終演のあとに
ある日、少女は夢を見た。
「今日の夜12時から、1時間だけ、時間を止めましょう。その間あなたは、誰に縛られることもなく、自由に過ごすことができます。ただし、その時間は、あなたの愛するもののために使うこと」
ヒツジの角を生やした黒服の男が、自分にそう語りかけていた。
ただの夢だと言えばたしかにそうで、時間が止まるなんて、ありえないことだ。そう思った。しかし、期待なんてしない振りをしながら、少女は確かにその時間を心待ちにしていた。
もうすぐ11時を回るという頃、ため息とともに酩酊した母親が帰宅した。母親は、あんたまだ起きてたの、と少女を一瞥し、リビングのソファにドサッと体を沈めた。
今寝るところだよ、おやすみ。少女は小さな声でそう言った。
母親は、スーパーのレジ袋から缶チューハイと惣菜を取り出し、テーブルに並べ始めた。こちらの様子にまったく無関心といった様子で、テーブルの端にあったリモコンに手を伸ばし、チャンネルをパチパチと回している。少女は静かに母親に背を向け、ゆっくりと自室に向かった。夜中のバラエティー番組、母親と芸人の笑い声、閉じたドアから漏れてくる。
だんだんと重くなってくる瞼を擦りながらも、真っ暗な部屋で、少女は寝まいと決めていた。お気に入りのぬいぐるみを抱きしめながら、正に息を潜めて、その時を今か今かと待ち侘びた。
そして、12時になった。時計の針は動きを止め、部屋には静寂が訪れた。リビングから聞こえていた音がぴたりと止み、少女の胸は期待と不安で高鳴った。音を立てぬよう、それはゆっくりと、自室のドアを開ける。もし母親が起きていたら、なんと言い訳しよう。心臓は、早鐘を打っている。
母親は床に座り、ソファに頭を預けて眠っていた。テーブルの上には、飲みかけの缶チューハイと、半額になった惣菜のトレイが並び、ソファの横に置いた荷物は、母親の帰宅時の様子と何一つ変わっていなかった。
だが、時計とテレビは、12時ぴったりのまま、その動きを完全に止めている。
恐る恐る母親に近づき、顔を覗いた。母親は確かに眠っていて、
ソファに寄りかかった上半身が寝息とともに上下しているのがわかる。
お母さん。
そう声をかければ、今にも起きてきそうだ。改めて見ると、記憶の中で笑う母親の顔より、シワが増え、少し痩せたように思えた。伸びきった白髪の混じる茶色の長髪が、だらんとだらしなく垂れている。少女は、胸がギュッと苦しくなるのを感じた。
母親はいつもにこやかで気が回る、ハキハキとした人だった。音大を卒業した後は楽器メーカーに就職し、そこで調律師だった父親に出会った。家にはアップライトピアノがあり、いつも誰かがそこに座り、ピアノを弾いていた。少女も例外なくピアノが好きで、何度もコンクールに出たり、学校では歌の伴奏を務めたりしていた。
母親が変わったのは、父親が家を出てからだ。夜中に幾度となく言い争う声で目覚め、それが何ヶ月も続き、いつしか、父親は出て行った。理由は聞けなかった。
「ごめんね、ちょっと疲れちゃった」
やつれて寂しそうに笑う、母親の顔がいつまでも頭の中にこびりついている。
少女は立ち上がり、「時が止まった」リビングを見渡した。10畳ほどのリビングには食卓とソファセットが並び、床には、所々ゴミ袋や空のペットボトル、空き缶などが散乱している。
少女は静かに部屋を歩くとキッチンに向かい、引き出しからゴミ袋を何枚か取り出した。部屋を移動しながら転がったそれらを拾い、次々と袋の中に放り込んでいった。ゴミを完全に拾いきってしまうと、袋の口を結び、少女は寝巻きのまま外に出た。
秋の夜の空気は澄んでいて、少し湿っていた。少女は複数のゴミ袋を引きずりながら階段を降り、全部、ゴミ捨て場に放り投げた。回収の曜日が決まっていることは知っていた。それでも少女は、部屋を、ゴミの中で眠る母親を、そのままにしておくことはできなかった。
部屋は、床に散乱していたものを片付けただけで、ずいぶんスッキリとして見えた。少女は広くなった床をペタペタと歩き、もう一度部屋を見渡した。
まだ時間は充分残っているはずだが、今から何をしよう?
「愛するもののために、1時間を使うこと」
確か、ヒツジの角の男はそう言っていた。
愛するものって、なに?少女はそう思った。
ふと、リビングの端で埃を被っているアップライトピアノが目に入った。レッスンに通うことも、家で練習することも、父親が出て行ったあの日から、全て辞めてしまった。あれだけ好きだったピアノだが、母親も少女もあれから一度も触っていない。
父親の伴奏に合わせて歌う幼き頃の自分と、それを楽しそうな笑顔で見つめる母親の姿。ぼんやりとした少女の記憶で、ピアノは、いつも家族の幸せの中心にあったと刻まれている。
触れたら思い出してしまいそうで、戻りたくなってしまいそうで、誰に言われるでもなく自分から遠ざけていた。けれど、少女はそっとピアノに歩み寄った。
今なら、みんな眠っている今なら、弾いても許されるだろうか?
少女はピアノに積もった埃を手で払うと、ゆっくりと、そして丁寧に重い蓋を上げた。赤い布のカバーをすっと引くと、鍵盤はそこにあった。最後に弾いた日から何も変わることなく、そのままの姿だった。そっと、白鍵触れた。
何年も調律されていないピアノは、その瞬間を待っていたかのように少女の指を受け入れてくれた。滑らかで冷たく、柔く、優しい重みだった。
踏んだまま固定されていたマフラーペダルを外し、少女は両手を鍵盤に乗せた。
長いこと弾いていなかったはずなのに、指は驚くほどその感覚を覚えているようだった。少しのぎこちなさはあったが、それでも少女の手、そして指はかつてのように動いた。少女は夢中で鍵盤にその重みを乗せていった。
音が生まれては広がり、消えていく。なんて美しい響きなんだろうと少女は思った。リビングの静けさも、粛々とその演奏に耳を澄ましているようだ。
あぁ、わたしはピアノが好きなんだ。
ずっと、弾きたかったんだ。
少女はそれに、やっと気がついた。父親の顔も、母親の顔も浮かんでこなかった。少女は初めて、自分のためにピアノを弾いた。
ピアノを弾くことができなかった時間も、忘れずに、逸さずに、ちゃんと受け止めなきゃ。楽しかった時間に後ろめたい気がして、今までずっと過去から目を背けていた。過去は変えられないとは言うが、なら、わたしが過去を愛していけばいい。
少女は思った。
変わることのない過去を、過ぎてしまった後悔を、未だ見ぬ明日を、この手で変えられるかもしれない未来を、
愛していくと。
一夜に、美しいピアノの調べが走る。