後編
鬼っ娘と出会ってから、二ヶ月が経った。
姉の彼氏が家に来ると聞いた日は決まった曜日じゃなくても山へ行った。
そんな調子で山に行く日々を過ごしていたら、いつの間にか姉が荷物をまとめて家を出ていく日になっていた。
姉の部屋から大きな家具が消え、あとは小物が入った段ボールだけが残されている。
ガランとした部屋を見て寂しさを感じるものの、結婚が決まったときのような悲しみはなかった。
「カズ、お姉ちゃん探してきてくれない? 携帯鳴らしてるんだけど出なくて、近所にいるかも」
「うん、分かった」
外に出ると、むっとしたまとわりつくような空気に包まれる。
じりじりと照りつける太陽を避けようと日陰を探す。
額から流れ落ちる汗を手の甲で拭い、足を動かし姉の姿を探す。
近所と言っても田んぼや畑が広がっているだけだ。
あらかた見て回り、僕とすれ違って家に帰ってるのではと思えてきた。
姉探しはもういいか、鬼っ娘のところへ行こう。
今日は土曜日だけど、昨日は家の用事で行けなかったから今日行こうと思っていた。
山道をのぼるのも結構慣れてきた。
草むらに入ると虫に刺されるし蛇がいるかもしれないから、夏本番になる前に刈ってしまった。
勝手にやっていいのか少し迷ったけど、どうせ誰もこない場所だからいいかという結論に至った。
いつもの道を歩いていると、点々と赤黒いものが地面に染み込んでいることに気付く。
「これ……血、か……?」
山には鬼っ娘しか居ない。
他に人の姿は見かけたことがないから、僕以外の人が入ってくることはないのだと思っている。
だとしたら、この血は鬼っ娘のものだ。
赤黒いシミは大きく、結構な出血量だと分かる。
ひどい怪我をしているのでは……と心配になり、走って大木の元へ向かう。
「鬼っ娘! どこ? おーい!」
「カズ? ああ、なんだ。来てくれたのか」
「あ、鬼ーー」
大木の下に立っている鬼っ娘の服が、真っ赤に染まっていた。
怪我どころではない、下手をしたら死んでいてもおかしくない量の出血だ。
おまけにポタリポタリと服の端から血が滴り落ちている。
しかし、当の本人はいつもどおりの笑顔で呑気に手を振っている。
転びそうになりながら駆け寄って、周囲の異様な空気に鼻をつまむ。
「う……なに、この匂い……」
「ああ、カズ、見ないほうがいいぞ。そっちには死体が転がっている」
「えーーし、たい……?」
いつもと同じ笑顔で、僕を気遣うような言葉。
でも、鬼っ娘の口元がべっとりと血濡れていて、手に人間の腕らしきものが握られているのが見えてしまった。
セミの鳴き声や草の匂いが消え、自分だけ別の空間に放り出されてしまったような感覚に落ちる。
真夏なのに背筋にゾクゾクと寒気が走り、心臓がうるさいほど鳴り出す。
カチカチとなにかがぶつかる音が聞こえ、それが自分の歯の音だと遅れて気付いた。
「な、ん……え、あ、ああ!?」
鬼っ娘の手に握られていた腕の先ーー滴り落ちる血の中で、光るものを見つけた。
匂いに胃液がせり上がってくるが、構わずちぎれた腕を掴む。
手についたぬるりとした感触にヒィ、と小さく声がもれた。
僕が掴んだ腕は女性のものだと分かる。
そして、その手は細くしなやかで、薬指には小さな宝石の付いた指輪がはめてあった。
見間違えるはずもない、それは姉が彼氏にもらった婚約指輪だった。
「ねぇ、さ……ん……」
「ん、あ、コレ、もしかしてカズの知り合いだったのか? そうか、それはすまないことをした。人間は一度死ぬと生き返らないんだっけか」
どうしたものか……と困ったようにつぶやく鬼っ娘は、人を殺したことに罪悪感のかけらも感じていないようだ。
腕を掴んだまま動きを止めた僕を見て、控えめに名前を呼んでくる。
その姿は友達を心配する女の子のように見える。
けれど、僕は会ったときに聞いていた。
人間を食ったことがある、と。鬼っ娘から。
食ったのは五十年前だったと、鬼っ娘と遊ぶようになってしばらくしてから律儀に教えてくれた。
何で食ったの、と聞けば何でそんなことを聞くのだろうと不思議な顔した。
腹が減ったら誰でも食うだろ? と返ってきた。
鬼と人間の間に隔たる大きな違いを見た気がした。
そう、たしかにあの時僕は感じたのだ。
鬼っ娘と僕は違う、と。
姉さん。
誰にでも愛されて、特別な人だった。
姉はいつだって僕のあこがれで、太陽みたいに眩しかった。
迷子になった僕を誰よりも早く見つけ出してくれたことも、家庭科で作ったマフィンを一番に食べさせてくれたことも。
すべてが僕にとっての宝物のような思い出だ。
ーーでも。
僕に出来た初めての友達だった。
少し乱暴な口調が却って馴染みやすかった。
足が速いのがあこがれだったし、笑うと見える牙が鬼って感じがしてカッコよかった。
誰も知らない、僕だけの秘密が嬉しかった。
初めて出来た、大切な友達なんだ。
「ーー鬼っ娘、僕は今からキミを殺すよ」
「カズ……?」
「姉さんを殺したキミをゆせない。僕はキミを殺す……だから、僕から逃げて」
「カーー」
戸惑った目が僕の瞳に映り、見ていたくなくてぎゅっと目をつむった。
手を振り上げて、鬼っ娘の肩に下ろす。
鈍い感触が伝わって、血の匂いに耐えきれずとうとう胃の中のものを地面にぶちまける。
友達を殴ってしまった罪悪感と、姉が死んだという現実。
内臓がひっくり返ってるんじゃないかと思うほど口から胃液が出てくる。
鬼っ娘が背中をさすってくれるけど、嘔吐きながらその手を振り払った。
「逃げろよ! 僕は今からキミを殺すんだぞ!」
「カ、カズ、落ち着いてれ。君の肉親を食ったことは謝るよ。どうしたらゆるしてくれる?」
「うるさい! ゆるしたりなんてするものか! キミなんてーー鬼っ娘なんて、大嫌いだ!」
戻れない言葉を、放ってしまった。
僕が付けた名前で、鬼っ娘を否定した。
生理的なものと、感情的な涙が混ざってボロボロとあふれ出す。
ぼやけた視界の中で、鬼っ娘の手が頼りなく宙をさ迷う。
「はや、く、っ……どっか行けっ、よ……」
涙と鼻水で顔がベタベタになる。
姉の血が地面に染み込んで、僕の涙がそこに落ちていく。
ちぎれた腕や足が周辺に散らばり、ああ姉は僕の友達に食い散らかされたのだなと理解した。
歯をくいしばって耐えても、姉と友達が帰ってくることはない。
悲しくて苦しくて悔しくて、いろんな感情がこみ上げて腹の底が沸騰しているように熱くなる。
「カズ……ごめんな」
聞いたことのない、泣きそうな震えた声が聞こえ顔を上げた。
そこにはもう、鬼っ娘の姿はなかった。
◇
「和、お姉ちゃんのところ行ってきてくれる? これ、お隣さんからもらったおみかん。お供えしてあげて」
「うん」
姉は家から歩いて三十分のところにある墓地に埋葬された。
僕が家に帰る頃には夜になっていて、探しに来た近所のおじさんがうずくまる僕と姉の亡骸を発見した。
手足がちぎれ内臓がぶちまけられた姉の姿に母と父はしばらく動けなくなっていた。
姉の彼氏は知らせを受けたその日に飛んで来た。
見ないほうがいいと言われたけどそれでも見ますと聞かなかったので姉の姿を見せると、呆然とした後、その場に泣き崩れた。
姉の彼氏は毎年命日にお参りに来る。
あれから九年が経って、僕は姉と同じ年になった。
大学入学を機に村から出た僕は、県外に住んでいる。
思い出の残る地に居たくなかった気持ちも強く、両親を置いていくのは気が引けたけど、月に一度は顔を出すと決めて家を出た。
刺すような夏の日差しを受けながら自転車を漕ぐ。
「……今年もか」
姉の墓の前にはお菓子や果物、ジュースや花が供えてある。
誰からも愛された姉の死は村人皆で悲しんだ。
今でも供え物が絶えないのはそれだけ親しまれていた証だ。
色とりどりの花の中に、見慣れた一輪が置いてあった。
毎年欠かさず、この時期になると墓の前に置かれている。
それは、鬼っ娘にもらった白色の花と同じもの。
今でもそばに居るんだろうか。
人食い鬼だってバレたら、殺されてしまうのに。
姉を殺されたショックと友達を失いたくない中で、必死に出した答えが鬼っ娘を殺そうとするフリをして逃がす、というものだった。
「馬鹿だなぁ。律儀なところは、変わらないんだな」