壊れた感情
冷えきった空気が、チリチリと肌に刺さる。どくどくと早鐘を打つ心臓は、何を恐れたのだろう。
静まり返る室内に、問いかけに対する答えが返ってこないことに苛立った様子のレイ様は、すっと目を細めた。
あぁ、またあの目だ。と、そう思った。静かに見える海でも、深海までがそうとは限らない。火山の熱気に、深海魚が上を目指しているかもしれないのだ。
まさしく、彼の瞳はそれと同じ。
しんとした瞳の奥では、きっと怒りやら何やらが渦巻いているのだろう。
そんな彼の瞳をその背に受けているモニカさんは、気持ち青白い顔をしているように見えた。
彼女の顔を覗きみようとすると、モニカさんは少しだけ顔を上げて微笑んだ。大丈夫、そう言うように。
そして、真顔に戻ってゆっくりと立ち上がる。そのまま振り返り、レイ様と目を合わせた。
「……本日、リィゼ様に来客がありました。そのため、応接間にお通ししました」
腰をおって、頭を下げた状態で告げるモニカさんの声は、凛としたものだった。
けれどその肩は微かに震えていて、声に出さないように務めているのがひしひしとわかる。それを見て、私は唇を噛んでいることしかできなかった。
「………何故触れさせたと?」
そんなことは聞いていない、とでも言いたげに腕を組んで問いかけたレイ様は、一度だけ私を視界に捉え、またモニカさんにずらした。
「はい、帰り際、彼女の右手に口付…」
モニカさんが言い終わる前に、レイ様はスタスタと歩いて来て、私の右手を取った。
そして、ぐりぐりと骨がなるほどに強く私の手の甲を拭った。
「痛っ、」
私が痛みに手を引き抜こうとしても、彼が離すわけがなかった。
声を上げても、気にしたふうでなく、ため息をつく。
「………はぁ。だから外に出したくなかったんだ。リィゼが汚れる。………いっそ、触れたところを削ぎ落とそうか」
………え?
……………削ぐ?
「レイ様!」
冗談としか思えない彼の言葉でも、続くモニカさんの焦った声がそれに真実味を帯びさせる。
一瞬にして、私は想像してしまった。深紅の血に濡れる私の右手を。
………ゾッとした。
私の本能が、今すぐ手を引け、と警鐘を鳴らす。けれど、思いのほか強い彼の手は、私の右手を離さない。
もう赤くなっている右手は、感覚が麻痺し始めた。
怖い、怖い。涙が出そう。
そうか、彼に感じていた恐怖の正体。
本能的に危険を感じていたのだ。
モニカさんがレイ様の手を離そうとするけれど、彼はびくともしない。
やがて抵抗することでさえ無駄なのでは、と思い始めた時、彼が私の手を離した。
レイ様を止めたのは、ロムさんだった。
「リィゼ様が怯えていらっしゃいます」
窘めるように、静かに告げられた声は、静かな部屋で耳鳴りのように響き、それにいち早く反応したのは、モニカさんだった。
「レイ様、彼女を怯えさせたい訳では無いと、先日おっしゃっていたじゃありませんか。今回の事は私の責任です。償いはなんなりと」
私とレイ様の間に割るように入り、彼の意識を私から外そうとしてくれるモニカさん。
けれど、私は彼女の言葉に胸が痛くなった。
モニカさんのせいじゃないのに。私のためにしてくれたことなのに。
「…………………………」
レイ様は、私から視線をずらし、モニカさんを見、さらにロムさんにずらすと、ゆっくりと隣の部屋に続くドアに向かって行った。
そして、ドアを開けると立ち止まり、振り返ることなく、
「…………モニカの処分は後ほど考えておく」
そう言って、隣の部屋に消えた。
彼がいなくなった部屋は、再び静まり返っていた。
そんな中、私は震える声で頭を下げる。
「モニカさん、ごめんなさい………私の、せいで…」
尻すぼみになっていく私の言葉に、モニカさんは微笑んでゆるゆると首を振った。
「よいのです。本来ならば私は、主人に意見した時点で解雇されてもおかしくはないのですから。それでも雇っていてくださったのは、あの方の慈悲です」
モニカさんは、この間レイ様と共に郊外に行った時のことを言っているのだろうか。
あの時は、モニカさんのおかげでレイ様の優しさに触れられた。
けれど今は。
ゆっくりと息を吸うと、視界がボヤけた。瞬きをすると、ポタリポタリと水滴が落ちる。
モニカさんにハンカチを差し出されて、自分が泣いていることに気がついた。
………怖かった。
ただただ、彼が怖いと思った。静かな瞳も、乱暴に手を拭う指も、冷たい声も。
先日言いつけを破ってリリックに会ったことを知られたらと思うと、肝が冷える。
逃げ出したい。
ここにいれば、きっとまた怖い思いをする。
言いつけを守ってさえいれば、そんな思いしないのだろうけれど。でも、そうしたら。
自由もなく、友人にも会えず、部屋から出ることさえ出来ず。……私は、一体何のために生きてるの?
彼のそばにいるだけの、人形のように生きるの?
赤くなった右手を握りしめると、シャラりとブレスレットが震える。
あれだけ嬉しかったはずのそれですら、私を捉える手錠のように思えてくる。
幾度も流れる涙に、モニカさんは優しく私を抱きしめてくれた。
その温もりが、故郷の家族を思い出させて。
涙が余計に溢れた。




