伸ばしたアレックスがランスに向き直った。
「港まで行ってマーティンを呼んでくれるか?」
「まだしばらく安静にするべきだ。ベッドに戻れ。伝言があるなら伝えにいくから」
ランスは首を振った。食事を取る前のありさまを考えればあと1週間ぐらい寝ていてもいいように思えた。
「大丈夫だよ。昔はこういう事が良くあったんだ。自分の体調の事ぐらい分かる」
「大丈夫なものか。ほんの一時間前まで死に体だったくせによく言う。大人しく寝てろ」
腕を引っ張って寝室に連れて行き、ベッドにそっと横たえると不服そうな顔を隠そうともせず、アレックスは起き上がった。
「ここにあいつがまた来るかもしれない。それまでに対策を立てないと」
そこに責任感と怯えを見てとって、ランスはアレックスを押し倒すように再び寝かすと、その耳元に、意識していつもと違う声音と口調で穏やかに語りかけた。
「私を信じて休んでいてください。荒事はだれよりもなれている。必ず護るから」
「……!!」
身を起こすと、耳を赤らめたアレックスは腕で顔を隠していた。
「分かった、もう少し休んでいる……マーティンは心配してると思うから……起きたことだけ伝えてくれないか?」
「分かりました。この部屋からは出ないでくださいね」
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