悪夢、そして愛と狂気
身体がひどく熱く、重く、痛い。指を一本動かすのも億劫だ。何故今ベッドの上に寝かされているのかも思い出せない。酷い病でも得たのだろうか。
気力を振り絞り瞼を開けると見慣れた金の髪が視界の端に映った。
「……いては……ダメだ……父様は病気……みたい……だ……移ってしまう」
掠れた声をなんとか出して、傍らのユリアにそう言って手を伸ばす。
「二人を呼んでこないと」
立ち上がった娘を見て、自分でここにいてはいけないと言ったくせに、彼女がこの場から離れる事に不安が吹き上がった。
「……いくな……! ユリア、とうさまのよこにいてくれ」
身体の不調を跳ね除けて起き上がり、娘を抱きしめて、柔らかな金髪を指先で漉くと不安が少し薄くなった。
「デイジー、早くふたりを呼んできて」
強ばった娘の声に首を傾げて、エリアスは推測を立てた。
「もしかして……私はずっと、意識がなかったのか。リアとケインをよびにいかせたの? ああ、そうか、あれは夢か。港で別れて、そのままユリア達にずっと会えなくなる夢を見たよ。約束したのに私は帰れなくなって……そうか、良かった、あれは悪い夢だったんだ。こわくて、いたくて、きもちわるくて、くるしくて、なさけなくて、さびしくて……」
何度も娘の頭を撫でて安堵に笑いながら、夢だったと分かっても消えない負の感情をぽつぽつと吐き出すと涙があふれだす。
「かえれなかった……おまえとのやくそく、まもれなかった……のが……つらかった。ああでもそれはわるいゆめで……いや……あれ……は??」
目眩がする。ずっとそのぬくもりを抱きしめていたいのに、もう頭をあげていられない。娘を離して枕に体を投げ出し手を伸ばした。
「おきて、られない……手をつないでくれるかな?」
「うん。いいよ」
ためらいなく握られた手は熱い体には冷たくて気持ちがいい。エリアスはその手に頬ずりして意識を再び闇に落とした。
※ ※ ※
「あれは悪い夢だったんだ……」
レジーナを抱きしめ、安堵と幸福を溢れ出させながら響いたアレックスの言葉に、ドアを半分開けたランスは中へ入ろうとする二人を止めた。
底無しの瞑さを帯びた金緑の瞳はこちらを向いているのにまるで焦点があっていない。
先程マーティンから聞いた話と、今耳に入ってくる稚い子供が紡ぐように呂律の回っていないうわごとで、彼の身に降りかかった地獄や、その苦痛を押し殺してここで生きてきた事を察してしまい、その場から動くことが出来なかった。
アレックスが体を投げ出し、レジーナの手を握って再び意識を失ったところでそっとベッドに近づく。
「……アレクはどうしたの?」
アレックスに言われた通りに手を繋いだままのレジーナに問われて言い淀んだランスに代わってマーティンが答えた。
「昔の悪い夢を見てるんだろう。アレクは船に乗っていた時に、お前らを襲ったのと同じ海賊に襲われたんだ。それで故郷に帰れなくなって、ずっとこの島で働かされてた。国に置いてきた家族は弟以外死んじまったらしい。嬢ちゃんは死んだ娘にとてもよく似てるんだとよ」
「だから、パパってよばないでって言ってたんだ……」
悲しげに手を離したレジーナにマーティンは首を振って、再びアレックスの手を取らせた。
「嬢ちゃんが嫌じゃなけりゃ、握っていてやってくれ」
ためらいがちに頷いたレジーナの手を離して、マーティンはアレックスの額に手を伸ばす。
「熱が出てるな」
「こうなるのも久しぶり……よっぽど辛かったんだね……」
デイジーが痛ましげに呟き、濡らした手巾を軽く絞ってアレックスの額に乗せる。
「二、三日は起き上がれないね。この感じ、一週間は無理かもしれない」
「俺が面倒を見る。三日までなら普通に起きてられるし、看病も慣れている」
いてもたってもいられず、ランスは口を挟んだ。アレックス、いや、エリアスの傍らで彼のことを支えたかった。
「ダメだ」
即座に却下されて鼻白んだランスにマーティンは続けた。
「こいつの看病はここの女どもに任せろ。俺達は俺達にしか出来ない事をやるんだよ」
「彼よりも優先す……」
「ほら、こっちに来い。デイジー、アレクと嬢ちゃんを頼むぞ」
それを遮ってマーティンは強引にランスの腕を引っ張り、先程の別室に連れこんだ。レジーナの耳を慮ってくれたらしい。
「ジョンに聞いたがあの海賊、わざわざ十年前に売った男の事を聞いてきたらしい。要はアレックスに執着してんだ。だから早くあの野郎をなんとかしねえと、またなにか仕掛けてくるぞ。あいつは良い意味でも悪い意味でも人誑かしだ。お前だって現に今相当あいつにやられてんじゃねえか。元々の目的は嬢ちゃんの母親を助ける事だって聞いているが、そっちはどうした」
駆け落ちまでした仲なんだろ? と、尋ねられても心は動かなかった。
「別に彼にたぶらかされたわけじゃない。彼は俺の……」
一瞬言葉に詰まって息を吐き、先程は味を見るだけだった酒を喉に流しこんで、酒精と共に腹に収める。
「いや……俺はというか俺の一族は彼の死が一因で、宮廷を追われた。彼は俺が幸せだった頃の象徴だ。傷と腐敗で酷い有様の死体が上がったから死んだと思っていた。それが生きていたんだ。だから側にいたい。他意も下心もない」
ピシッと指で伏せた額を弾かれて、顔を上げると呆れ顔のマーティンと視線が合う。
「充分たぶらかされてるよ。ガキの頃からってなると重症だ。高嶺の花に弱いのはそれでか。嬢ちゃんの母親も良いところの奥様なんだろ?」
「……彼女と誼を通じたのはそんな理由じゃない。単なる好みで主人の妻と駆け落ちまでするものか」
「愛だねぇ。若さってのは羨ましい」
自分でも意識せずに口元が冷たく歪んだ。これはかるがるしく愛と呼べるような甘やかな情熱とは違う。
「狂気みたいな感情だよ。だが例えば、ガイヤールを見てみろ、愛だってろくなもんじゃない」
「あの野郎は理性を保っている方だろ?」
あれが理性を保っているならば、どれだけの人間がどれほど狂わされたと言いたいのだろうか。少々薄寒く感じながらランスは首を振った。
「奴はダメだろう」
「まだ生きてるし、全財産までは投げ出してない」
不穏な言葉が飛び出して来たが、突っ込んで聞く気にはなれず、ランスは続ける。
「謁見しただけで言葉を交わしたわけじゃない、死んだ王子の為に祖国を賢征王に差し出して、褒賞として海賊の鏖殺権を得てここの総督になり、さらに総督府の島の名を王子の名に変えるよう、王に奏上した男に理性はあるのか? エリアスは彼の本当の名前だよ」
そう返すとマーティンは天を仰いだ。アレックスとガイヤール総督がラトゥーチェフロレンスで会ってなければ海賊狩りの手を休めることがなかったかもしれない。
「アレックスを殺さなかったとこだけは片目に感謝しねぇと……狂気も一周回ると正気に見えるってことか」
「アンタは平気そうだが?」
まぜっ返したランスにアレックス秘蔵のブランデーを惜しげもなくグラスに注いで、マーティンは口角を下げた。
「あいつがその気になってりゃ、なにもかも搾り取られてただろうさ。初夜権を買って通ったが、すぐに息子みたいな気持ちになっちまって溺れなかった。大事な人間と髪の色と瞳の色が同じだと言ってたし、話の流れから察して、そいつは保護者であいつは無意識に俺にそれを望んでいたから、逃がしてくれただけだ」
ランスはマーティンの顔をじっと観察した。
レディッシュブロンドの髪は日焼けと加齢でそう見えるだけで元々は濃い赤毛だろう。鋭い眦に狼を彷彿とさせる琥珀色の眼。少し厳つい感じもよく似ている。兄弟と言っても信じられる程度には似ている。ぐっと息を詰めたランスは腰に束さえた剣の鯉口を小さく鳴らした。
「この剣の持ち主が同じ色彩だった。言われてみれば少し似ている」
どこか警戒心を緩めてしまうのはそのせいかもしれないとランスは心の中で呟いた。
「ん? その剣、アレックスの奴がブラックマーケットで買った人間を突き止めて大枚叩いて買い取った後、そりゃもう大切にしてた奴だな。なんでお前が持ってるんだ? あいつの身元を保証するための物だと踏んでたんだが、違うのか?」
「預かってるだけだ。あの男に奪われたくないって託された。これは身元保証の品じゃない。単なる形見だ。彼を知る者がいないならば、身元を保証する品も必要だろうがな」
エリアス王子を知る者はそれなりにいるのだ。現在では旧王国と呼ばれるメルシア王国に昔から仕えてきた人間や、賢征王に恭順した近隣諸国の王侯、そしてなにより王自身も彼を知っている。十年程度なら身元保証の品など必要ない。あの類い稀なる美貌と同じ顔の持ち主などありえない。自分やヴァンサンが気がついたように、身なりを整えて戻れば、王族として迎え入れられるだろう。
「この剣の元の持ち主があんたによく似ていた。その男は殿下の一番の護衛として常に彼に付き従っていたから、推測だが彼を護って死んだんだろう」
「……思い返してみりゃ、奴は自分の身に起こった事はなんでもねぇ事みてぇに話してたが、俺に似た奴の事は、はぐらかしてたな」
「無意識だろう。その男に似た要素がある人間に庇護を求めたんだ」
言いながらランスの胸がずくりと痛む。深い傷は言えないし見せられない物だ。
「その護衛とやらは、お前にも似てたのか?」
「似てないと言われた事ならよくあるよ。ただ、俺も護衛が長いから空気感が似てたんだろう。それより、俺たちしか出来ない事というのは?」
ランスは少々強引に話を変えた。これ以上は探られたくない腹だ。
「競売人のところをピンキーとドルフで探らせてるのは知ってるな。そろそろある程度の状況を探って帰ってくるはずだ。相手の位置や手勢が分かりしだい叩ける準備をしておかないと、先にやられちまう」
「それなら、もう別に俺がやれる事はないだろう」
そう言って腰を浮かせたランスにマーティンが爆弾を突っ込んで来た。
「ガイヤールに起こったことを説明して、理由をつけて海軍の手も借りるべきだ。とはいえ俺はあいつに蛇蝎の如く嫌われていてね。お前ならまだ話せるだろう。それと、嬢ちゃんはここに置いておくべきじゃないと俺は思っているが、どうだ? ついでに総督に頼んでみちゃあどうだ」
ランスはため息をつき、それに頷いた。
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