60km/h
とばしているつもりは無かった。
夜の旧街道、ひたすら真っ直ぐで見通しが良い。道幅も広い。
何故か制限速度は30km/h。
ここなら制限50km/hでも大丈夫じゃないのか?
右足が自然アクセルを踏み込んでいく。対向車も後続も無い、いくらでもとばせる道だ。
ヘッドライトがアスファルトの単調なセンターラインを映しだす……
いきなり目の前に人影が現れた。
「ばっ……!?」
ブレーキを一気に踏み込む。間に合わない。
衝撃音!
人影がボンネットに乗り上げる。
勢いよくフロントガラスに貼り付いた。女だ。
女と目が合った……
車が停まるとその反動でごろごろとボンネットの上を転がり……ヘッドライトの下へ消えた。
ひびの入ったフロントガラスに塗りたくられた様な血が、事実を物語っている。
(マジか……!?やっちまった……)
なんでこんな処に。
冗談じゃない。
いや、ここで座ってちゃダメだ。
安否確認…
…安否確認をしないと。
車を降りてヘッドライトに照らされた女に近寄る。
息が無い。
警察……警察に……ケータイ、ケータイで連絡しないと。
震える指で110番を押した。
────────
「連絡してきたのは貴方ですね?どうしました?」
初老の警官が運転手に声を掛けた。
もう一人、若い警官が車の前方に近寄り周囲を確かめる。
「ひ、人を……はねてしまって……」
「どの人を?」
「どの人をって!そこにいるじゃ……」
その時若い警官が声をあげた。
「被害者らしき人物はいません。バンパー、フロント共に接触痕無し」
「…………え?」
運転手は車を見た。フロントガラスはひび一つ無く綺麗だった。
「……タイヤ痕を見るとだいぶとばしていた様ですね?何キロ?」
「あ……50km/h……くらい」
初老の警官が口許をにやつかせた。
「いやぁ、60km/hでしょ?記録してませんからキップは切りませんがね。疲れて見間違いをしたんでしょうな、一応呼気を計らせてもらいますよ」
三十分後、運転手は帰された。
────────
「本部こちら501、旧街道、接触事故の件、いつものやつ、処理終了」
『…本部了解……ヤスさんお疲れ』
初老の警官、ヤスさんが本部に連絡を入れた。運転席の若い警官がパトカーを発進させる。
「ヤスさん、『いつもの』ってなんです?」
「あぁ、純ちゃんはお初かい?……昔はここも制限速度50km/hだったなぁ」
ひたすら真っ直ぐな旧街道。ゆっくりとパトカーは進む。
「制限速度下げたけど、まだたまにあるんだよ……二十年にもなるか」
「何がです?」
「あそこで事故があってからさ」
ヤスさんは辺りの風景に目を配る。誰もいないとはいえ周囲に注意を払うのが癖になっている。
「……若い女がね、轢き逃げされたのさ。まぁタイヤ痕だの塗料だので犯人はすぐ割れたけどねぇ」
「若い女性ですか」
「それからさ。今みたいなのがたまにある。女をはねた、死んでるってのがさ……現場に着くと」
「……被害者がいないんですか!?」
純ちゃんと呼ばれた若い警官は眉をひそめた。
「それって幽……」
「犯人挙がってんだよ?成仏するだろ普通。……まぁ俺達が視る事はまず無いがね」
やがて旧街道の終わりに近付き、純ちゃんの視界に赤い点滅が見えてきた。
赤信号だけの信号機。
点滅する先はT字路だ。正面に高台のノリ面が壁の様に迫る。
パトカーは停止線で一時停止すると左に折れた。
「今のノリ面な、衝突事故多いから。覚えておきな」
「そうなんですか?」
「何故か一時停止しないでノリ面に突っ込むんだよ……最近はシートベルトやエアバックで死なないけどな」
「昔は」
「あぁ……助かった奴の云う事にゃあ、女をはねた、怖くなって逃げた。だと」
「え?さっきの場所ですか?」
「よっぽど怨んでんのかねぇ、60km/h超えると出るらしいや」
それが轢かれた時のスピードだろうか?純ちゃんはそう思った。
「面白ぇのが最近ほれ、ドライブレコーダーがあるだろ?見るとな、誰もいないのに急ブレーキさ。それで運転手が慌てて降りてくるんだ」
────────
それから半年。ヤスさんのパトロールは今夜で最後という日だった。
後は事務仕事を半年やって定年である。
「旧街道に行ってくれ」
ヤスさんは純ちゃんにそう言った。
「旧街道ですか?何でまた」
あの幽霊の話は近隣の住民にはよく知られているらしく、夜中あそこを通る者は少ない。
パトロールにはあまり意味が無い場所である。住宅街を回った方がいい。
「あぁ……ほれ、最後だろ?ちょっと試したい事があるのさ」
ヤスさんはいつもの様に周囲に気を配りながら助手席に座っている。
旧街道の端から進入して、幅のある真っ直ぐな道を進む。
制限速度30の標識が一定の間隔で過ぎていく。
街灯の少ない旧街道は暗い。遠目から見ればパトカーのヘッドライトだけが道を進んでいるのが解っただろう。
「なぁ、ちょっとお願いだ。60出してくれ」
「ええ!?なんでまた」
じきにあの場所だ。
「頼むよ、俺が合図したら急ブレーキな」
純ちゃんは訳が分からなかった。
とはいえ、ヤスさん最後のパトロールだ。ちょっとくらいならいいか、と純ちゃんはアクセルを踏む。
ぐんぐんとスピードが乗る。ついぞ捕り物が起こらない地域だ、パトフォンを鳴らして制限速度を超える走りを純ちゃんはまだした事が無かった。
「はは、気持ちいいもんですね?」
「はしゃぐなよ……じきだな」
あの場所に近付く。
「ブレーキ!ブレーキだ!」
ヤスさんの怒鳴り声にブレーキを踏み込む。
ぐっ、と停まるパトカーの目の前に……
……血塗れの人影があった。ぶつかる寸前だった。
「……っ!?」
純ちゃんが声にならない声をあげた。
……女だ。
身体中真っ赤に染まり、頭がぱっくり割れているのが見えた。
二人がそれを確認した瞬間、その姿は霧の様にぼやけ、消えていった。
「あ、あ、ヤスさん?」
「……出しな。ゆっくりな?周囲を確認しながら進め」
先程とはうって変わって歩く様なスピードでパトカーが動く。
二人はあちらこちらに注意深く目を凝らした。手持ちのライトで照らしながらパトカーを進ませる。
「……いませんね?」
「まぁ……そうだろうな。よし、パトロールに戻るか」
パトカーが走る。
あの場所からある程度離れるまで二人は無言だった。
「……俺はなんだか腹が立ってきたよ純ちゃん」
やがてヤスさんはそう呟いた。
「ヤスさん?」
「視たかあの女?悔しそうな面しやがった」
「いや、幽霊なんだし」
「違ぇよ、俺は恨めしい面してんだと思ってたんだ。二十年も犯人を恨んでんだとばかり思ってた……くそっ」
純ちゃんはヤスさんの言葉の意味が解らなかった。
「え?え~と、ヤスさん?」
「解らねぇか?アイツの面……『ぶつかれなくて悔しい』って面だあれは!」
ヤスさんがサイドボードを足で蹴る。今までそんな事はした事が無かった。
「当たり屋か!!アイツわざとぶつかって運転手ビビらせてんだ。楽しんでやがる」
「ぅわー……マジかー」
やがてパトカーはT字路を曲がった。
「なぁ純ちゃん、これからもあそこで発報があるだろうがな、気を抜くなよ?」
「はぁ」
「ほれ、狼男?『オオカミが出たぞー』ってやつ」
それは狼少年だと思ったが、純ちゃんはつっこまなかった。
「気を抜いてると本当にあそこで事故が起きた時困るからな?」
「あぁ……はい」
ヤスさんはその後、半年して予定通り定年退職した。
数年後、あの場所にスピードガンが設置され、幽霊話は消えていった。皆あそこでスピードを落とす様になったからかもしれない。
純ちゃんは新しい相方と今もパトロールを続けている。
────────おわり