名前
気を失ったアレックスを抱えあげたランスにマーティンが不安そうに近づいてきた。
「こいつ、どうしたんだ…。大丈夫なのか?」
「人間は緊張や恐怖の限界を超えると錯乱を起こすことがある。あの男には十年前に会ったことがあると言っていた。その時、手酷い目にあったんだろう」
それを聞いたマーティンは何か察したのか憐憫を浮かべた。
「よく頑張ったなあ……」
彼の耳に届いてはいないだろう言葉は慈愛に満ちてる。マーティンの予想外の反応にランスは老人の顔を凝視した。
「俺はコイツを買った男だぞ。多少の事情は聞いてるさ」
これ以上は回りに聞かれたくないのだろう、ランスはマーティンに促されて、娼館の中に入った。
中に入ると入口を入ってすぐのサロンに女達が不安そうな顔をして集まっていた。あれだけの騒ぎだ、当然と言えば当然なのだが、その中からカツラをかぶったままのレジーナがこちらに駆けてきてランスは眉を顰める。
「アレクは大丈夫?!」
「気を失ってるだけですよ。ちゃんと確認はしていないが、大きな怪我はないと思います。ところで、さっき一番安全な部屋の中にいるように約束したでしょう?」
ランスが声をかけると腰に手を当てたポーズでレジーナは言い返してきた。
「アレクが心配だったの! 部屋になんて居られない。ランスこそ何やってたの! 強いんだから追っかけてあんな奴やっつけちゃえば良かったのに」
「こんなに気が強かったのか」
ランスの後から酒場に入ってきたマーティンがレジーナの頭をぽんぽんと叩く。
「お船のおじいちゃん!」
街に行く前に隠し港に寄って係留中の船を見せてやった時に会ったのでほぼ半日ぶりか。
「おじいちゃんねぇ……まあアレックスは息子みたいなもんだが」
小首を傾げてレジーナがマーティンを見上げた。
「アレクのお父さん? アレックスって名前つけた?」
「そうだな」
「あのね、前にアレクから聞いたの」
「ほう……」
「パパがくれた大切な名前だから、ウィステリアよりアレックスって呼んでって言ってた」
レジーナから無邪気に告げられたマーティンの顔が赤く染まる。ごまかすように首を振った老人は手をパンッと叩き合わせた。
「孝行息子を部屋で休ませてやらないとな」
明るく強い声にランスはうなずいた。
※ ※ ※
ランスはマーティン達と一緒にアレックスの私室に戻った。
デイジーとレジーナを寝室の外で待たせて、2人がかりでアレックスの汚れた服を脱がせ、前開きの夜着を羽織らせるとベッドに横たわらせる。
深く意識を閉ざしているのか、湿った布で顔と身体を拭いてもアレックスは起きなかった。拭いた時に微かに身じろぎして、規則正しく胸が上下していなければ死んでいるのではないかと疑うほどだ。
怪我を検分すると、首の指の跡に加えて鳩尾と背中に生々しい色をした内出血があった。手にも踏み躙られた跡がある。骨が折れてないのは幸いだった。ランスは体の端々を触って骨が折れていないかを確認すると、患部に膏薬を塗った布を当ててやった。
他に傷がないか確認をするのに、ランスが下半身に視線をやると腰骨を起点に彫られた刺青が目に入る。
内腿にむけて絡みつくような意匠で入れられたウィステリアは、上半身と対照的に日焼けしてない白い肌と相まってひどく淫靡に見える。
「これは?」
問うでもなく口に出すと、予想に反してマーティンから答えが返ってきた。
「飾り文字でラトゥーチェフラワーズって入ってんだろ。昔の店主が所有印として奴隷に入れた刺青だよ。店に出す前に例える花の名を決めて、その花の刺青を金持ち達の前で刺す。美しい花ほど意匠が凝ってて時間がかかる。鎖に繋がれて痛みに悶えてすすり泣く様を見せて初夜権……一人目になる権利の金額を吊り上げる」
嫌な物でも吐き出すようにマーティンは続けた。
「ただ、こいつはそういった反応を見せなかった。痛みなんて感じてなさそうだった。だが、虚ろな目でひたすら見つめられてな。男を買う趣味はなかったが、思わず競り落としちまった」
謂れをきいてしまえばその花を見ていることがいたたまれなくなった。夜着の前を閉じてそれが見えないようにしっかりと隠すと、他の傷も見えないようにしっかりと上掛けをかけてやってデイジーとレジーナを寝室に呼んだ。
「アレクが起きたら呼んでくれ。俺達は奥の部屋で少し話をしている」
そう二人に告げて場所を移したマーティンは、勝手知ったるといった様で棚の中から見覚えのあるブランデーのボトルとグラスを二つ取り出し、中身をたっぷりと注いだ。
「奴の秘蔵品だ。呑んでやろうぜ」
「勝手に呑んでいいのか?」
答えの代わりにグラスを手渡されて、ランスはグラスから立ち昇るどこか懐かしい香りをゆっくりと堪能し、口に含んだ。
そのブランデーは旧王国の辺境であったフィリーベルクで栽培された葡萄から作られた特産品で、父が好んで呑んでいたものだ。
生産量が少なく地元以外ではかなりの金を積まないと入手できない高級品で、ランス自身は今まで口にしたことがなかった。
「なるほど、これは美味いな……。ところで、あんたは彼とあの海賊の因縁を聞いているのか?」
ランスがそう尋ねると、マーティンは頷いた。
「聞いてんよ。そもそもこいつは海賊に売られたって事は隠してないだろ。さすがに詳しく聞いてるのは俺だけだが。賢征王の兄って話もな。正直、そっちは眉唾だとは思ってるが、所作も知識も何をとっても相当良いとこの出ってのは間違いない」
「本当だよ。アレックスは気づいてないが、俺は子供の頃に会ったことがある。歳もとったし苦労も滲んでるが、見間違えるはずがない」
「……確かにあんだけの見た目が何人もいるはずもないか」
「知ってたのに、こんな掃き溜めに彼を留めたんだ。お前もあの変態総督と同じか」
乱れたランスの声をマーティンが硬い掌で抑えて止めた。
「防音だって声がデカけりゃ外に漏れんぞ。あと、あいつと一緒にすんな。ウィステリアは恩人だし、俺は船乗りだ。頼まれりゃあ送って行ったさ。だが本人が望んでなかった」
「望んでなかった……本人から聞いてはいたんだ。でも、誘われてチャンスがあっても帰ろうとしなかったなんて、そこまで向こうに置いてきたものはどうでも良かったのか」
ランスが吐き捨てるとそれを耳にしたマーティンは首を横に振った。
「それは違うな。あいつは必死に自由になる為に稼いでいた。ただ間に合わなかったんだ」
「なんで、あんたはもっと早く彼を自由にしてくれなかったんだ……」
八つ当たりだと分かっていても、詰らずにはいられなかった。あんなことが起きる前に彼が帰って来られれば、今こんな事にはなっていなかったのではないか。王を含めて皆がそれなりに平穏な人生が送れたのではないか、と考えてしまう。
「俺には言ってもいいが、あいつには絶対にそれを言ってやるなよ」
マーティンの声に押し殺した同情と怒りを認めてランスは首を傾げた。
「ウィステリアは客どもをたらしこんで店に内緒で自分の身請け金を貯めたんだ。ガイヤール総督が貢ぎに貢いだお陰で想定よりも相当早く貯まったらしいが、普通なら死ぬまでに貯められる額じゃねぇ。そこそこの船が作れる値段だぞ。俺は買い取る体裁を整えただけだ。恩人だって言ったろ。あいつがいなきゃ俺は海賊狩りにあうかジリ貧で死んでいた」
そう言ったマーティンは、聞いたと言うなと釘を刺してぽつぽつとアレックスが彼に話したという話をし始めた。
前振り回。次回暴力性暴力等含むシーン(15禁相当のぼかし)のアレックス過去回です。
ブクマ、評価お待ちしています。




