第三章
宇龍が朱鞠と出会ってから数ヶ月が過ぎた。
二人は、親子同様に連れ立って出掛けるようになっていた。
宇龍が行く場所へは朱鞠もよくついて来た。
今日は、生前陀院が好んで訪れていた寺院へ二人で向かう予定だ。
都から東へ行った山麓に、その寺院天用武寺はある。
広大な敷地の中央には、黄金の丸屋根を持つ巨大な本殿が建っている。
そこを取り囲むように、いくつもの塔が天を突くように聳え立ち、
周辺には本殿に繋がる伽藍が多数配置されていた。
信者も多く、国内でも屈指の大寺院であった。
奥にある書院には、代々の管主が全国から集めた書や絵画等、美術品が多数保管されていて、誰でも自由に見ることができる。
宇龍は、以前海燕から息子が絵画に興味を持っていること、この寺院に足繁く通っていることを聞いていた。
ただ、当時の宇龍は武将の一趣味程度のものとしか思っておらず、関心を持たなかった。
しかし、今の宇龍はもっといろいろと息子のことを知りたかった。
彼が好きだった場所を訪れ、その足跡に触れてみたかったのだ。
寺院までは、馬車で半日程の距離だ。
都を取り囲む城壁の外に出ると、なだらかな丘陵地帯が続いている。
辺りは牧草地となっており、あちこちに羊が群れて草を歯んでいた。
馬車で街道をゆっくり走っていると、馬上からものんびりとした羊の鳴き声が聞こえる。
穏やかな秋の風が馬の鬣をなびかせ、手綱を持つ宇龍の腕を時々撫でた。
荷車の上で、朱鞠も適度に揺られて気持ち良くなっているらしい。
大きな欠伸を繰り返し、うとうととしている。
寺院へと向かう道すがら、小麦や野菜を積んだ荷車や都へ向かう人々と何度もすれ違った。
馬車を走らせながら宇龍は考えていた。
今日と同じ景色の中で、
今日と同じ風に吹かれながら、
陀院も同じ道を走っていたのだ。
これから行く寺院で絵画と触れ合えるのを楽しみにして。
この空間に包まれていた時こそが、
彼の生き甲斐だったのかもしれないと宇龍は感じていた。
遠くで牧童が羊を追っているのが見える。
宇龍の父親も貧しい羊飼いだった。
育てた羊を市場で売り、
その代金で家族を養っていた。
宇龍が軍隊に入り、手柄を立て出世する度に両親は喜んでくれた。
その喜ぶ顔が見たくて頑張ったものだ。
陀院も、父親に喜んでもらい、誉められたかったに違いない。
『軍人には向かないのではないか』
と思っていたかもしれないが、訓練が苦しくても辞めるとは言わなかった。
親に誉められたくて、懸命に頑張っていたのだろう。
そんな健気な息子の心に、宇龍は近づこうとしなかった。
身体能力が高い宇龍には、
凡庸な陀院の辛さが分からず、苦しさを共有することができなかった。
また、家での親子の会話に絵画のことが出たことは無く、軍事関係の話題ばかりだった。
息子といろいろな話しをすれば良かったが、当時の宇龍の頭の中には軍隊のことしかなかった。
親子の会話を重ねていれば、
別の人生が見えてきて、陀院の幸せに繋がったのかもしれない。
ましてや命を失うようなことにはならなかっただろうに。
寺院に着くと、管主の出梵がにこやかに出迎えてくれた。
「ようこそおいでなさった。
あなたが陀院様の御父上ですか。
御高名はかねてから伺っておりました。
どうぞお好きなだけ見ていってくだされ。」
管主はそう言って、回廊から続く大きな書院へ二人を案内した。
室内には、壁面や陳列棚に膨大な数の美術品が何段にも飾られていた。
出梵は、宇龍には息子のことをできる限り全部話そうと考えていた。
聞くことが辛いかもしれないが、知るべきだと考えていた。
それを知りたくて来たのだろうから。
「御子息は、来られる度にこの部屋に入られましてなあ。
いつまで経っても出て来ない。
心配になって様子を見に行くと、
必ず絵を見るか描いているかしてましたよ。」
「絵を見終わると模写をしたり新作を描いたりと、長い間ここで過ごしておられました。」
「気に入った作品は何度も描いておられました。
それに紙の上だけでなく、空中にも筆を走らせ、何やら独り言を呟いている姿もよく見ましたなあ。」
出梵は、絵を描いている陀院の様子を説明してくれた。
夢中になって、
声を出し、動き回り、空を切って身体全体で描いている息子の様子が伝わって来た。
「その鬼気迫る様子に、なかなか声を掛けられませんでしたなあ。」
出梵の話しから、宇龍が予想していた以上に陀院は絵が好きだった。
新鮮な驚きを覚えると同時に、親子でありながらも自分とは違う一面があることを宇龍は知った。
「これは御子息が好きだった画家の作品です。」
出梵が指し示した先には、大小数十点の絵画が天井近くにまで飾られていた
「よくここに、たたずんでおられました。
空に向かっては、画家の筆跡を何度も何度もなぞっておった。
その迫力に、まるで空間に絵が浮き出て来たようにさえ感じられました。」
そう言いながら、出梵は陀院のしていた仕草を真似て空中に描いてみせた。
それを見ていた宇龍の心には、
店内で怒られながらも、空間に何やら描いている朱鞠の姿が浮かんで来た。
「そうそう。
御子息の作品が残っております。
お持ちしましょう。」
出梵は奥の倉庫からいくつかの木箱を持ってきた。
箱には、何枚もの絵画が筒状に丸められ入っていた。
宇龍がそれらを一枚一枚広げて見ると、単色の顔料だけで描かれたものとは思えないほどの出来栄えだった。
一枚の絵には、戦っている羅刹の姿が描かれていた。
一人の敵を倒し、次の敵へと鋭い視線を投げかける瞬間を、切り取ったような作品だ。
荒々しく躍動的な構図、
力強く奔放な筆跡、
それでいて、羅刹の眼はどこか悲しげだった。
描かれた羅刹に宇龍は自分との共通点を感じた。
息子が自分を見て描いたのではと思ったくらいだった。
絵に表現されている感覚と、自分の感覚が重なり合い、俺の子だったんだなと少し嬉しくもなった。
宇龍の様子を見ていた出梵が話しかけた。
「御子息はあなたを誇りに思っておられましたよ。」
「俺を?」
「ええ。
自分の父親は、我が国一番の戦士だと嬉しそうに話しておられました。
しかし自分には父程の才がない。
それが残念だとも言っておられた。」
「そのようなことを陀院が言っていたのですか。」
予想してはいたが宇龍にとって辛い言葉であった。
「はい。
それは小さな頃から感じていたそうです。」
宇龍には陀院の凡庸さが悩みであったが、本人も以前から自覚していたとは悲しい現実だった。
それを承知で、父親の喜ぶ顔を見たさに毎日訓練を受けていたのだろうか。
宇龍は、今まで家で絵を描いている息子の姿を見たことがなかった。
そんなに好きだったのに、親子で話題にすることが殆どなかった。
「自分には軍人としての才能はない。
でも、絵画なら父にも誇れるものが描けると思う。
いつかは描いた作品を父に見てもらいたい。
その時は作品に表現した僕の強さや大きさも分かってくれるかもしれない、
と言われてました。」
宇龍は後悔していた。
そして思わず出梵に話しかけていた。
「息子ともっと話しをしたかった。
たとえ分からないながらも、何か感じ合えるものがあっただろうに。」
そして、
「俺はそうすることから逃げていたのだ。
あの子の話しを聞こうともせず、
ただ自分の知っていること、出来ることだけを一方的に押し付けようとしていたのだ。」
そう言うと息子の孤独に心が痛んだ。
「幼い頃、何かの折に描いた絵をあなたに褒められたことがあったそうです。
それ以来、絵を描く事が好きになったとおっしゃってました。」
大切な思い出のはずが宇龍は全く覚えがなかった
「御子息は彼なりにあなたに近づきたかったのですよ。
そして認めてもらいたかったのでしょう。」
「ここへ来られてからは、見る見る上達していかれました。
私共の眼から見ても、御子息には素晴らしい才能が備わっていたと思われます。」
出梵にそう言われ、宇龍は改めて息子の描いた絵をじっくりと眺めた。
その作品には大河と周辺で暮らす人々の様子が描かれていた。
『ああ 分かるよ
陀院 お前の絵からは滔々と流れる大河の音が聞こえて来る。
河の音だけではない、
浅瀬で遊ぶ子供達の声や、
馬の鳴き声や木々のざわめきも、
いやそれだけではない、
全てを包み込んで、悠久に流れ続ける大河の壮大さや、人々を見守るお前の優しい心根が伝わってくるぞ。』
『お前は絵画という世界で、立派に独り立ちしていたんだな。』
『軍人の息子だからと言って、軍人にならなければならない理由などない。
親の後を継がせようというのは、軍隊という狭い世界しか知らない、自分の身勝手さだった。』
『陀院 すまなかった。
お前の命を縮めたのは俺のせいだ。
俺の浅はかな身勝手さのせいだ。
俺がお前の話しを聞くことが出来ていれば良かったんだ。
お前の大好きな絵を、思う存分描かせてやれば良かったんだ。
それを許し包み込める心の大きさが、俺にはなかったのだ。
お前を亡くしてから気付くなんて、
俺は大馬鹿者だ!』
今になって、いくら悔やんでも悔やみ切れない。
宇龍は、陀院に対して申し訳ない気持ちでうつむいてしまい、
そのまま眼を閉じ強く唇を噛んだ。
出梵は、この親子に哀れみを感じていた。
次々と蓋を開けていくうち、幾つ目かの箱には丸い石のようなものが入っていた。
色は真っ白で大きさは握りこぶしほどだ。
形は丸く扁平で中心に小さな穴が空いていた。
材質は石のようではあるが、表面が鏡のごとく滑らかで、金属とも見間違えそうな光沢を放っている。
「これはっ!」
宇龍は驚きで息を飲んだ。
朱鞠が持っている石とそっくりだ。
色こそ違うが、大きさや形がうり二つだった。
材質も硬く一見金属のようにも見える。
眼を凝らすと、石の中に小さな光が無数にまたたいている様子も同じだ。
手に入れた方法も似かよっていた。
陀院も、寺院で空間に絵をよくなぞっていたという。
その最中に、朱鞠のように空間の奥から掴んできた物なのではないか。
以前、朱鞠から黒い石の話しを聞いた時は半信半疑だった。
しかし今は心から信じることができた。
家では何も言わなかったが、不思議な体験を息子もしていたに違いないと、宇龍は確信した。
石を見た朱鞠も同様に驚いた。
空間に描くのは、自分だけがしていたことと思っていた。
しかし、ここにも自分と同じ体験をしていた人がいた。
更に白い石を掴んだ陀院は、自分と同じ孤独な人間ではないかと感じた。
二年程前に、何かに導かれるように、無心で手を伸ばして掴んでみた黒い石。
この人も同じように、歪んだ空間の奥から石を掴んで来たのだろう。
しかも、この人は軍人さんの息子だった。
『どんな巡り会わせだったんだろう。
もし生きていて話しが出来たなら、俺のことをきっと分かってくれたに違いない。』
朱鞠は陀院に強い親近感を抱くとともに、この親子が他人とは思えなくなった。
不思議な繋がりが三人を結んでいる、
そんな気がして仕方がなかった。
宇龍は、息子の大切な形見として、石をもらい受けた。そして朱鞠がしたように、石の穴に紐を通して首から下げた。
箱には、陀院の名が記された【天界】と書かれた絵が一緒に入っていた。
その時人の騒ぎ声が聞こえて来た。
出梵達が声のした玄関へ行ってみると、一人の僧が数人の兵士に取り囲まれていた。
「どうなさいましたか?」
出梵が尋ねた。
僧は困惑した表情で出梵に言った。
「寺を取り壊す命令が出されたらしいんです。」
「どういうことですか?」
出梵が、兵士の中でも階級の高そうな男に向かって聞いた。
「この寺は移転されることが決まったんだ。
近いうち今の建物は取り壊される。
お前達は知らんのか。」
とその男は小柄な出梵を見下ろしながら答えた。
他の兵士達はニヤニヤしている。
「そのようなお話しは何も聞いておりませんな。
一体あなた方はどなたですか?」
「俺達は一番隊の隊員だ。
上からの命令で取り壊す寺の下見に来たんだ。」
兵士達の居丈高な態度に出梵が気分を害し、
「いつそのようなことが決まったのか知らんが、
この地に建立されたのにはれっきとした理由がある。
それは国からも認められていることじゃ。
何処にでも簡単に移せるものではないことを、あなた方は知らんのか!
いったい誰がこんなことを決めたのだ。」
「そんなことは俺達には分からん。 命令された通り動いているだけだ」
「あんた方に誰が命令したのじゃ?」
「隊長からの命令だ。
それがどうかしたのか。」
「よいかな、
ここは千年も前から信仰が続いており、国内にも多くの信者達がおる。
不用意なことを考えると、信者全体を敵に回すことになるぞ。
今日はこのままお引き取り願おう。
帰って上司に伝えなさい。
寺の移転は無理ですとな。」
出梵の強い口調にその兵士は怯みかけたが、虚勢を張って大声をあげた。
「なにぃ
お前は自分が何を言っているのか分かってるのか?
国に逆らおうとしているんだぞ。」
その時、ふと後ろにいる大男の存在に気付いた。
『あいつは二番隊の隊長だった宇龍じゃないか?
何故こんな所に?
確か息子を死なせて腑抜けになってしまったと聞いたことがある。
神へすがりにでも来たか。
よし ひとつからかってやろう。』
「いいかこの寺を壊すには相当人手がいるんだ。
そこの大きいの、
力がありそうだ。
その時は雇ってやろうか。
名前はなんというんだ?」
黙って聞いていた宇龍が口を開いた。
「奥の書院も壊すのか?」
「当たり前だ。
この建物は全部壊すんだ書院だけ残すわけないだろう。」
「中の絵はどうなる?」
「さあな、たぶん片っ端から丸めてぽいだろうな。」
兵士は調子に乗っていた。
まるで紙屑を捨てるかのような仕草をして見せた。
それを見た宇龍の眼が微かに光った。
「そんな事はさせん。」
宇龍がそう言うと、
「させなければどうするんだ?」
兵士は調子に乗って宇龍に近づき、胸ぐらを掴んだ。
宇龍の眼がゆっくりと兵士に向けられた。
兵士に多少とも武術の心得があれば、既に殺されていたことが分かったかもしれない。
その時宇龍の眼は殺気に溢れ、その間合いはあらゆる方向から兵士を襲えるものだった。
しかし兵士は全くの未熟者だった。
「貴様手向かうのかあっ。」
と勢いだけで大声を発しながら、刀の掴に手をかけようとした。
その瞬間、腕を取られ、刀を奪われ、喉元に突きつけられてしまった。
その動きの早さに、他の兵士達は何もできずただ見ていただけだった。
「帰って久龍に言え。
ここは壊させん、
もし力ずくでやるというなら俺が相手になる。」
宇龍はそう言って、捕まえていた兵士を突き飛ばした。
兵士は、部屋の隅まで吹っ飛び柱にぶつかって気を失った。
宇龍は奪った刀を持ち、兵士達の前に立ちはだかった。
その迫力に兵士達は何もできず、気絶した兵士を抱えて一目散に逃げ帰った。
城に戻った兵士達から久龍は報告を受けた。
失敗をすると必ず罰則を受けるので、兵士達は一様にびくびくしていた。
しかし久龍は怒る様子が無かった。
それどころか内心喜んでいた。
『向こうから来てくれた。
これで、寺院に巣くう賊を征伐するという名目が出来た。
寺の僧侶達も共犯だ。
その上相手は宇龍だ。
少しばかりの兵士では押さえられないぞ。
軍を差し向けられるな。
そうだ、二番隊を行かせよう
宇龍の奴を元の部下達に殺させよう。
宇龍もむざむざ殺されはしないだろうから、相当数返り討ちにするはずだ。
掴み所の無い海燕も目障りだ。
ついでに海燕が戦死でもしてくれれば、願ったり叶ったりだわい。
そうなれば二番隊の戦力は低下する。
弱体化した二番隊を一番隊が吸収してしまえば、誰も我が隊に逆らえなくなる。』
以前から、宇龍を始めとする二番隊の存在が目障りだった久龍にとって、これは又とない好都合だった。
『これは出だしから面白い事になってきたな。』
久龍は一人でほくそ笑んでいた。