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マッサージ

バキバキ、ボキボキ

作者: バスチアン


その瞬間、オフィスは歓声に包まれた。到底締め切りまでに終わらすのが無理だと思われていた仕事が奇跡的に片付いたのだ。


「うおぉぉっ、終わったぁぁっ」

「課長スゲー、課長マジ、神です」

「山口君、ありがとう。本当にありがとう、おかげで首が繋がった」


口々に部署の皆が称賛する。部長など文字通り感涙にむせび泣いていた。

全国展開している大手ファミレスのPOSシステムのエラーが見つかったのは納入直前の出来事だった。うちの会社の規模としてはこれまでない仕事に社内全体が湧き上がっていたのだが、その事実発覚にオフィス内は地獄と化した。何しろ誰もが知っているそのファミレスは上場企業だけあって、その契約内容も厳しく、納期が押した場合の違約金についても明確に規定されていたからだ。

皆、感謝してくれているものの、別に俺が凄腕のSEで華麗なプログラミング技術でシステムを仕上げたわけではない。やったことと言えばひたすら地味で、納入してくれる部署の社員さんに頭を下げて土曜日に出勤してもらい、日付が変わるまでギリギリ残ってもらったことだ。


「疲れた……」


若い衆たちは祝杯をあげようと夜の街に呑みに行くようだが、そろそろ若いと言い張れなくなってきたおじさんには、いかに明日が休みでも酒が飲みたいとは思わない。部長も同じ顔をしているし、何よりも飲みの席に上司がいても彼らも楽しくないだろう。


「帰ろう……」


そろそろ終電がなくなる時間だからタクシーで帰らなければならない。家に帰れば妻も子どももとっくに寝ていることだろう。





次の日、目覚めた朝は大変と心地の悪い朝だった。


「アナタ、どうしたの?」


妻が心配そうに顔を覗き込む。


「いや、腰がね……」

「痛いの?」

「いや、どちらかというとダルいかな。痛ダルい」


別に電撃が走るような痛みがあるわけでも、腰を曲げ伸ばし出来ない訳でもない。だがダルい。何となく動かしにくい。身体が重い。

心配した妻が「風邪かしら?」と体温計を差し出すが熱はなかった。


「まぁ、たまにこういう事があるんだよ」

「そう?」

「ああ」


三十代に入った頃からだろうか、疲れるとこういう痛ダルさが全身を支配するのだ。俺自身は昨日の地獄の作業に直接参加した訳じゃないのだが、やはり精神的な疲れが体にまで出てしまったようだ。


「昼からちょっと出かけてくるよ」

「大丈夫? 休んだ方がいいんじゃない?」

「大丈夫だよ」


むしろ休むために出かけるのだ。

全身の重だるさを堪えながら、俺は外出する決心をした。

目的地は行きつけのマッサージ屋だ。

その店に通うようになったのは、やはり先日のような地獄の締め切りに追われた後のことだった。もともと肩こりが強くなると会社の近くの整骨院に通っていたのだが、ちょっとした縁で地元のマッサージ屋に通うことになったのだ。

初老の親父さんが個人で経営しているマッサージ屋で、硬くなった肩の筋肉や、強張った腰の筋肉をぐにゃぐにゃに解してくれる。2~3カ月に一度のオアシスだ。俺は親父さんの顔を思い出しながら、疲れ果てた旅人のような足取りでマッサージ屋に向かう。

そして店の前に来たところで、俺は思わず声を上げた。


「…………え?」


店の入り口はシャッターで閉ざされていた。

そして貼られた張り紙。


『4月をもって閉店することとなりました

   長らくのご愛顧ありがとうございました』


この店、つぶれたのか?

繁盛していたように見えたけど……廃業か?

確かに親父さんも、そう若い年ではなかった。何にしても、もう俺がこの店に通うことは出来なくなったということだ。

何という事だ。重たい体を引きずりながら、どうしたものかと頭を抱える。このまま月曜日を迎えるのを考えると、気までも重くなっていた。

そんな時だ。

黄色い看板が視界に入って来た。


「肩こり、腰痛……カイロプラクティック???」


来た道では気づかなかったのだが店構えはまだ新しい。

カイロプラクティックというのは、あの……ボキボキとかバキバキとかする、アレか? たしか肩こりとか腰痛にも効くんだったか? 名前は聞いたことがあるが、受けたことはない。

それにしても、身体が重い、ダルい、このまま帰るのは正直面倒だ。

俺は吸い込まれるように目の前の店へと入っていった。


新しい店の店主は30才にいっているか、いないかというくらいの青年だった。彼から店の簡単な説明を受け、体の状態を受け付けシートに記入し、施術を受けますという同意欄にサインをする。マッサージ屋で施術を受けるだけで免責事項にサインを求められる辺り時代を感じる。健康保険が使えないことに少しだけ不満を感じるが、親父さんの店も別に保険は使えなかったからと我慢する。まぁ、腕が良ければ問題ない。

下手くそだったら二度と来ないぞ、と心に強く刻み込む。

手足を上げたり体を捻ったりした後、上着を脱いだ俺はベッドの上でゴロリと寝転がった。


「ああ、だいぶお疲れですね」


店主の青年は俺の背中を手の平でペタペタと触りながら言う。


「仕事が忙しくて……」

「サラリーマンは大変ですね」

「ええ、まぁ……」


背中に加わる手に少しずつ力が加わっていく。細面な割に手は大きく分厚い。如何にもマッサージ師といった手だ。


「ああ、あそこのマッサージ屋に行ってたんですね。あそこのご主人、奥さんが体を悪くしたみたいで、それで介護のために廃業されたそうですよ」

「そうなんですか?」

「ええ」


徐々に掌圧が増していく。

探るような手つきだったのが、気づけば本格的な施術が始まっていた。


ぐむぅっ


手の平から背中へ圧力が加わる。

親父さんとは違う。親父さんは指でグイグイ押して、固まった筋肉を潰していくような感覚だ。押されるたびに痛み混じりの快感が背筋を走り抜けた。

しかしこの青年はずいぶんと違う。広い手の平でじっくりと押す。掌圧で筋肉の中に溜まった疲労を搾り出していくような感覚だ。ぐぅっと、力強く背中を押すことでじんわりとした快感が背中に広がっていく。


ぐぅぅ、ぐぐぅぅ……ぐぐぐぅっ


押される度に、背中に心地よさが伝っていく。

悪くない。

いや、むしろ良い。

寝たままでも、背中から疲労が押し出されていくのが分かる。


「ああ、左の背中の方が硬いですね」

「そうですか? 右利きなんですけどね」

「座り方とか、椅子の位置とかで、疲労の溜まり方が違いますからね。背骨って一本の骨じゃなくて、沢山の骨がダルマ落としみたいに重なって出来てるんです。右と左のバランスが悪いとそれが少しずつずれてくるんですよね。本当は緩いS字のラインになってないと駄目なんです」

「はぁ……」


蘊蓄(うんちく)を語りながらも、ぐむっと掌が背中の筋肉にめり込んでいく。抑えられているのは腰なのに背中全体が気持ち良い。


ぎゅうぅっ


尻の肉が押し込まれる。


ぐぅ、ぐぐぅっ


ももの肉が押し解される。

体重がかけられるとともに、筋肉に浸み込んだ疲労が押し出されていく。背面の筋肉がゆるゆるに緩んでいくのが良くわかる。

これは思った以上に気持ちいい。気持ちいいのだが……


「どうしましたか?」

「あ、いえ……」


気持ちいいのだが、思っていたのと何か違う。カイロプラクティックというのは、もっとこう、ボキボキ、バキバキするものではないのだろうか?

そんなことを考えた矢先、店主の青年が「起き上がってください」と声をかける。言われるがままにベッドサイドに足を投げ出して座ると、店主は背後に回り言う。


「背骨を調整しますね」

「はぁ……」


腕を組まされ、羽交い絞めのような恰好で身体が固定される。息を吸ったり、吐いたりさせられた。何が起きるのかと不思議に思っていると、背中に硬いものが当てられた。

これは……膝?

そう思い至った瞬間だ。


バキッ!!


背中が反り返ったかと思うと、バキバキと凄まじい音が体内で鳴り響いた。同時に背骨が波打つようにしなり、背中から尻まで衝撃が波のように伝播する。


バキ、ボキ、バキキキッッ!!


これは……背骨の鳴っている音か!?

背骨が動いてそこから音がなっているのだからそうとしか思えない。それに何より店主の青年はたった今「背骨を調整する」と言ったではないか。


ボキボキ、バキバキ、バキボキッッ!!


関節が鳴る。それは時間にして一瞬の出来事だった。

なるほど、先ほどかれが蘊蓄(うんちく)で背骨がダルマ落としのように重なっていて……と言っていた意味がよく分かった。彼の放った一撃は確かに背骨を浸透し、縦に積まれた背骨を一段一段S字に波打たせた。


「痛くなかったですか?」

「あ……いえ、全く」


その言葉に嘘はない。

先ほどの背骨の音は普段、指をパキパキ鳴らすのとはものが違う。凄まじい音だった。あれだけ音がなれば、それこそ骨が折れてもよさそうだというのに、、実際は全くと言っていいほど痛くなかったのだ。店主に「手を上げてみましょうか」と言われると、先ほどよりも明らかによく上がる。腕や肩などまったく触られていないのにだ。


「はい、じゃあ、次は横になって寝てください。次は骨盤を調整しますね」

「は、はい……」


もう言われるがままだ。俺はベッドの上で横になると身体を捻じって固定される。まるで学生時代にやった柔道の抑え込みの技のようだった。恐らくは言葉の通りに骨盤を調整されるのだろう。

店主が「いきますね」と声をかけ……


ガンッッ!!!!


先ほどのバキボキとは違う。今度の音は一度だけだった。

だが衝撃は先ほどよりも大きい。腰を抑えられていたはずが、全身の細胞が同時に揺さぶられるような衝撃だった。そして当たり前のように痛みはない。「足を上げてみましょうか」と言われたら、当たり前のように足が軽い。まるで重い荷物を取り除かれたようだ。

最後に上向きに寝させられて、そのまま首を捻られた。


コキッ!


首が鳴る。

施術が終わって立ち上がったとき、来る前にあった、ダルさも、倦怠感も完全になくなっていた。まるで全身の血液が全て入れ替わったかのような感覚だ。

カイロプラクティック……まさか、これほどとは……


バキボキ、ガンッ、コキッ


関節が鳴って、背骨や骨盤が矯正される。凄い経験だった。

店を出た俺は感嘆の息を吐いた。


「……次からは疲れたらここに来ようか」


彼ならば親父さんの変わりも務まるだろう。

足取りは軽い。

これならば月曜からも働けそうだ。まだ昼を回ったばかりだし、少し足を延ばして映画でも見に行くか。

生まれ変わったかのような体の感覚に満足しながら、俺の足は駅へと向かっていた。



<了>



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― 新着の感想 ―
[良い点] 以前、『破滅した令嬢』を拝見した際に、この様な作品をリクエストしたのですが、作者様の作風で読める事が嬉しいです。 『耳掻き』シリーズに通じるものが有りながら、バキバキ整体の臨場感も楽しめま…
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